第七十一話 嘘だと言ってよ
「嘘……だろ……!? どうして……!!」
今、何を見ているのか。
今、誰の姿を見つめているのか。
「どうしてあんたが邪魔を……んぐっ!?」
だが、俺がその憐れむような冷ややかな表情で静かに見つめている女神の名を口にすることはできなかった。俺とマリーを遮っていた手のひらが優しく俺の口をぴっちりと塞いでしまったからだ。
「むぐっ! むぐぐぐぐぐ……!!」
声が出せない!
っていうか、窒息しそうなんですけど!
俺の正面にいるマリーもまた、その女神が誰だか一目で気付いていた。
「そんな……!」
が、次に彼女が発した一言で、言葉を失った。
「あなたに《女神の加護》を授けさせる訳にはいきません。もしそうすれば、勇者たる彼は無事では済まなくなるでしょう。彼の者の身を案じるのであればこそ、素直に止めておくのがよろしいかと」
金色の長い髪をした選ばれし至高の女神、《女神9》の一人であり、歌を司る女神・アオイデーはそよ風に旋律を載せて歌うように言い放った。
「よくやった、女神・アオイデー」
二、三度、手を打ち鳴らし、アルヴァーは言った。
「アオイデーの言うとおりだ。もしもお前が新たな《加護》なぞ手に入れようと物の数ではないがな? だが、英雄神たるこの俺は、きっと手加減抜きでお前の身体をバラバラにしてやっただろうとも! いいからもう諦めてそこで見物でもしてるんだな!」
「んぐぐぐ……ぷはぁっ!」
ようやく解放された。
だが、すっ、と息を吸った瞬間、アオイデーと目が合った。
その鋭い目線に見つめられ、俺は叫ぼうとしていた言葉をすんでのところで呑み込む。
分かってますよ、助けてくれたってことくらい!
もしマリーの持つ《女神の加護》を授かってしまえば、俺が元の世界に戻れなくなるだろう、なんてことは承知の上だった。それに、絶対的な力の差があるアルヴァーは、まだ俺に対して本気を見せていないことくらい気付いていた。彼自身が口にしたとおり、《女神の加護》を手に入れた勇者を徹底的に排除しようと持てる力を解放して対抗する、そんな可能性は大いにあった。
だからこそ、アオイデー――葵さんは止めたんだ。
それでも――それでも!
ただ己の無力さを噛み締め、事の成り行きを見守ることくらいしかできない俺の目の前で、遂に《封魔の儀》が始まった。
ずらり。
控えの男神よりところどころに宝玉を散りばめた鞘に納められた大剣を片手だけで無造作に受け取ったアルヴァーは一気にそれを抜き払う。白く輝く刀身は金属というよりも大理石のような滑らかな白亜の光を放っている。それをもう一方の手に軽く打ち付けながら、アルヴァーは魔王に向けて嘲笑うかのように告げた。
「いよいよだな。この《断魔剣》は、お前の魂とこの世界を繋ぎ止めている理を断ち切ってしまう力を持っている。切り離されたお前の魂は、二度とこの世界に戻ってはこれないだろう」
しかし、言われた魔王は難しい顔付きをして眉間に皺を寄せていた。
その感情を憎しみと呼ぶのは少し違う気がする。
「はっ! そう睨むなよ、魔王!」
「そうじゃないんだけどね」
「……何?」
ピンと来てしまったのは俺だけだったらしい。
「違うんです、アルヴァー」
「……何だ、まだいたのか」
「そりゃいるでしょ。ぴくりとも動けないんだし」
魔王自身が説明しようとしないので代わりに言う。
「ええとですね……そこの魔王、かなり目が悪いんですよ。何たって、魔王の居城にある薄暗い自分の部屋にこもりっきりで、ひたすらネットとゲームと漫画三昧の、ひきオタ生活の日々を過ごしてきたんですからね。要するに、この世界に害を成すことなんて一つもしてな――」
「余計なことは言うなエセ勇者。往生際が悪いぞ」
肝心な科白は端折られてしまった。
「ううむ……それでは都合が悪いな。封滅する俺様の姿がはっきりと見えないのでは、《断魔剣》の力が十分に発揮できないのだ。おい、誰か! こいつの眼鏡を持ってきてやれ!」
「無駄だね。僕、眼鏡なんて持ってない。作ったこともない」
「何故だ?」
「別に。特に見たい物なんてなかったしね」
「……くそっ!」
どうやらこの状態では儀式が続けられないらしい。
困ったアルヴァーは、広場に集まった神と女神に向けて声を大きくして呼びかけた。
「誰かいないか!? こいつに眼鏡を作ってやれる神か女神は!」
すると、列の前の方にいる一人の老神がおずおずと枯れた右手を挙げた。
あ、さっきのおじいちゃん(神)じゃないか。どうも縁があるな。
「儂じゃろうな」
「そうか! あなたがいたな、アウグストゥス。早速頼まれてはくれないか?」
「いいとも。もちろんじゃ」
老神・アウグストゥスは顎髭をしごきながら頷くと、左右に、ちょいちょい、ちょいちょい、と手招きをした。すると、それに応じるように数人の女神が彼の下へと寄り集まってきた。彼女たち一人一人の顔を見てそれぞれに頷き返すと、女神たちを従えたままの老神・アウグストゥスが壇上にゆっくりと上がってきた。
「まずは検眼からじゃな」
「い――いやいやいや! そんな余裕なぞない!」
「必要なんじゃよ。手早く済ませるわい」
その後のやりとりはかなりシュールだった。
壇上の右手に魔王が座らされ、左手にはアウグストゥスおよび女神たちが立ち、いずこからか持ち込まれた検眼表――例のCがいろんな角度で描かれているアレである――を魔王に向けて見せる。それから、えっとお、これはどっちかなぁ、などと甘ったるい声の女神が指示棒で一つ一つ指し示しては、むっつりと顔を顰めた魔王が素直に答えていった。
「……っ」
明らかに苛立った様子のアルヴァーが辛抱できずに口を挟もうとすると、ようやく望む結果が得られたらしい老神はにこにこと相好を崩し、隣に立つ女神に右手で合図を送った。すると、アルヴァーの目の前に大き目の木製のトレイが差し出され、彼は仕方なく口にしようとした言葉を飲み下してから、代わりの問いを口に出した。
「……これは何だ?」
「眼鏡を作るにはフレーム選びが大切じゃ。ほれ、どれが似合うか、選んでおやりなさい」
「どうして俺が――!?」
「おや? 解放していいのか、魔王を?」
「ええい! くそっ!!」
確かに魔王に好き勝手にさせる訳にはいかないだろう。すっかり老神のペースに巻き込まれ、渋々アルヴァーは魔王のためのフレーム選びをする羽目になってしまった。
とは言うものの、アルヴァーもまた生まれてこの方、眼鏡なんぞのお世話になったことはないらしい。難しい顔付きのまま、目の前に並べられた眼鏡のフレームをしばし親の仇のように睨み付けていたが、すぐに匙を投げて当の魔王本人に矛先を向ける。
「お、おい、魔王、お前はどういうのが好みだ!」
「知る訳ないでしょ? 作ったことないんだってば。僕に似合うのを選んでよ――最後なんだし」
「おまっ……ふざけるなよ!?」
「ふざけてないってば。ここには鏡もないんだから、君のセンスに任せるしかないんだ。お願い」
「……っ」
最後の一言を耳にすると怒ったようにアルヴァーは魔王から視線を外して、再びフレームを睨み付ける作業に集中した。
やがて――。
「これに決めたぞ、俺様は!」
「ほう」
丸みを帯びた柔らかい印象のオーバル型、やや逆三角形に両脇の上がった楕円形が知的な印象のボストン型、角の部分に丸みのある逆台形型をした定番のウェリントン型、正円に近い楕円形がどこかコミカルで可愛らしい印象を与えるラウンド型――形一つとってもさまざまなフレームがある中で、アルヴァーが摘み上げ天に向けて高々とかざしたのは、直線的でシャープな印象のスクエア型のフレームだった。艶のないシルバーのメタルが鈍く光を反射している。
ただ、少し意外なチョイスだと誰もが思っていた。
見上げる魔王も思いは同じだったようだ。
「どうしてそれなのさ? 僕がかけるには、随分と大人っぽい印象だと思うんだけど?」
「――!?」
アルヴァーは明らかに動揺している。
「う、うるさい! い、嫌なら他の奴に選び直してもらえばいいだろうが!」
「怒らないでよ、アルヴァー」
魔王は苦笑しつつ、アルヴァーに向けて、くい、と顔を突き出すようにして目を閉じた。
「他ならぬ君が選んでくれたんだもの、僕もそれがいいな。ね? かけてみてくれない?」
「わ、分かった……」
こわごわ、と表現するのが相応しい何ともぎこちない手つきでアルヴァーは手の中のフレームをゆっくりと押し広げ、微かに震える手をそろそろと伸ばして魔王の顔に近づけていった。
「こ、これで……いいのか? 俺はちゃんとできているのか? ううう……緊張するな……」
どうにか正しい位置にフレームをセットすると、手が離れた感触を感じ取った魔王が、ぱちり、と目を開いた。
「――!!」
「どう……かな? 変じゃない?」
「……」
「?」
怖い顔をして黙り込んでしまったアルヴァーを魔王は不思議そうに見つめ、小首を傾げて問いかける。
「ど、どうしたんだよ、アルヴァー?」
「な……何でも……ない」
アルヴァーは掠れた声を絞り出すと、背を向けて後ろに控えていた老神に命じた。
「……さあ、これでいいだろう。最後の仕上げをしてやってくれ。出来上がり次第、《封魔の儀》を再開する」




