第四十六話 元の世界に戻りたい?
かねてよりファンタジーやら勇者やらに憧れを抱いていた俺だったが、不幸な、本当に不幸な出来事によってこの《ノア=ノワール》と言う異世界に召喚されることになり喜び勇んでいたのも束の間、それが意外な形で裏切られてしまい、それにはやはり悔いが残っていたのだ。
ようやっとこうして勇者としての本来の使命を与えられた訳なのだから、その先に苦難が待ち受けていようが、突き進むのが筋ってモンだろう。
『やるんだ。やっぱ』
『うぇ……駄目ッスか?』
『駄目じゃないけどねー』
葵さんは止めなかったが、
『魔王の討伐って、それなりに危険だよ? それも《女神の加護》なしで。最悪、死ぬまであるけど』
うっ……それはそうだろうけど。
『ほ、ほら、神殿で復活の儀式とか――』
『それ、今は女神がやってる。《加護》使ってね』
『あー』
駄目じゃん。
初見のRPGをノーミスでクリアしないと、か。
早速不安になってきたんだが。
『まあ葵さんは、君ならきっとそう言うだろうと思ってたけどねwwwww』
良い科白っぽいんだから、草生やすな。
返事を書こうとしていると、連投でメッセージが届いた。
『君の無謀な挑戦を手助けしてくれる冒険者を二人用意しておいたよ。腕は確かさ。葵さんが保証してあげちゃう。腕だけは、だけど。……どうする?』
その思いがけないメッセージを目にした俺とマリーは思わず顔を見合わせた。
近い。慌ててのけぞるように少し距離を置く。
すると、その僅かな距離を詰めるようにして、マリーはじっと俺の目を覗き込んだ。
「やっぱり……戻りたいんだよね? 元の世界に」
「そりゃあ――」
何故か俺は、即答するのを躊躇ってしまった。
そのもやもやしたものを振り払うように首を振ってから俺はマリーに告げた。
「――戻る。戻りたい」
「そっか……」
マリーは小さく呟いて視線を外し、俯き加減に顔を伏せた。
そして、座ったまま膝の間に両手を挟み込むように身体を丸めて、ぽつり、と切り出す。
「何で、って……聞いてもいい……かな?」
「それはだって……」
言葉に詰まる。
「ほ、ほら。この世界に勇者として召喚されてきたのに、肝心な『魔王討伐』をしないってのは何かまずいじゃん? ずっとこのまま――って訳にはいかないだろ? おかしいよ」
「そう……かな……?」
マリーの様子は変だった。何かを考え込んでいるようにも見える。
「でもさ? それはショージのせいじゃないじゃん。それに……それって、ショージがどうしたいか、ってのと違くない?」
「そりゃあ……まあ……」
ますます言葉が出てこなくなる。
「あたし、それを聞きたいんだよ?」
「うっ……」
どう答えればいいんだろう。
元の世界の、あの時のあの瞬間に戻って、名前もロクに知らないあの子に会いたいから、会って話をしてみたいから、そう答えるべきなんだろうか。
いいや。そうじゃない。
もう、そのために戻りたい、と思っていなかったから――だから答えられなかったのだ。
戻りたい理由が俺の中で限りなく薄まって希薄になり、もはや戻ることそのものが唯一の理由として辛うじて心の片隅に引っかかっているだけだった。
けれど、このままじゃ駄目だ、という俺もいる。
俺が何もせずこのままここに留まれば、神と魔王の対立は続くだろう。天界の片隅に身を置いている俺はいまだ魔王の悪逆非道なる振る舞いを垣間見ることすら出来ていなかったが、それに苦しめられ、悲しみに暮れている人が少なからずいるかと思うと、とても、このままでいい、とは言えなかった。
それにだ。
勇者は同じ刻に二人同時には存在できない――これは葵さんがこっそり教えてくれたことだったけれど、俺がこうしてこそこそ身を隠している限り女神たちは本来の役目である《加護》を授けることができず、女神ポイントシステムは根底から覆されてしまうことにもなる。何より俺は、この先もずっと逃亡者紛いの生活を強いられることになるのだろう。
この際、俺のことはいい。
それより――マリーだ。
彼女、女神・マリー=リーズにこれ以上頼ってしまっていてはいけない、そう思っていた。ここはマリーだけの空間で、ずっと俺は居候をしている。衣・食・住にかかる費用だってある筈で、それは全て、マリーが今まで一生懸命になって貯め込んできたメガポで賄っているに違いない。そう思うと申し訳ない気持ちでいっぱいだったし、マリーにはマリーの生活や暮らしがある。それを台無しにして踏み台にして、ただ甘えている自分がとても嫌だった。
そして――。
次の理由を探そうとして、俺は、はっ、とした。
ここにいちゃいけない理由をそこまで並べないと、戻らなければいけない、そう思えなくなってしまっている自分自身の心に気付いてしまったのだ。
「聞いてくれ、マリー」
俺は――素直に言うことにした。
マリーには、マリーにだけは嘘を吐きたくなかったから。
「正直に言うよ。どうして戻りたいか――本当は俺にも分からなくなっちゃってるんだよ」
じっと見つめる先にいるマリーは、怒ることも笑うこともせず、同じように俺を無言で見つめていた。
「……でもさ、俺はそれでもやっぱり勇者でさ? マリーや葵さんやいろんな人に出会えて、優しくしてもらったり、助けてもらったりしたじゃん? だから少なくとも、そのお返しはしないといけないな、って思ってる。俺にしか出来ないことなら俺がやらないといけない、そう思ってるんだ」
「でもそれって、やっぱり理由じゃないよ?」
「うん。そう。これは理由っていうのとは違う」
俺は頷く。
「やっぱり、俺はこの世界が望んだ勇者じゃない。でも、だからこそやるべきことをやろうと思うんだ。魔王の討伐こそが勇者の使命――だろ?」
そこで言葉を区切って、俺は俺の中でようやくまとまりつつある考えをマリーに打ち明けた。
「そして全てが終わった後に、やっぱり俺はこの世界に必要がない、間違った存在なんだ、ってことがはっきりしたら……俺はこの世界から消えなきゃ。元の世界に戻らないといけないんだ。そう思う」
そうなのだ。
俺がいなくなればこの世界は元の秩序を取り戻す。
俺さえいなくなれば。それで――いい。
話を聞き終えても、マリーはしばらく口を開こうとはしなかった。俺ももうそれ以上言葉が出てこなかったし、いまさら別の言葉で取り繕うこともしなかった。長い沈黙の後、マリーは、ぽつり、と言った。
「……分かった。ショージが決めたことなら、あたしも手伝うから」
「おい! メッセ読んだろ? 危ないって!」
「いいの」
マリーは首を振り、ようやく笑顔を見せた。
「今度はあたしが助ける番だもん。やらせて」
そのぎこちない笑顔は少し寂しげに映った。




