第四十三話 狡くて、優しい
「ち――ちょっと待って下さい!」
「?」
また別の、妙な考えが浮かんでしまった。
一瞬躊躇ったが、一気に口に出す。
「葵さんの描いてる漫画の主人公……あれ、アポロンじゃないですか!? しかも、ショタの! それってつまり……!!」
ご存じだろうか。
ギリシャ神話において、あらゆる知的文化の守護神とされる《芸術の神》とは誰か、と尋ねられれば、それはアポロンのことを指す。そして《ミューズ》を主宰する神もまた、当然のようにアポロンである。かのロシアの作曲家・ストラヴィンスキーの書いたバレエ音楽、『ミューズを率いるアポロ』もそれをモチーフにしているのだが――。
「やりたかったこと、やってみたかったことがそれって……」
あわわわわ……。
脳裏には葵さんの描いたあんなイラストやらこんなイラストが蘇ってきて、もう言葉にならなかった。
しかし、
「もう!」
何故か葵さんはご立腹の様子である。
「主・人・公、って言い草は酷いわよ? あたしの中ではヒロインポジなんだけど?」
「論点はそこじゃねえ!?」
駄目だこの腐女神……。
よりにもよって、自分の主を妄想の餌食にしたってことなのか。
こんな背徳感まみれでよく女神が務まるものである。
俺は溜息と共に言ってやった。
「……ま、それじゃ正体を隠したくもなりますね」
「でしょ?」
まったく。
壁サーの代表でジャンル女神で、その正体は《女神9》の一人でおまけに《古のムーサ》の三柱を成す一角であり、それに飽き足らずに自らが仕える神をネタにして妄想を拗らせてショタ萌えBL漫画を描いており、さらには、はやみんボイスで歌って喋れるゆるふわ系お姉さんでもあるのである。こんな属性盛り過ぎなキャラ出しちゃったら、バランスブレイカーどころの話ではない。
葵さんが語ったところによれば、会場で俺の正体を明かせば大騒ぎになってイベントが台無しになることは明白だったし、女神たちによる《加護》授け合戦が始まれば彼女たちが所持している女神ポイントも大きく変動してしまうことになる。もしかするとそれによって女神たちの序列も大きく変動してしまうかもしれない。それは避けたい、ということだ。
もちろん日々の行いからも慎ましやかではあるものの一定の女神ポイントが獲得できるらしいのだが、それだけ勇者に《加護》を授ける行為から得られる女神ポイントは絶大なのだ、ということだろう。
でも、俺は何となく気付いてしまっていた。
葵さんが気にしていたのは、自分自身の地位なんかではない、ということに。
下級女神の上には監督役の上級女神がいる。つまり、上級女神の上にはさらにその監督役を務める《女神9》がいる構図になっている筈である。さっき葵さんのサークルの手伝いをしていたのはその上級女神たちだと考えて間違いないだろう。
序列、というくらいなのだから、一度上がれば上がりっ放しという訳にはいかない。誰かが上がれば、そこから降ろされる奴もいる。それは必然だ。だが、自分の趣味のせいで他の誰かを貶めるようなことなどあってはならない、きっと葵さんはそう考えたのだろうと思ったからだ。
それは何となく脳裏に浮かび上がった少し突拍子もない気もする推論だったけれど、もしかするとさっきの念話の影響なのかもしれない。葵さんも言っていたじゃないか。女神側が勇者に伝えようと思えば、その想いは伝わるのだ、と。
やっぱり――。
節度と常識を持ったド変態って見立ては間違ってなかった。
頭に、愛すべき、って付け加えてもいい。
「……ド変態、は酷いわね?」
「はううう! 済みません! 済みません!」
くっそ。
まだマイクONだったか!
うっかり漏れ出ていた意識に慌てつつも、俺はずっと疑問に思っていたことを尋ねてみる。
「でも、どうして俺なんかに? そんな秘密を打ち明ける必要なんてなかった筈じゃあ……」
「確実に秘密を守る方法、って知ってる?」
何だろう?
押し黙っていると、葵さんはさらりと言った。
「互いの秘密を共有すること。お互いが相手の秘密を知っていれば、どちらもそう簡単に漏らすことなんてできなくなるでしょう? だ・か・ら・よ」
「保険……って言いたいんですか?」
「そ」
「……まったく」
俺は辛うじて聴こえるか聴こえないかくらいの声で呟きを漏らしていた。
葵さんは、やっぱり狡猾で計算高い人だ。
保険なんてとんでもない。そもそも葵さんが一方的に知り得た俺の秘密なのだから保険なんて必要ないのだ。保険はリスクを最小限に留めるためのものなのであって、俺に自らの秘密を打ち明けること自体がむしろ新たなリスクを生じさせてしまっている。これでは本末転倒だ。
要はこういうことだ――誰にも言わないから、と。
それすらも恩着せがましくする素振りを見せず、優位さを利用することもせずに、立場を対等にしてしまった葵さんは、本当に狡い。
そして――優しい。
「まりりー☆ちゃん、待たせてるんでしょ? そろそろ行った方がいいわ。でも、一つ、聞かせて?」
「はい」
「何故、まりりー☆ちゃんは、あなたに《加護》を授けていないの?」
「それは――」
別に隠すこともないだろう。
「葵さんと同じですよ。あいつには、女神の地位なんてものより自分の妄想の方が大切だってことなんです。そう、言ってました」
「本当に……それだけかしら――今も?」
「はい?」
どういう意味だ?
「そ。何でもないわ。何でもね」
葵さんには想像がついているようだった。
でも、俺にはそれ以上の理由なんて思いつかない。首を傾げるばかりだった。
「俺からも、一つ、聞いてもいいですか?」
微笑を浮かべたまま無言で頷く葵さんに言った。
「あの……俺、元の世界に戻りたいんです。神になんてなりたくない。もちろん、勇者なんてのでもなくって、元通りのどこにでもいる平凡な高校生として、です。俺たち、その方法を探していて……もしかして、葵さん、知ってたりします?」
「どうかしらね……」
それは、答えをはぐらかすというよりは、今まで考えたこともなかった、という素振りだった。胸の前で腕を組むようにして片方の手の甲を顎に添え、しばし考え込んだ後、葵さんは言った。
「普通に考えたら、勇者として召喚された訳なのだし、役目を果たす――つまり魔王を討伐するより他にないと思うわ。けれどそれには絶対条件がある」
「と、言うと?」
「《女神の加護》を授からないこと、よ」
葵さんは確信をもって頷いた。
「でも……難しいんじゃないのかしら? 今までの勇者は皆、その《女神の加護》に幾度となく助けられる形でようやっと魔王を討伐したのだし」
「他に方法がないんだったら、難しくったってやるしかないです。違いますか?」
「そうね。でも……」
葵さんはわずかに口ごもり、それを打ち消すように首を振った。
「いいえ、あなたならできるのかもね。けれど、期待しちゃ駄目よ? 葵さんはそこまで手は貸せないもの」
「それは分かってます」
これは――俺の問題だ。
葵さんのでもなく、マリーのでもなく。
済まなそうに頷き返し、葵さんは俺の手を取った。
「サポートくらいなら……してあげられるかもしれない。何か分かったら、今晩メッセで連絡してあげる。約束はできないけれど――」
「そう言ってくれるだけで嬉しいです。でも、無理はしないで下さいね」
最後に、とびきりのはやみんボイスで言った。
「応援してるわ、勇者君!」




