第四十話 やる気スウィッチ・オン!
「さっき、葵さんのサークルに行って、ぼーぱるさんにもお会いしました。もう完売なんて凄いです」
「んーと。お昼前にはもう完売してたかなー?」
特に自慢する風でもなく、事実だけを口にする。
「今回の本は、そりゃあもう、凄く頑張っちゃったからねー。何たって……ぐふ……ぐうぇっへっへ」
あ、あれ……?
様子がおかしいぞ?
変なスウィッチを押してしまったことにも気付かす、俯いた姿勢で声を押し殺して笑っている葵さんの様子を確認しようと近寄った途端、
「この世の至高こそっ! ショタロンなのですよ! えーえー! 前作は大失敗でした! あんな半端なスパダリなんか持ち出しやがって、純愛気取ってる場合じゃなかったのです! 何だあれ!? あんな超優秀なセコムいたら、どうこねくり回したってくっそ真面目な流通本展開にしかならないじゃないですかっ! お前、何のために薄い本描いてんだ、話でしょ! 解脱でもする気なのかって話ですよ!」
早い早い!
トップスピードまでコンマ五秒もねえな!
ところどころに俺でも分からないレベルの高度な腐女子用語までがずだだだ!と飛び出し、もうすっかり周回遅れどころか棄権を考える域に達してしまったマリーは引き攣り気味に愛想笑いを浮かべることも満足にできていなかった。俺の方は俺の方で、それが全部はやみんボイスで再生されているショックで何だか涙目になってしまっている。
「なので! なので、そこでモブおじさんの出番な訳ですよ! この混沌の世界に一筋の光明を与える存在こそっ! モブおじさんんんんんんんんん!」
ずびしっ!
「うっさいわっ!」
「もぶっ!」
思わず、んんんんん!と顔を伏せて力んでいらっしゃる大恩ある同人会の大御所の脳天に鋭い手刀を落としてしまった。
「いーたーいー……酷いわ、あまったかちゃん!」
「酷いのはお前の妄想だっつーの、この腐女神!」
いたたた……と頭を擦りながらも、葵さんは嬉しそうに笑っている。だが、周囲で見物していた連中は違った。え……葵さんに……?と戸惑い、ざわざわしてしまっていた。
しばらくして、がばっ、と顔を上げた葵さんは、
「でも……いいツッコミね、あまったかちゃん!」
俺に向かって渾身のサムズアップを突き出し、葵さんがまだざわついている周囲に向かって、にこー、と微笑みを送ると場の空気が少し和やかになった。
「やっぱり思った通り! あなた、良いわね!」
「な、何がですか?」
「そうねえ――」
ちら、ともう一度周囲にそれとなく視線を送ってから葵さんは溜息と共に告白した。
「……何だか最近、あたしの扱いが腫れ物に触るようになっちゃって困っているの。ジャンル女神だとか、公式だとか崇め奉られちゃって、誰一人まともに話をしてくれようともしない。そんなつもりなんてちっともないのに……。これ、本当のことよ?」
頷いて、俺とマリーを交互に見比べた。
「でもね? あなたたちってそうじゃなかったから。同じ一人の仲間、どうしようもない妄想に囚われたオタクの仲間として扱ってくれたでしょ? 下らない話に付き合って、下らないことに真剣に向き合って、悩んで、同じ立場で話をしてくれるじゃない」
「それは……知らなかったからというか……」
確かに、ネット越しにやりとりしていた時と現実でこうして会っているのとでは、勝手が違うってのは事実だ。それでも、同人サークル最大手の代表だと聞いた今でも変わらず、葵さんは葵さんだった。
「さっき教えたじゃない? それでもめげずにあたしの頭にチョップしてくる子なんていやしないわ」
「す、すみません。なんつーか、勢いで」
駄目だこいつ。早く何とかしないと。
そう思ったら勝手に身体が動いてました。
「いいのいいの。それがいいし、それでいい」
うんうん、と頷き、葵さんは俺の後ろに隠れていたマリーに視線を移した。
「まりりー☆も同じよ? さっきの、俺様受けとショタ萌え、どっちらに正義があるかなんて会話、ほんっと馬鹿々々しくって下らなくって、最っ高に楽しかった! あんな会話で熱くなったの、本当にひさしぶりなんだもの! ……でも、もう一度言っとくわ、小娘! ショタ萌えこそ……至高、よっ!」
「ち、違いますっ! 俺様受けこそ究極、です!」
しばし、ばっちばちの視線がその中間に座っている俺の前で絡み合って火花を散らしていた。お前らはどこぞの料理好きな親子か。実に迷惑である。やがて、どちらともなく、ぷっ、と吹き出したかと思ったら声を上げて笑い始めた。
「あたしも同じです。知らなかったから、そうなんですよ。でも……葵さんは葵さんだもんね。あたしの知らないことをいっぱい知ってるし、あたしも葵さんの知らないことをいっぱい知ってます。それを真剣に話すのって楽しくって仕方ないんです!」
「良かった!」
噛み締めるようにそう言って、突然、葵さんは大きく手を広げて、俺たち二人をまとめて、がばっ!と抱き締めた。
これ、やばいっす。
乳圧が尋常じゃない。
「……ん?」
しかし、何かが引っかかったかのように葵さんは抱擁する手を緩めてわずかに身を引き剥がすと、訝し気な顔付きで俺たちを交互に見つめている。そして、その目が俺をロックオンして止まった。
「あら……そういう……。ふーん……」
葵さんの口元に意味ありげな微笑が浮かんだ瞬間、俺の背筋にひやりと冷たい風が忍び込んできた。
まさか――正体に気付かれた!?
い、いや、そんな筈はない。少なくとも今の俺は、俺も良く知る俺ではなく、一介の下級女神・あまったかちゃんである筈なのだ。少なくとも見た目はもうすっかりそれでしかない。
「どうかしました?」
「んーん。何でもないわ。何でも」
不思議そうに問い返すマリーの言葉に頷き返しながら、葵さんはもう一度俺たち二人を愛おし気に、きゅっ、と抱き締めてくれた。思わず心の中で安堵の息を吐く俺の耳元で、確かに葵さんはこう告げた。
「……大事な話をしましょ? イベント終了後、もう一度、ウチのスペースまでいらっしゃい――」
「はあ……」
葵さんが立ち去った後も、マリーは熱にうかされたようにぼーっとして溜息なんぞを吐いている。
「凄い人だったんだ、葵さん」
「いろんな意味で、だけどな」
軽口を叩こうとしたが、心配事があるせいか何となく気の抜けた返事になってしまう。
「……何よ? 何か変なんだけど」
「そうか? 別にどこもおかしくないだろ」
葵さんはこうも言っていた。一人だけで来い、と。
かなり迷いはしたものの、もし俺の正体に気付いて暴き立てようと思っただけなのなら、この場で済ませてしまえば良かった筈である。女神たちにとって俺の置かれている《勇者》という立場は、プラスに働くことはあってもマイナスに働くことはない。各々が持つ《加護》を授けることによって一定の利益を得られる、いわばボーナスキャラのような存在なのである。
それを敢えてせず見逃してくれたということは、葵さんなりの別の理由があってのことなのだろう。それが何かは依然として分からなかったものの、俺は深く考えまい、とポジティブに捉えることにした。
マリーの初めての同人活動を成功させてやりたい、その想いが強すぎてすっかり放置気味になっていたのだけれど、俺の本来の目標は、神になることなく、元いた世界に無事帰還することだ。
そして――。
想い人の面影を脳裏に思い浮かべようとして、俺はとんでもないことに気付いてしまった。
……いやいやいや!
何でここで、マリーの顔が浮かんでくるんだよ!
妙に落ち着かない気持ちになってそれまで閉じていた目を開け、何となく隣に視線を向けると、
「……? やっぱあんた、変よ?」
「へ――! 変じゃねえってば!」
さっき浮かんできたイメージよりもはるかに生き生きとして、俺に楽し気に笑いかけてくるマリーの姿がそこにはあった。
「あ――」
「?」
ごくり、と唾を飲み下してから俺は答える。
「えっと……いや、やっぱ俺、変、かも」
絶対におかしい。
そんな筈、ないのに。
そうこうするうちに、会場内はイベント終了を祝う参加者たちの温かい拍手に包まれたのだった。




