第三十九話 奴が来た!
見えた――。
だが次の瞬間、俺は、きゅっ!、と回れ右をした。
「う――うおおい! また逃げる気なのっ!?」
また、と言われて、咄嗟にさっきの《職人》さん来襲時の醜態が脳裏に浮かんでしまい、湧き上がった罪悪感が楔となって俺の足をその場に留めた。
行きたくねえ……。
ほんの少し前まではあれ程、マリーの顔が早く見たい、などとおセンチメンタルな感情を乙女チックに抱えていたくせに、今は全力で逃げたい気分の俺である。笑いたければ笑うがいい。
だって。
ですよ?
俺の定位置だったパイプ椅子には先客がいたのだ。
「しゅこー……しゅこー……」
大して暑くもなければ決して寒くもないこの会場内において、その謎すぎる来訪者のいで立ちは相当奇妙なものに映った。丈の長いベージュのロングコートにすっぽりと全身を覆い隠し、頭には鍔の広い帽子を被っており、顔は目元も窺えないほど濃い黒のサングラスと大判のマスクをかけていた。昔の映画で見たことのある透明人間も真っ青である。
そんな特A級の不審人物が、やけに背筋の伸びた姿勢を保ったまま、強張った表情を浮かべたマリーと舞亜さんの間に座っていたのである。
「しゅこー……しゅ……?」
どうやら俺の帰還を認識したらしい謎の来訪者が発していた暗黒の枢機卿みたいな呼吸音が止まる。
ちょい? ちょい?
手招きしてるよぉ……。
反射的に下がった左足を敏感に察知したマリーが物凄い表情で睨んできやがったので、渋々サークルスペースの中にのろのろと足を進めた。
「……」
「……」
しばし見つめ合う。
いや、たっぷり時間をかけてやった。
「……」
ちょい! ちょい!
ううう、座れってことらしい。
と言われても元から席なんて二つきりしかないのでどうしたものかと迷っていると、マリーが椅子の上をもぞもぞ移動して座る場所を空けてくれやがった。ち、余計なことを……。何とかかんとかその狭い隙間に収まった俺の耳元に、囁くようにして謎の来訪者が初めて声を発した。
「やっと帰ってきたわねぇ。待ってたんだからぁ」
息が――止まった。
本当である。
呼吸停止したまま隣にいる謎の来訪者の方へ首を向けると、サングラスに隠された瞳が俺を見た。
そんな……馬鹿な……!?
今の声って絶対――!
それが幻聴でないことを証明するように、今度は普通のトーンで謎の来訪者は言い放った。
「待ってたよ、あまったかちゃん」
やっぱりそうだ!
この声を聴き間違えるなんてことはあり得ない!
しかし、それと同じくらいの確証をもって言えることは、その声の主は絶対に俺の名前なんて呼ぶ筈がないってことだった。
――早瀬美織。通称、はやみん。
ファンの間ではそう呼ばれ親しまれている彼女は、絶大なる人気を誇る声優である。
デビュー以来、その透明感のある声は多くのオタクを魅了し続け、今や男性のみならず女性ファンからも支持されていた。幼女からティーンエイジャー、妖艶な大人の女性まで見事に演じ分けてみせるだけでも賞賛に値するのだけれど、一番のハマリ役である神秘的で物静かなキャラクターだけでなく、それとは正反対のやんちゃでアクティブなキャラクターだって演じられる。おまけに歌唱力も抜群で、それは本編に出演していないのにも関わらず数々のアニメのオープニング主題歌を担当していることからも分かるだろう。
「う……嘘……です……よね?」
「? えーっとぉ……」
気付けば俺は、引き攣った笑みを浮かべながら、わなわなと震える手を謎の来訪者に向けて伸ばしていた。一方の彼女はか細く困ったような震え声を出しながら、両脇に立てたてのひらで俺の手を押し留めるように身を反らしている。さっきまでとはまるきり逆の構図である。
「落ち着きましょ……! ね?」
「うぁ……! す、すみません……」
そのとろけるような制止の言葉と、背後から浴びせられたマリーの肘鉄で我に返った俺は、慌てて手を引っ込めた。しゅこー、と安堵の息を吐いてから、一度、ぴょこん、と飛び跳ねるように座り直した謎の来訪者は額の汗を拭う素振りを見せたのだが、それすらままならない自分のいで立ちに苛立ったように呟いた。
「もー。やっぱりこれ、暑い……。もういいです、脱いじゃいましょう!」
がばあっ!
目の前で一気に開かれたロングコートの中には、
「!」
別の意味で、どきり、とする。
一言で言えば、痴女。
豊満すぎる胸の谷間のかなり下の方まで襟ぐりが大きく開かれた真珠のような光沢を放つ丈の短いドレスは、肝心なところはしっかり隠す役割を果たしていたが、逆に言えばその役割以外は全て放棄してしまったかのように露出度が高い。いや、高すぎた。
足の方はむっちりとした肉付きの太腿のあたりから剥き出しで、膝丈の白いロングブーツが悔しいくらいに良く似合っていた。サングラスとマスクを外し、最後に帽子を脱ぎ去ると、何処に収まっていたのか不思議になるほどの長くウェーブのかかったブロンドの髪が堰を切ったように溢れ出てきた。
「!」
終了の時間まで居眠りでもしようと決め込んでいたらしい通りの向こう側にいたサークル参加者が、その一部始終を見てしまった驚きで、かくん、と椅子から転げ落ち、派手な音を立てた。
「なーにやってんのよ? もう」
「だって……だって、あれ!!」
「え……。嘘!? あれって――!」
もう一人が悲鳴に似た声を上げようと息を吸った瞬間、俺の目の前の痴――じゃなかった、謎の来訪者が、しーっ、とおどけた可愛らしい身振りでそれを制すると、相手は慌てて両手で口を塞いでいる。
「やっぱ、こうなっちゃうかー」
ぽりぽりと頭を掻きながら、目の前でぼけーっと口を開けたまま固まっている俺に向けて、口の動きだけで、ごめんね、と告げ、ぺろり、と舌を出した。
「でね? 早速だけど、あまったかちゃん――」
「ち――ちちちょっと待って! ください!」
「あっれー?」
おっかしーなー?と眉を寄せ、人差し指でぽんぽんと顎を叩いている。
いやいや、いろいろとおかしいでしょうが……。
「ねー、まりりー☆? この子があまったかちゃんなのよね?」
「そうですけど……えっと」
マリーに控えめな仕草で指さし返され、肝心なことにようやっと気付いたらしい。
「あ! そうね! そうよね!」
そして、えっへん、と大層実っていらっしゃる胸を突き出し、そこに右手を添えて自己紹介をした。
「ほーら、あたし、葵さんですよー! 来ちゃいましたよー! ね、ね、会いたかった?」
「……へ?」
止せばいいのに、変なテンションで大声を上げたもんだから、広範囲の参加者たちが何事かと周囲を見渡し始めた。制止しようと手を挙げた俺の腋の下あたりからマリーの顔がぬっと飛び出して告げた。
「ス……ストップです! お……お静かに……!」
「そ、そうねー……。そうするー」
これが……葵さん?
想像していた人物像とかなりかけ離れていて、まだ頭の中が混乱してしまっている。
それでもこれだけはきちんと言っておかないと――。
「あの……葵さん?」
「なあに?」
やっべえ、はやみんボイスの破壊力パねえ!
しかも、フィジカル面でもメジャー級だし。
じゃなくて。
「葵さんのおかげで、お――あたしたち、こうしてここに来ることができました。本当に……ありがとうございます!」
「違・う・で・し・ょ?」
葵さんは首を振る。
「あなたたちが頑張ったからじゃない。二人で力を合わせて、ね?」
「そんな――!」
もう一度、ぼーぱるさんに言ったのと同じ台詞を口に出しそうになってしまい、慌てて口を閉じる。代わりにこう言った。
「まりりー☆は本当に頑張ったんです。本当です。だからあたし、この子ならできるって信じて、あたしにできることを精一杯しました。それだけです」
「ちちちちょっとっ!」
マリーの顔は真っ赤だった。
「ななな何恥ずかしいこと言ってんのよ!?」
「だって、本当のことだからさ」
「だからって――!」
叩くなって。
結構痛いってば。
そんなやりとりを眺めていた葵さんが、くすり、と笑い、からかうような口調で言った。
「あらあらー? さっき誰かさんも似たようなこと、言ってたわよねー?」
「いいい言ってないですけどっ!?」
言ったんだな。
でも、マリーは誰を信じて、誰にために頑張ったって言ったんだろう?
ま、いいか。
「も……もー。遅いってば! 馬鹿ショー――」
ちょ――!
おい、こら。止めろ。
「馬鹿ショー……何?」
ぎくり、とフリーズしたマリーより先に俺がフォローに入る。
今の俺は勇者ショージではないのだ。
「まかしょー!って言ったんです。この子、最近花笠音頭にハマってまして……あは、あはははは!」
「アハハハハ! ソーデース!」
絶対意味、分かってないだろ。同じく花笠音頭などという人間界にしかないであろう盆ダンスの知識などない葵さんはきょとんとした顔付きをしていたが、聞き流すことにしたようだ。
「あ、あまったかちゃんが出かけて行ったすぐ後に、葵さんの方から尋ねてきてくれたのよ。もーあたし、すっごい緊張しちゃって、せっかく隣にいるのに思うように話せなくって」
紛らわしいなあ、もう。
おかげでこっちはいらぬ心配をするハメになったのだが、いまさらのことなので黙っておいた。
「嫌われちゃったのかと思ったわー」
「そんなこと……! ないですよ!」
「冗談、だってば」
うふふふーと笑う葵さんだが、どうしても俺の中の葵さん像といまだにイコールにならなくってもやもやしてしまう。
だって!
絶世の美女だよ、この人!
その向こうでぽわわわーと見惚れている舞亜さんやちょっとつまらなさそうにしている織緒さんには悪いけれど、彼女たちに出会った瞬間に感じた印象が霞んで思い出せなくなるくらい、葵さんは綺麗だった。
そして、エロい。
ものすっごく。
あの、アメルカニアの偽王のおじいちゃんでもハッスルして踊り出しそうなほど色気に満ち満ち溢れていた。
この人が?
ショタコン?
うーむ、どうしても信じられないんだが……。
「あの……」
――確かめてみたい。
俺はおずおずと切り出した。




