第三十七話 小休止
「死……ぬ……きっと……死んじゃう」
「死なねえよ」
マリーは、ぐだー、と長机の上で伸びている。
このまま一気に完売か、と思われたが、そんなに甘い話はなかったようだ。そろそろお昼時ともなると途端に客足は遠のき、会場内をうろついている参加者もまばらになっていた。
「あー。お腹空いた……」
「お前たちも腹は減るんだ?」
「当たり前でしょ?」
お前たち女神も、とは言わずにおく。
一応、今の俺だって女神に見えるらしいからね。
「なーんーかー買ってこーいー」
間延びした声と共にうりうりと脇腹を肘で突かれたものの、そうもいかない理由があったりする。周囲の様子を窺いつつ、マリーの耳元で小さく囁いた。
「……俺だと無理じゃん? その何とかってカード、俺は持ってないんだぜ? 貸してもらったところで使えるのかどうかも分かんないんだし」
「うー」
マリーは長机の上に顔を伏せて呻き、
「じゃー、行ってくるー……つっかえない奴」
そんな捨て台詞を吐きつつ、夢遊病者のような覚束ない足取りでマリーはよろよろと出かけて行った。
しばらくして、
「んふー。んふふふふふ」
復活早いな、おい。
スキップでもしそうな勢いで、両手に白いビニール袋を下げたマリーが戻ってきた。その顔は妙につやつやしている。
そのままサークルスペースの中に戻り、
「はい、これ」
どん、と座った。
さっきまでのとげとげしさはもう影も形もない。
渡された袋を早速開けてみると、中から食欲をそそる匂いが立ち昇ってくる。どうやらホットドッグのようである。隣に添えてあるのはナゲットとオニオンリングらしい。つーか、見事に油ギッシュなメニューだな。天界って一体……。
「さんきゅ。いただきまーす」
すっかり緊張していたせいで気付かなかったが、俺の方も相当腹が減っていたらしい。しばし無言でわしわしと食べる。さすがに見かねたらしく、隣の舞亜さんがウェットティッシュを分けてくれた。こくこく、と頷き礼を述べつつ指を拭き拭き一心不乱に食べ続けて、あっという間に完食してしまった。
「美味しかった……!」
「でしょ?」
お腹も落ち着いたところで、すっかり片付いてしまった空容器を一まとめにしつつ、俺は当初予定していた行動を実行に移すことにした。ごみの袋を傍らに置き、箱の中に残っている本を数冊取り出して小脇に抱えると、俺は立ち上がった。
「ちょっと出かけてくるからね」
「どこいくのよ?」
「あ、あれ? 話さなかったっけ?」
おっかしーなー。
説明しておいたつもりだったんだけど。
「――今回参加するにあたって、SNSを通じてアドバイスをくれた他のサークルの人たちがいるでしょ? その人たちに、挨拶がてらウチの新刊を渡して来ようと思ってさ。ええとつまり、これ、タダであげちゃうことにはなるんだけど……」
「それはいいわよ、別に」
すでに頒布した分で印刷代はペイできていることもあってか、マリーは案外、けろり、と応じた。
「でも、どうせなら一緒に行きたいんだけど。あたしだって直接御礼が言いたいし」
「でも、ここを空ける訳にはいかないだろ?」
「ま、それはそうなんだけどねー……」
見てよっか?と舞亜さんも織緒さんも気軽に言ってくれたものの、あまり頼ってばかりじゃ申し訳ない。俺たちの用事は俺たちで済ませないと駄目だ。
「じゃ、お願い。は……早く帰って来なさいよ?」
「はいはい。コミュ障乙」
「と――とっとと行ってこいってば! 馬鹿っ!」
「へーへー」
そんな罵声に見送られながら、俺は手にした配置図を頼りに御礼行脚に出かけたのである。
「最後は……葵さんのところだな」
大した距離も移動していないのに、俺はすでに疲労困憊だった。
それにしてもこの靴、痛くて堪らない。踵の部分がどっしりとしたデザインなのでそこまで歩きづらくはなかったけれど、何しろパンプスなんて代物を履く機会は皆無だったので、不安定なことこの上ない。踵から着地して歩く癖が身に付いているので余計にしんどく感じる。
「バッグくらいは持ってくるべきだったか……」
挨拶して新刊を渡せば終わり、と高を括っていた俺だったが、どうやらこういう時は互いの新刊を交換するのがセオリーのようでちっとも荷物が減らないのである。今もなお、きっちり渡した数分の本が手元に戻って来ている。
「あっちだな。きっと」
会場をぐるりと一周するコースをとって、俺は最後のスペースを目指す。
葵さんのサークル『神〇未満』を一番最後にしたのには訳があった。
それは、彼女たちのサークルが絶大なる人気を誇るいわゆる『壁サー』であるからである。《神絵師SNS》で交わされている会話の端々からその事実は否応なしに窺えた。さすがに長蛇の列を捌くのに大わらわなところに、ロクに面識もない俺がのこのこ顔を出すのはまずい――そう思ったのだ。昼もだいぶ過ぎた今ならそこまで人は多くない筈だ。
徐々に元の勢いを取り戻しつつある人々の間を縫うように進み、ようやくそこへと辿り着くことができた。
「あった」
しかし俺の心配は、ある意味、的外れだったようである。
その長机の上には、
『――新刊・既刊ともに完売しました!』
と殴り書かれた一枚の紙とともに、ぐんにゃりと突っ伏している小柄な女の子の姿だけがあったのだ。スペースの奥の方を覗き込んでも他には誰もいない。
「えーっと……」
あるのは大量の空になった段ボール箱と、もう出番のなさそうな折り畳まれたいくつかのキャリーカートだけだ。
うーん……。
この人……なのか?
まだ一言も交わしていないどころかまともに顔も拝めていなかったのだけれど、本能的に、目の前でぐったりしているの女の子は葵さんではない、と判断する。
黒いショートパンツにモノトーンのボーダー柄のニーソックス。すっぽり被っているパーカーのフードの部分は兎の耳を模したデザインになっている。もういい加減《ノア=ノワール》在住の女神たちのファッションにはツッコミ飽きていた俺だったが、彼女が葵さん本人でない、と断定したポイントはそこではなかった。
ちっちゃいのである。
……いやいや、パーツの話じゃなくて。
偏見めいた考えなのかもしれないが、葵さんの描く世界観は『ショタ萌え』なのである。つまり、描き手とキャラの間にもその関係が成立しない筈がない、そう思ったからだった。目の前で居眠りをしているらしい女の子は、どうみたってロリキャラに分類されるであろう。
……聞いてみるか?
さらに目の前まで近づいてみたが、それでもまるで起きる気配がない。
仕方なくそっと声をかける。
「あのー? ちょっと、いいですか?」
気だるげに身を起こす。別に眠っていた訳ではなかったらしい。
「……なんデス?」
「ここに葵さんという方はいらっしゃいますか?」
「あー。主人なら出かけてるデスよ? 何か用デスか?」
何かちょいちょい違和感が。
何と説明しようか迷っていると、目の前の女の子はようやく顔を上げて俺を検分するかのように正面から、じろり、と見つめた。
……前言撤回。
これ、ロリキャラじゃない。
俺が瞬間的に怯んだのを見透かしたかのように、薄い唇をかぱっと開いて、ししっ、と笑った。その奥にはあたかも竜のごときギザギザの歯が覗く。と同時に、パーカーの中に着ているこれまた真っ黒なTシャツに、ラメ入りの塗料で精緻に描かれている爆炎を吐き散らかしているドラゴンが目に飛び込んできた。
ヘビメタ少女……ってことでいいのか?
よく見ると、首元にはごついヘッドフォンがかけられている。音は漏れてこない――というより、コードの先端はどこにも繋がってないみたいである。
「えと……。さっき、主人って言いました?」
「ええ」
鷹揚に頷きながら、パーカーのポケットから取り出した棒付きキャンディを口に放り込んだ。
「葵は、ウチの代表デスから。……知らなかったんデスか? 主人もまだまだデスねぇ……」
「す! 済みません……!」
サ、サークル代表だったのか!
まさかそこまでとは思ってなかった……。




