第三十六話 次から次へと
「えっと……。その本も、織緒さんのところのなんですか?」
「――あ」
織緒さんの周りに群がっている女神の一人が、織緒さんがまだその手に持っている本に気付いた。
当の本人はその存在をすっかり忘れていたらしい。
「これなー。こいつらの初めての本なんだってさ」
そう言って、織緒さんが俺たちの方を指し示すと、一斉に視線がこちらに殺到する。マリーは弾かれたように身体を強張らせ、ど、ども、と辛うじて頭を下げてそれに応えた。
「さっき読ませてもらったんだけど、すっげー面白かったんだ。一気に夢中で読んじまった。……そーそー、これ、買わせてもらうぜ。構わねえよな?」
「も、もちろん……です……あ! でもっ!」
織緒さんが手にしているのは見本として置いておいた一冊なのだ。
「こっち……ちゃんとした奴……あの……!」
椅子も引かずに大慌てで立ち上がったものだから、その拍子にマリーは嫌という程膝をぶつけた。しかし、そんなことは少しも気にならない様子だった。
「本当に……良いんですか?」
「はあ? 良いも何もねえだろ」
きょとん、とするのは織緒さんの方だ。
「良いと思ったら手に入れる。そういう連中しかここにはいねえだろ? ん?」
周りの同意を求めるように見回してから、織緒さんは照れたように今は金髪の頭をぽりぽりと掻いた。
「まー、いつもだったら俺様は本は買わねえんだけどな? 衣装着て、キャラになりきることしか興味なかったし。……でもさ? この本、マジで面白いと思ったんだ! どきどきしてはらはらして、んで、最後にじーんと来た。だったらもう、買わねえ訳にはいかねえじゃん?」
な?と素に戻った織緒さんはマリーに笑いかける。
しどろもどろになりながらマリーは答えた。
「あ――ありがとう……ございます」
「あー……。俺様、第一号だよな?」
声も出せずに、こくこく、と頷き返すと、
「ここ――裏表紙めくったところにさ、何か書いてくれないか? カンタンな奴でいいからさー」
「え……あ……う……。は、はい!」
目を白黒させながらマリーは再び本を受け取った。
一応、前情報として伝えてはおいたのだが、そんなことをお願いされるだなんて思ってなかったんだろう。それでも、何かを噛み締めるようにことさら丁寧にマリーはマジックを走らせ、描き上げた微笑みを浮かべる主人公アルフェンのスケッチの隣に、こう書いた。
――リアルアルフェンの織緒さんへ。
お買い上げ第一号、ありがとうございました!
まりりー☆
「おおー! ……あたし、すっげー嬉しいや!!」
すっかりイケメン軍人ではなくなった元の織緒さんは恥ずかしそうに笑うと、反応が気になりすぎて手渡した姿勢のまま立っていたマリーに長机越しに抱きついた。
「あんがとな! これ、大事にする! 絶対!」
「うぇ……! あ……は、はい!!」
マリーも嬉しそうである。
横で見ている舞亜さんがちょっぴりむくれているのは……置いとこう。
「あ――」
そして、それがきっかけになった。
「あ、あたしも見せてもらっていいですか?」
「えと……。見本って一冊だけですか?」
いきなり今まで『カルネヴァール』に集まっていた女神たちが、俺たちの『まりーあーじゅ』の方にもどっと押し寄せてきたのだ。
「ち、ちょっと待ってて下さいね。見本誌、今すぐ用意しますので!」
この機を逃す手はないだろう。
感動に浸っているマリーをそのまま放置して、俺は急いで新しい別の一冊にビニールカバーをかけて差し出された手の一つに渡してやる。だが、それでは全然足りず、カバーのかかってない本を手に取って直接読み始めた女神もいたが、敢えて咎めることはしなかった。
そこに――。
「あたしも……いいかな?」
急に空気感が変化したのに気付いた。
ずっ――。
異質な存在感と質量を兼ね備えた一人の女神が姿を現し、集まりつつあった輪が乱れ、十戒よろしくざあっと人波が左右に分かれて道が生まれた。
「ふ、ひ……ふひ」
彼女が肩から下げている薄汚れたトートバッグはすでにはち切れそうなほど膨らんでおり、それほど暑さを感じない会場内だというのに額には汗の粒が浮き上がっていた。身に着けているのはシックなデザインの深紅のロリータファッションだが、いかんせん内容量に見合っておらず、トートバッグ同様、はち切れんばかりに膨れ上がってしまっている。
「あの人……《職人》さんじゃない?」
「あ。聞いたことある。彼女が例の……」
ひそひそ……と呟く声が聴こえた。
遂に来た――。
表情こそ変えなかったが、俺の背中には冷たい汗が一筋流れ落ちていた。
きっとマリーは知らないだろう。
だが、俺は知っている。
彼女こそ、この《ノア=ノワール》のイベントにおいて、新規参入サークル潰しとまでの異名を持った熱狂的かつ狂信的なBLファンの通称《職人》、その人に違いない。
「表紙は……ぐっふ」
葵の運営する例の《神絵師SNS》にもしばしば出没して、投稿されたイラストに対し、かなり手厳しいコメントを付けたりすることもあった。本人には少しも邪気はないようだったが、辛辣すぎるコメントのせいで場が荒れることも多々あった。マリーのイラストに対してその矛先が向けられたことはなかったのだが――正直、一番来て欲しくなかった人だ。
「……ふーん」
やきもきする気持ちにはお構いなしに、ぷっくりとした指先はぺらぺらとページを捲り進んで行く。
「……は? 何なの、これ?」
ときおり不機嫌そうな呟きが漏れる。
とても正気で聴いていられない。
「おいおい。おいおいおい……可愛すぎかよ?」
ちっ――鋭い舌打ちが響いた。
「はいはい。天使ですかそーですか」
はああああ、と溜息を吐く。
「……」
そして遂に沈黙してしまった。
……大丈夫なのか、これ?
その丸々とした顔の中央には、深い皺が刻み込まれている。隣のマリーの様子をそっと窺うと、血の気をすっかり失って、青白い顔をしていた。
やがて、
「……あのさ。『まりりー☆』っての、あんた?」
ぎろり、と睨み付けられ、慌てて手を振り返した。
「あ、あたしじゃないです。この、隣の――!」
再びマリーを見ると、ぷるぷると小刻みに震えながら、オンドゥルルラギッタンディスカー!とでも叫び出しそうな怒りの表情で睨み返されてしまった。
済まん、マリー!
だって本当のことじゃんか!
そのままマリーはわずかに腰を浮かせたのだが、俺に詰め寄る間もなく《職人》さんに、ずっ!、と距離を詰められ、フリーズしてしまった。
「あんた……」
一瞬、間を空けてから《職人》さんは言った。
「殺す気なの?」
「………………は、はいぃ?」
ふひー、と息を漏らし、《職人》さんは微笑んだ。
「あんた、あたしを萌え殺す気なの?って聞いてるのよ? ……まあ、いいわ。これ、貰う。二冊」
マリーは意味が分からず固まっている。
横から脇腹を小突くと、はっ、と我に返った。
「二冊……。え? 同じ物ですよ?」
「いいのいいの」
大量のフリルに隠され何処にあるのかまるで分からないポケットから、魔法のようにクレディットカードを取り出した《職人》さんは、しっとりと湿った分厚い手をひらひらと振ってみせた。
「一冊は観賞用、もう一冊は保存用だからね。そうそう、《神絵師SNS》でサンプル見たよ。やっぱり来て良かったな。次も期待してるから、全力であたしを殺しにきて頂戴。これ、約束だからね? まりりー☆先生?」
言われた科白の示す意味の半分も理解できていない顔付きだったが、次第にマリーの表情は緩んでいき、やがてその瞳は潤みを帯びていった。
「ありがとう……ございます!」
ぎゅっ、と分厚い手を握り返す。その刹那、《職人》さんはほんの少し迷惑そうな表情を浮かべたのだが、それはきっと、オタクにありがちな対人スキルの欠如故の戸惑いと照れの表れだったのだろう。妙に落ち着かなげに身体を揺らしながら手を引っ込め、背を向けた。
「それはこっちの科白。……さ、次に行かないと」
そんな独り言を残しつつ、再び、ざざ、と割れた人波の間へ悠々と歩み出した《職人》さんは次なる戦場へと旅立っていった。
ふーっ。
溜息をついたのはほぼ同時だった。
「何かいろいろ凄かったな」
「ね」
「ま、良かったじゃん。多分、アレ、大絶賛のつもりなんだろうな、きっと」
「なの……かな……?」
あははは……と乾いた笑いを発したかと思ったら、マリーは急に厳めしく表情を曇らせる。
「でもっ! あんた、覚えてなさいよ。仲間を犠牲にするような真似……ホント信じられない!」
「ま、まーまー」
それを言われると立つ瀬がない。
だが、マリーの気を反らすのにはうってつけの事態が俺たちの周りで起こりつつあることに気付いていた。
「今はそれどころじゃないみたいだぞ?」
「は?」
引き攣り気味の笑みを張り付かせて顎をしゃくるようにしてそっちにマリーの注意を向けてやる。
「み、見本、拝見しますね!」
「私も……いいでしょうか!」
割れていた人波がさらに厚みを増し、『まりーあーじゅ』目がけて押し寄せてきていた。
「わ……! わわわわ……!」
どうやら先程の一件で、《職人》さんのお墨付きの一冊、という認識が広まってしまったようだ。
「一冊、いただけますか?」
「は、はいっ!」
「こっちもお願いします」
「ち――ちょっと待って下さいね!」
いろいろと下準備をしていた俺にとっては、些か拍子抜けする思いだったが、これはこれで嬉しい誤算だった。早くも一杯一杯の様子のマリーに並んで、俺もひたすらお客さんの応対に専念する。
ようやく客足が落ち着いたのは、二箱目を開け、その中身が半分を切った頃だった。




