第三話 異世界に転生とかしねえかな(しちゃったよ!)
濡れたように艶やかで、腰近くまで伸びた黒髪。
ピンク色の小さな花弁をかたどったヘアピンで右寄りにまとめられた前髪の下には、ほんの少し目尻の垂れ下がった切れ長の目があって、その右の方にだけ、白い肌の中でひと際立つ泣き黒子がある。目元を隠すように覆い被さっている睫毛は驚くほど長く、憂いを帯びたようにいつも震えている。
学校指定の青い通学鞄以外にもう一つ小振りな楽器ケースを常に携帯しているところから、吹奏楽部所属なのだろう。けれど、まるで知識のない俺には、その中に収められているであろう楽器の種類までは分からない。
そして、俺が同じく分からないこと。
それが彼女の名前だ。
見慣れた――いや、もはや二年目ともなれば少々見飽きた感のある制服を着ているのだし、俺と同じく佐々木之居城高校の生徒なのは間違いない。そして、毎朝この時間、決まってこの駅で見かけるのだから、住んでいるのは「塚谷」近辺だろう。その筈だ。
けれど、俺は彼女についてそれ以上確かなことは何一つ知らない。
なのに――。
「……っ」
ああ、くそっ。
みっともないところを見られてしまったんじゃないかと、みるみる輪をかけて頬が熱くなるのを感じたが――それはどうやら自意識過剰、単なる思い違いだったらしい。たっぷり間を置いてから、恐る恐る彼女の方を盗み見てみると、
「ふふ。かわいいなあ……」
まだ名前も知らない彼女は、手の中のスマートフォンの画面を熱心に見つめ、もう一度堪え切れずに小さな笑い声を漏らした。
(よ、よかったあ……)
思わず安堵する。
ではここで、僭越ながら俺の予想を聞かせよう。
彼女は、友人から送られてきたマグカップにちょこりと鎮座するティーカッププードルか何かのペット画像を眺め、つい微笑ましくなり、つい忍び笑いを漏らしてしまったのである。
そうあって欲しい。
いや、そうであるべきだ。
(……キモっ、俺)
ひとしきり暴走気味の妄想を繰り広げてしまってから、自分自身にげんなりしてしまった。
これだからオタクは、って言われるんだ。
こうして毎日悶々とありもしない妄想を巡らせては思いを馳せているくらいなら、直接声の一つでもかけてみればいいじゃん、などという、特定の人種にとっては至極当たり前、極めて正論なアドバイスなんて無意味だ。そんな勇猛果敢な行動を息を吸って吐くかの如く自然と実行できるくらいなら、今頃俺はオタクとは呼ばれていない。
何か会話をするきっかけが欲しい。
それだけだ。
あーはいはい。その、きっかけ、とやらがあったところで果たして実際に行動に移せるのかよお前、なんていう正論も、この際二の次でいい。それでも今後の人生を左右する重要なイベントが今この瞬間に発生してくれないかな、と願うことくらい良いじゃないか。
『二番線、通過電車が参りやす――』
構内に若干巻き舌気味のアナウンスが響き渡り、車体にグレーのラインが描かれた車両が緩やかな弧を描きつつホームへと進入してくる。
「……おっと」
俺はいつも通り反射的に半歩後ろに身を引いた。ここ塚谷駅は急行通過駅だ。電車が通過する際はかなり速度が乗っているので、ぼけーっ、としてようもんなら、殺到する突風に思わず、ひやり、とさせられることが多々ある。
なお、パンチラは期待できない模様。
そんな妄想を抱いていた頃が俺にもありました。
今日も相変わらず遅れ気味だなあ、と、毎日飽きもせず繰り広げられているラッシュアワーに果敢にも挑み続けるサラリーマンたちを憐みつつ、ふと、隣に視線を泳がせると、
「……ふふっ」
名も知らぬ彼女は、手元のスクリーンの中の映像にすっかり心を奪われている様子だった。
その時だ。
「――きゃっ!!」
うわ……やっちまった……!
不意を衝いて襲いかかってきた突風にすっかり取り乱した彼女は、手の中のスマートフォンを二度三度お手玉した挙句、とうとう線路内に落としてしまった。
彼女は悲鳴を押し戻すように両手で口元を押さえたが、その端から小さな悲鳴が漏れ出てしまう。この駅は、ホームに駅員が立っていることの方が極めて稀だ。どころか、俺たち以外に電車を待っている乗客の姿だってぽつりぽつりとしか見えない。
「ど……どうしよう……!?」
哀れ彼女のスマートフォンは、目の前に二本並ぶ線路の片一方に、シーソーよろしく絶妙なバランスを保ったままゆらゆらと載っていた。可哀想にスクリーンの表面にはうっすらと罅らしきものすら見える。
「えと……」
彼女の視線の先にはまだ何も見えない。だが、さっき来たのが急行なら、すぐにお待ちかねの各駅停車がやって来る。今できることと言えば、猛ダッシュで長い階段を駆け降り駅員室に駆け込んで、大至急マジックハンド的なアレで拾い上げてくれるよう涙ながらに頼み込むことくらいだったが――とても間に合う気はしない。
(……よし!)
これこそ俺が待ちかねていたイベント発生だ。
肩に掛けていた通学鞄を足元に置くと、意を決して彼女の方へと迷わず駆け寄った。線路内に立ち入るべからず――そういう規則があり、厳しい罰則があることだって知ってはいたが、今は他に上手い手が見つからない。こってりと絞られる羽目になるだろうし、無論、遅刻は間違いなしだ。
それでも、彼女のために何かしてあげたい、そう思ったのだ。
「あ……!」
すっかり取り乱している彼女が、駆け寄る俺の姿を見て目を丸くし、小さな声を出した。
「……待っててね」
短くそう告げ、一気に眼下へ――。
どん!
行けなかった。
何故か俺の視界は、激しく右にブレた。
「……あ! やべっ、悪ぃ――!」
何かがぶつかってきた衝撃とともに何処からか、大して済まなさそうな気持ちのまるで籠ってない男の野太い声が聴こえたかと思うと、俺の身体は駆け出した勢いにさらに加速度を付けて、一気に横にすっ飛んでいた。
そして、
ごんっっっ!!!
転倒する。
「――!?」
痛い。
痛い。
痛い。
瞬間的にその単語だけで意識が塗り潰されたかに思えたが、ふと我に返った時には大して痛みなんて感じなくって、ついつい、ほっ、としてしまったりなんかして――、
いや。
もう感じなかった、が正しかった。
直後、ぬるぬると後頭部を気色悪く滑り降りてくる生暖かい感触とは対照的に、凍えるような震えを伴う寒さが俺を襲った。
「だ――大丈夫、ですかっ!?」
(こんなの、つい二、三日前のテレビで見たっけ)
そんな乾いた感想の中、『スクープ!衝撃映像一〇〇』とかいう特番でしばしば見かける横倒しになった画面の中に、まだ名も知らぬ彼女が血相を変えてフレームインしてくる様子がノイズ混じりに再生されている。
(すっかり慌てちゃって一体どうしたんだ――?)
(ああ……心配してくれてるのは俺のことか……)
そう悟った途端に、徐々に俺の思考は緩慢に、スローになっていった。
まったく――俺はどうしてこうも恰好悪いんだ。
線路に落ちたスマホを無事奪還して彼女の笑顔を取り戻すことができたら、ほんのついでに一言二言の会話を交わして、最後に『また明日ね』って笑ってもらえただけで良かったのに。本当だ。それ以上のことを望んでいた訳じゃない。
なのに、俺が望んでいたレベルを越える、一生一度きりの最終イベントが発生してしまっている。
こんなのってないだろ――酷すぎる。
「そんな……っ!」
彼女はわなわなと口元を震わせ、目の前の惨状から目を背けることも出来ずに立ち尽くしていた。どうやら今の俺の状況は相当に酷いらしい。やがて彼女は、立っていることもままならない様子で崩れ落ちるように俺の前にしゃがみ込んだ。
「何でこんな事に……! 私のせいだ……!」
(違う。違うんだ――)
(俺がツイてない奴だったってだけで、恰好悪い奴だったってだけで、君のせいじゃない)
けれどもう血の気を失くした俺の唇はかすかに震えただけで、沈む彼女の心を慰める言葉一つ発することすらできなかった。そのどうしようもない現実に、俺はただただ愕然とすることしかできなかった。
そして――もう一つのことにも。
(――!?)
み、見えちゃう!
見えちゃうって!?
目の前で、そんな無防備に座り込んだら――!
明らかに場違いで邪な感情を胸に、どぎまぎしながら目の前に広がっているであろう至福の光景を、せめて最後にその目に、その心に焼き付けようと、年頃の高校生男子らしすぎる好奇心満載の視線を向けたその瞬間――。
ぺかー!!!!
俺の双眸がしっかと捉えた彼女のスカートの中に広がっている筈のめくるめく光景は、突如不自然に発生した謎の光によってまるっとあらかた白一色に塗り潰されてしまっていたのであった。
気付けば思わず俺は、喉も裂けよとツッコミを入れていた。
「深夜の地上波アニメかよおおおおおおおっ!!」
それが俺の。
異世界における不本意な第一声であった。