第十九話 腐った女神
「むう」
やっぱりそうだ。
さっきの黒板に描かれたイラストを見た時から、そうかもしれないという予感はあった。できれば触れずに済ませたいところだったが、これだけはっきりしてしまうと、言わずにはいられない。
「何、難しい顔してんのよ、馬鹿ショージ?」
口調とは裏腹にちょっぴり不安そうに尋ねるマリーを振り返って見つめ、俺は言った。
「一つ……訂正しないといけないことがある」
「え?」
「マリー。お前はオタクだが、俺と同じじゃない」
「え……」
絶句する。
せっかく同志を見つけたと思ったらその当人から否定をされたのだ。
蒼褪めてすらいるように見えたが、それは俺の言葉が足りないせいでもあった。
「がっかりすんな。説明がややこしいんだが……分類学上は、お前は確かに同じオタクだ」
そんな大層なアレじゃないけどな。
「だがしかしだ……広義のオタクという分類の中に、さらに狭義の分類がいくつもあるんだ。アニオタとかゲーオタとか声優オタとかって……い、いや、これじゃ分かんないのばっかか」
さっき、ちらっと見た限りでは、天界にはアニメもゲームもないようだ。そのどちらもないのなら、声優なんて特殊な職業も存在しないのだろう。
「――その中において一際異彩を放つオタク、そのほとんどが女性で構成されているオタク層にお前は分類される。そして……俺のような男のオタクにとって、彼の者たちは仇敵だとすら呼べるだろう」
「……ごくり」
わざとやってんな。
意外とノリが良い女神である。
「俺たちは同じオタクでありながら、互いを毛嫌いし、時には憎しみを抱く傾向がある。それは、自分の嫌な面を相手が持っているからに他ならない……つまりは同族嫌悪なのだよ――」
何だかこっちの口調まで変になってきた。
だが、そろそろフィナーレだ。
びしぃ!
「しかし、敢えて告げよう、女神マリー! お前に与えられたその名こそ、腐女子なのだ!」
「……ふ?」
マリーは衝撃を受けるより先に、イミワカンナイ、って顔をしていた。
そして、朧げな記憶を手繰るようにマリーはこう繰り返した。
「ふ……ふじょしん?」
「言ってねえ!?」
と即座にツッコミながらも、
「あー……そうだな。腐ってる女神なんだから、ふじょしんの方がぴったりだ。合ってる」
「腐ってないしっ! ……え?あたし、臭い?」
肘を交互に上げ、くんくん、と嗅いでいるところがピュアすぎて思わずにやけそうになってしまったが、かと言って、いやいやお前は良い匂いがするぞと言ってやるのも何だか違う。
「言葉通りの意味じゃないんだってば。お前と同じ、偏った嗜好を持つ女オタクたちが自虐的に、あたしは腐ってるから、と自分自身を評したことに由来するんだ」
「腐ってる……?」
「そ」
俺は大理石の扉の方に顎をしゃくって見せた。
「お前のイラストに……それを証明する特徴があっただろ?」
「な、何だってのよ?」
「だってお前……女の子のイラストはまるで描けないじゃん」
「な――っ!」
そう。
黒板のイラストがそれを雄弁に物語っていた。
中央に描かれた《勇者》は精緻で目を見張る出来栄えだったが、周囲に群がる女神は棒人間に毛が生えた程度でそれは酷い出来だったのだ。自分と同じ、女神であるにも関わらず、だ。
「そ……ソンナコトナイワヨー」
「何でカタコトなんだよ……動揺しすぎだろ」
壊れたロボットみたいな動きしてるし。
「じゃあ質問だ。――攻めの反対の言葉は?」
「……受け?」
はい、アウト。
つか、何でそんな言葉はしっかり理解してんのさ。
俺は魔女狩りの審問官のごとき冷徹さで告げた。
「腐女神じゃないと言うのなら、そこで答えるべきは、守り、だったな。本当に……残念だ」
「のおおおおお! 今一度チャンスおおおおお!」
ぐぬぬぬ!と頭を抱えて悶絶しているマリー。その科白は女神って言うより、ヒーローに負けた女怪人っぽいぞ。しかも、割と下っ端の。
「でも……何でBLなんだよ? こっちの世界には男なんてほとんど残ってないんだろ?」
「……びーえる?」
いちいち面倒臭いなー。
ネット環境が整ってることは分かったんだし、あとでオタク方面の情報を探すコツを叩き込んでやらないと。少し考えを整理してから口を開く。ただ今回は、オタクとは何ぞや?より悩まずに済んだ。
「んー。BLって言うのはだな、『ボーイズラブ』の略語で、男性同士の恋愛を描いた作品のことを指すんだよ。で……何でなんだ?」
「何で……って言われても」
改めて問われると答えに窮するらしい。
しばし唸り、当たり前の科白を当たり前に吐いた。
「そりゃ、ここにないからに決まってるじゃん? ここに存在しないから、求めても得られない物だからこそ妄想でそれを補うんじゃないの。そんなの、あんただって同じでしょ?」
「そっか」
その科白は、清々しい程ストレートに俺の心に響いて、答える声に力がこもってしまった。
「そうだよ! うん、そうなんだよな!?」
「何喜んでるのよ……キモっ」
それ、もうやめたげてよお!
まあともかく、これではっきりすっきりした。でも、マリーはそうじゃなかったらしい。
「で………………どうするのよ?」
「どう、とは?」
「さ、さっき言ってたじゃん!」
気のない俺の返答を耳にすると、途端にマリーは真っ赤になって噛み付いてきた。
「俺たちオタクの敵だとか何だとかって……それって、もうここにはいられないってことなんじゃないの!? い、いーわよ、別に? さっきのマリッカみたいな他の女神のところに行こうが、引き留めたりなんてしないし!」
思わず苦笑してしまった。
「いやいや。さっきお前が言ってたのと同じだよ。言葉のあや、って奴。男オタクも女オタクも、群れを成せばどっちだろうがそこそこ面倒臭い集団だと思ってるし、敵だ味方だ、みたいに互いを排除しようっていう全体意志が働くモンだけど……俺は違うんだ。雑食性のオタクだからさ。差別も区別も偏見もないんだ」
「良く分かんないんだけど……」
釈然としない顔付きをマリーはしていたが、とりあえず話の続きを聞く気になったようだ。
「そりゃあ俺だってBL系はそこまで詳しくないし、とりわけ好きなジャンルでもないよ。それでも、面白そうだなと思った作品は片っ端から読むようにしてるんだ。その理由は凄く単純でさ……? 俺が本当に好きなのは、アニメでもゲームでもラノベでもなくって、それそのものじゃなくってさ。ずばり、物語が好き、ってことなんだ」
「もっと難しくなったんだけど……」
「大丈夫大丈夫。かく言う俺も、自分が何言ってんだか分からなくなってきたくらいなんだから。ともかく、俺はどこにも行く気はないよ。ま、まあ、マ、マリーがここにいてもいい、って言ってくれるなら……だけど」
いかん。
すらすら言っとけば問題なかったのに、最後の最後で不覚にも舌がもつれてしまったせいで、妙にぎこちない微妙な空気になってしまった。
「べ………………別にいいけど」
「ふう。良かった」
「あ、あたしがク、クレーム処理担当なんだしっ? だからよ! それだけなんだからね!」
「わ、分かった分かった! 近い近い!」
詰め寄り、ぶすっ、とむくれているマリーを見下ろしながら、両手を挙げて降参のポーズを取る。加えて、じろっ、と上目遣いで見上げられてしまい、辛うじて浮かべていた笑顔は引き攣ったのだが、
「それには一つ……条件があるわ」
「……へ?」
引き攣りを通り越して、ぴき、と固まってしまった俺の顔を見つめるマリーの表情が次第に小悪魔めいたものになる。
「まさか……《加護》を授けるとかじゃあ……」
「んな訳ないでしょ」
まさか……もっと凄い……こととか?
どきどき。
だが次にマリーが口走ったのは、ある意味その、もっと凄いこと、だった。
「あんたにあたしの作品づくりを手伝ってもらいたいんだけど。……文句ないわよね?」




