第十五話 女神のヒミツ
中央にいるのは《勇者》。
その周囲に、群がり集まるかのように無数にちりばめられているのは女神の姿だろう。彼女たちから中央の《勇者》に向けていくつも鋭く伸びる矢印は、授けようとする《加護》を現しているのに違いない。そして、中央の《勇者》から逆向きに描き込まれた矢印は、その行為によって見返りとして得られる何かを表現したものだろう。
違う――そうじゃない。
何も、その図の明快さに感心した訳じゃなかった。
あんぐりと開けたままだった口を閉じて口腔に溜まっていた唾を、ごくり、と飲み下すと、俺は掠れた声で囁いた。
「お、おい……。そのイラスト……」
黒板の中から惚れ惚れするようなウインクを投げかけてくる《勇者》を指さしながら、だ。
「ん……ぐっ!?」
自分でも気付いていなかったらしい。
わたわた!と今まで見たことのないほどの狼狽っぷりで、その見惚れるほど美麗なイラストを抹殺しようとするマリーを大急ぎで止めにかかる。
「ば……っ! 待て待て待てっ!」
「ちょ――っ! 放し――!」
「消すな! 消すなってば!」
なりふり構わず組み付いて、それでも物凄い力で振り解こうとするマリーをなんとか押し留めながら必死で訴えた。
「おま……っ! 凄えよ、凄えじゃんか! 何も消すことなんて――ストップ、ストォォォップ!!」
「え……?」
興奮にうわずった俺の言葉に、マリーは怯えの混じった不思議そうな顔をしながら動きを止めた。
「俺はオタクだ! 知ってるだろ!?」
「オタ……ク?」
ああもう!
説明は後回し!
「だからいろいろ見てきたつもりだぜ? だけどさ、こんなイラストを、それもチョーク一本でぱぱっと描いちまうだなんて……お前、凄えな! ほら、見てみろよ!」
まだ震える手でシャツの袖をまくると、ぶつぶつの浮き上がった青白い腕を晒して見せた。
「うっわー……超鳥肌……。……はははははっ! お前は神かよ! い……いや、女神だったっけ。俺、何だか軽く感動しちゃったぞ! 動画サイトで『ライブドローイング』なんてのを見たことくらいはあったけどさ、こうして目の前で見せつけられるとマジで半端ねえな!!」
じわじわ込み上げてくる感情の波に身を委ね、俺は盛大な笑い声を上げた。
しかし――テンションが上がっていたのは俺だけだった。
マリーは血の気を失くした昏い顔で俯いている。
「ど、どうしたんだよ?」
「……何でもない」
「いやいやいや。何でもないってことはないだろ」
その声は今にも消え入りそうだ。冗舌に語り続けながらも、さっきまで浮かんでいた俺の笑顔まで次第に固く強張り、引き攣ってしまった。
「……おいおい、本当に大丈夫か? どこか具合が悪いんじゃあ――」
ばしいっ!!
「何でもない、って言ってるじゃないっ!!」
静寂。
わざとじゃない――そんなことくらい分かった。
「あ………………」
けれど、差し出した手が咄嗟にはね退けられたその瞬間、怯えの混じった表情で顔をくしゃりと歪めたのは、俺ではなく、マリーの方だった。
「ご……ごめ………………っ!」
短く言い残し、身を翻して背後の扉へと逃げ込もうとする細い腕を無意識のうちに掴んでいた。
「ま、待ってくれ――!」
そうしないといけない、そう思ったからだ。
マリーは――泣いていた。
「なんつーか……。あの……ごめん。謝る」
ああ、くそっ。
さっきの自称女神(ロリ貧乳)のおかげで、差し出したくてもまともなハンカチがない。
鞄の中を漁って代わりの何かを探したいところだったが、今ここで引き留める手を放してしまったとしたら、もう二度と互いを理解し合う機会なんて訪れないのではないか――それが無性に怖く思えてしまって動けなかったのだ。
「そんなに嫌がるとは思ってもなくってさ――」
マリーの頬を伝う涙を止める術も持たない俺は、せめてそれを視界に入れないようにとそっぽを向きながら必死に頭を働かせて言葉を絞り出した。
「でもさ。……今言ったのはどれも本心だ。一つだって嘘だとか冷やかしだとか、そんなつもりなんてないんだ。お前、心読めるんだろ? だったら……ああ、くそっ! お願いだから分かってくれよ!」
ようやく、
「……」
こくん。頷いたのが分かった。
そして、
「……痛い」
唇を尖らせて呟く。
「あ……悪ぃ!」
掴んだままだったマリーの腕を慌てて解放する。無我夢中だったせいか、かなりの力がこもっていたようだ。居心地悪そうにマリーは腕をさすっている。だが、もう逃げる気はないらしくってほっとした。
「あの……ええと……」
少し赤みを帯びた白くてほっそりとしたその腕が、力任せの強引な振る舞いのせいでもっと嫌な思いをさせてしまったんじゃないかという後悔と、ついさっきまで目の前にいる女の子のカラダに触れていたのだというちょっぴり気恥ずかしい記憶を思い出させ、それ以上言葉が出てこなくなってしまった。
代わりに口を開いたのはマリーだった。
「引っ叩いちゃって……ごめん」
「いいって。そんなの」
いろんな意味でアドレナリン的な何かが分泌されていた俺は、ほとんど痛みを感じていなかった。また独り勝手に盛り上がった言葉を吐くのはやめておいた方が良い、と、俺は口を噤んでマリーを待つ。
口を開き、
躊躇い、
もう一度口を開いて。
「……どうしたらいいのか、もう分からないの」
所在なさげに床に視線を彷徨わせている。
「あたしは女神なんだし、きちんと与えられた使命を果たさないといけない、そんなことくらい分かってる。分かってるのよ? ……でもね、も、妄想する自分を止められないの。ふと気付くと、頭の中でぐるぐるとありもしない妄想が渦巻いているのよ」
はあ、とマリーは溜息を吐いた。
「……最初は苦しかった。凄く。だって、それが一体どうすればなくなるのか、どうすれば消えてくれるのかが分からなかったから。あたしはどこかおかしくなっちゃったんだ、って、とっても怖かった。でも……ある時、気付いたの」
マリーは黒板の中の、彼女自身の手によって端の方が掠れて消えかかってしまった《勇者》の姿をそっと指さした。
「どんどん膨れ上がって、行き場を失くしたそれを、全部丸ごと描き出しちゃえば良いんだ、楽になれるんだ、って。止めどもなく沸き出してくる妄想に姿と形を与えてあげればいいんだ、って。……でも、でもっ!」
力なく何度も首を振る。
「こんな女神なんていない。いる訳がないもの。変よ。あんただってそう思うでしょ?」
そこで俺は――。




