第十二話 女神と女神
「……聴こえたわよね?」
し……ん。
ほんの一瞬だけ時間が止まった。
「ててて……てめーはマリー=リーズ!?」
そのくすんだ緑色のジャージ姿の女神を目にした途端、女神・マリッカは激しい動揺を示し、今まで馬乗りになっていた俺の上から慌てて飛び退くと身構えた。
「ななな何でこんなところにいやがりますの!?」
「いやがりますの、じゃないわよ」
うん。
安定のやる気のなさだな。
ふと、そんな懐かしさと嬉しさを感じてしまい、にやけた口元を大急ぎで引き締める。しばらくぶりに見た女神・マリーは、例によって赤い輪ゴムで髪をまとめ上げている頭を実に面倒臭そうにぽりぽりと掻いた。
「あんたが勝手にひとんちから召喚者を拉致って、耄碌した偽王に勇者認定をさせた挙句、強引に《加護》を授けようとしてたんでしょうが。違う?」
「ななな何故それをおおおっ!」
ちょっと待って。
やっぱあのじいさん、ニセモノだったのかよ!
「何故って……もう何回目なのよこのパターン。今までは上手くいってたのかも知れないけれど、そのたびに上から怒られるのはあたしなんだけど? 分かってる?」
「う……」
細かい経緯は分からないけれど、女神・マリッカは淡々とした責めの言葉に、しゅん、と肩を落とした。が、すぐに顔を上げる。
「で……でもっ! 知ってますでしょ!? はじめて《加護》を授与した者に与えられるボーナスメガポは破格なんですのよ!? だから――っ!」
……ん?
何だか、聴き慣れない単語が出てきたぞ?
しかし、今の状況では口を差し挟むのはまずい。
何とか自分の正当性を理解してもらおうと、繰り返し必死で訴え続ける女神・マリッカだったが、女神・マリーはつまらなさそうに一瞥して長い溜息を吐いただけだった。
「ねえ、マリッカ。あんたは昔からそうだったわ。そうまでして上級女神に昇格したいの?」
「そんなの当たり前じゃねーですか! そうですわ、マリーだって――!!」
しかし、女神・マリーは頷かなかった。
その言葉に首を振る。
「だから、あたしは興味ないんだって。他にやりたいことがあるんだもの」
「いつもそう仰いますけどっ! それは一体――」
その問いに、わずかに躊躇う素振りを見せたが、
「………………無理。言えない」
答えなかった。
「――っ!」
その時、女神・マリッカの表情が泣き出しそうに歪んだのを見てしまったのは傍観者の俺だけだろう。そちらを見ようともしない女神・マリーは、興味なさげに素っ気なく言い捨てた。
「行って。ここで起きたことは黙っておく。何か聞かれてもあたしがやったことにするから」
「………………いっつもいっつも」
その呟きが聴こえたのも俺だけだったらしい。
「……ええ。えーえー、行きますわよ!」
ぷい!と腹立たし気に背を向けた女神・マリッカは、最後にその外見にはとても不釣り合いなドスの効いた低く昏い声で吐き捨てる。その背中が、肩が震えていた。
「あたし……絶対諦める気なんてねーですから! いつまでも下っ端女神でくすぶってる気なんてさらさらねーんですから! マリーなんてド馬鹿は置き去りにしちまって、ぜーったい!悠々自適の上級女神生活を堪能してやるんですから! あとで吠え面かくんじゃねーですわよっ! ばーかばーか!」
ようやくその姿が、突如出現した例の扉の向こうにすっかり消えてしまってから、俺は今までまともに呼吸すらできていなかったことに気付かされた。
「ふーっ……」
何だろう。
思い返してみると見方によっては物凄くラッキーなシチュエーションだった筈なのに、途轍もなく絶体絶命のピンチを脱した気持ちにすらなっているのが自分でも不思議で堪らなかった。
《加護》を授けるというその行為と過程で、実際にはどういうことをされるのか――されちゃうのかということについては、まるで興味がなかったかというと嘘になる。事実、ゲームのようにいくらでもやり直しが効くのであれば、さっきの続きを体験してみたいとすら思っていた。でもそれは、結局未遂に終わった今だから言えることだ。
「……ねえ」
あ。
「ちょっといい?」
まだちょっとピンチだったんだっけ。
女神・マリーの苛立ちの混じった科白に我に返る。
「あ、あの……」
「いい。御礼とか言わないで」
ぴしり、と遮られた。
「別にあんたを助けようと思った訳じゃないんだし。あの娘がまた馬鹿なことをしでかすのが嫌だったってだけ。それで叱られるのはあたしなんだから。聴いてたでしょ?」
「あ……うん」
そうだ。
この自称女神(ジャージ)は心が読めるんだっけ。
ついついぼんやりとそう思ってしまってから、
「や……やべっ!」
不本意な呼び名をまたもや当たり前のように思い浮かべてしまっていることに気付いて、気まずそうに足元に視線を漂わせた。
「もういいわよ。別にどう呼ばれようが」
「ご、ごめん……」
「それよりも――」
女神・マリーはようやく上半身を起こした俺の前で腕組みをして仁王立ちになっていた。
見上げると――あー、怒ってるよな、やっぱ。
「そりゃそうでしょ? だからあたし、何もしないで、って言っておいたじゃない! こうなるの、分かってたんだから!」
「だったら、あらかじめ教えてくれれば――」
「そうしなかったって言える?」
また先回りされてしまった。
「本気でそんなこと言ってるの? ……そんな訳ないじゃない。今まで召喚された《勇者》は、誰一人例外なくそうだったんだから」
いい加減、気になり過ぎる。
軽い苛立ちとともに尋ねた。
「さっきの女神……マリッカも言ってたけどさ。その、今まで召喚された、とか、誰一人例外なく、ってどういうことなんだよ?」
「言葉のとおりよ」
即答する。
さっきの女神・マリッカなら俺の問いを耳にした途端、しまった!という表情を浮かべただろうけれど――目の前の女神・マリーはそうはしなかった。
「それもあたし、最初に言っておいた筈なんだけど? この世界にはもう、勇者の存在は必要ないの。もう余ってるのよ、って教えてあげたでしょ?」
「あ、なるほど――って言うとでも思ったのか?」
相変わらずの要領を得ない答えに我慢が出来ず、ノリツッコミで問い返したら返ってきたのは溜息だった。しばらくそのままでいると、女神・マリーは渋々説明を始めてくれた。
「この世界、《ノア=ノワール》はね……一〇〇年前の魔王討伐を機に、男性と女性、老人と若者、そして神と女神と人間のバランスを失ってしまって、とても不安定な状態にあるの。あんたもこの町を訪れた時、何か妙だと感じたことはあったでしょ?」
「確かにあった」
改めて思い返す必要すらなかった。
「町や城を警護する衛兵は皆女の子だった。それが凄く不思議でさ……。それにはっきりとは見えなかったけれど、家という家に引き篭もってるの、あれ、全員女性なんじゃないか?」
拒絶するように閉じられていく木戸の向こう側にかすかに見えた人影は皆髪が長かった。
「間違ってないわよ。この町にいる人間は、ほとんどが女性。男の人は、そこにいる――」
女神・マリーは、とうとう玉座でうとうとし始めた老王――いや、偽の王様役をやらされていた皺くちゃの老人を指さす。
「――そのおじいちゃんくらいしか残ってないかも。あとはもうここにはいないわ」
と、言うことは、その男たちは……?
しかし俺のうすら寒い想像をいなすように女神・マリーは道化じみた仕草で軽く肩を竦めてみせた。
「残念外れ。ぴんぴんしてるわ。むしろ第二の人生を謳歌しまくってるかもね――あっちで」
そう嘯く科白の最後でうす暗い天井を指さした。
だがここは城の最上階である。
え……。
それってまさか――!?




