第20話 アリシア・アーレンベルク・プルーブ・カタロニア
あの日、いつものように夕食を終えた私は、やはりいつものように退屈して、部屋の窓から空に浮かぶ月を眺めていた。
家庭教師から宿題として帝国の歴史教本を渡されたが、興味を持つことが出来ずに、気が付くと同じ場所を何度も目で追っていた。
教本を閉じて溜息をつき、中庭へ続く窓を開ける。
冷たい夜の風がレースのカーテンを静かに揺らしながら、足元を通して部屋の中へ忍び込んでくる。
部屋の中に散らばるこまごまとした物を片付けながら、侍女のアニタが言っていた。
先日十六歳になった私に婚約者が決まったそうだ。
帝国の南の方に領地を持つ伯爵家の息子だと話していた。
私自身の結婚話だというのに、どこか他人事のようにうわの空で聞き流していた。
名前も知らず、ましてや会ったことも無い他人の事に、好意も悪意も持てなかった。
帝国王家の娘として生まれたが、正式に認められている子供だけで十五人もいる中で、第十一子、第六王女でしかない私に、政治的にそれほど重要な利用価値は無いが、そうかと言って、自由気ままに生きる事が出来ないのは、かなり早いうちから分かっていた。
カタロニア皇帝には八人の妻がおり、六番目の妻である私の母は、弟を生むとすぐに亡くなってしまった。
私の父親である皇帝陛下には、もの心ついてから話しかけられた記憶が無い。
時たま、帝国の公式行事に参列した際に、列の一番後ろの方から、そのお顔を眺める事が出来るだけで、肉親の情など沸きようがなかった。
母親の違う兄妹たちも、王宮内の離れた棟で暮らしており、めったに顔を合わせる事は無い。
唯一、比較的歳が近い腹違いの妹であるマーシャとは、私の実弟ラルフと一緒に、中庭の花畑や噴水でよく遊んだ。
いつの間にか、窓辺にもたれ掛るようにして眠り込んでしまっていた。
肌の上を流れて行く夜風の冷たさと、何かの物音が聞こえて目を覚ます。
耳を澄ますと、ひとの怒鳴り声や悲鳴、そして叩きつけられ壊される様な物音が聞こえてくる。
胸騒ぎを感じカーテンを脇に寄せ、窓の外に目をやる。
となりの棟の向こう側から何かが燃えているような赤い光が見え、そして澄んだ夜空に雲を作り出すかのような厚みのある体積を持った煙が湧き出している。
何が起こっているのか分からずに、呆然と床に座り込んでいると、乱暴にドアが開けられ、私の叔父、実母の弟がまだ寝ぼけまなこのラルフを抱きかかえ、数人の騎士達と共に足音を響かせながら部屋へと押し入ってきた。
薄い夜着にカーディガンを羽織っただけの私は、叔父に強く手を引かれ、前と後ろを騎士に守られ、何も知らず、何も説明されないまま、部屋の外へ連れ出された。
辺りから漏れ聞こえてくる喧騒の中、足早に何処かへと向かう途中、窓の向こう側の渡り廊下で、王宮の兵士と外から来たと思われる男達が争っているのが見えた。
ぶつかり合う剣と盾の音、煙に追われ逃げ惑う使用人達の悲鳴が聞こえる。
知らない男達が振り下ろす剣に、次々と兵士が血を吹き上げながら倒れていく。
一方的な暴力、破壊、蹂躙。
襲ってきた男達の後方では、輝く槍を持つ男が、悠然と目の前で繰り広げられる殺戮を眺めている。
後ろ姿しか見えないのに、何故か私には、その輝く槍を肩に軽く掛けながら、男が薄く笑っているように見えた。
その男がゆっくりと前に出て槍を一振りすると、十人以上の兵士、その後ろにある謁見の間へと続く巨大な扉が轟音と共に吹き飛んだ。
その槍は、何かの光を反射しているのではなく、それ自身が淡い光の粒子をまとわせながら強く光り輝いていた。
悪夢のような光景に心を奪われ立ちすくんでいた私は、再度、肩が外れるかと思うほど、強く手を引かれ、乱暴に急かされながら、王宮の薄暗い廊下と部屋を走り抜け、見た事もない狭く蜘蛛の巣がかかる、埃だらけの通路を這い摺り、気が付けば城下町の裏路地を歩いていた。
人通りを避けながら、王都の外壁の傍にある人気のない民家に辿り着く。
きしむ戸を叩き壊すように開けて、明かりの無い家の中へと雪崩れ込む。
厚い埃の積もった床、粗末なテーブルと椅子、放置された年月に耐え切れず斜めに傾ぐ戸棚。
ここに来て、ようやく叔父も張りつめていた気を緩め、崩れるように部屋の中央にある椅子へと腰を下ろした。
しばらく肩を落とし、黙ったまま床を見つめ続ける叔父が、もの問いたげに弟を抱きしめながら佇む私に気が付き、静かに顔を上げる。
「反乱だ、ランカスター公爵派が傭兵と手を組んで逆賊となった」
それだけ吐き捨てるように言うと、また下を向いて黙り込んでしまった。
どうして良いか分からず、声も出せずに涙を流し続ける弟を抱きしめていると、家の戸を静かに叩く音がする。
不意の物音に驚き、縋り付いてくる弟の頭を撫でて、落ち着かせる。
叔父がゆっくりとドアに近づき、何かを話しかけるとそれに応える声が聞こえた。
ドアから入って来た騎士達は、それぞれが、その手に荷物を持っていて、その中から一組の服を取り出し私に差し出した。
「それを着なさい」
叔父に言われて広げると、町娘が着る様な生地のドレスだった。
「でも・・・、アニタがいないと・・・」
「ひとりで着るんだ!」
ひとが変わったような叔父の叱責に体を怯ませ、下を向くと零れ落ちそうになる涙を堪えながら、のろのろと冷たい床の上で着替えた。
慣れない衣服に手惑いながらも、どうにか身支度を終える。
弟はいつの間にか泣き止んでいた。
度重なる出来事に耐え切れず、心が凍ってしまったかのように壁の一点を見つめ、立ち尽くしている。
放心して、ぴくりとも動かない弟を、静かになだめながら着替えさせた。
騎士のひとりが家の奥の部屋の床板をはがすと、底の見えない真っ暗な穴が現れて、言われるままに垂らされた縄梯子を伝い下りていく。
先頭の騎士が灯すわずかな明かりだけを頼りに、薄く水の溜まった地下通路を進む。
時折、足元を何かが駆け抜けて行き、声を上げそうになるが、唇を噛みしめ必死に耐えた。
時間の感覚が解らなくなるような、どこまでも続く暗い地下通路を潜り抜けるとそこは、外壁の外側にある物置小屋の中だった。
騎士が外の様子を探り、こちらへ静かに頷く。
叔父が振り向き、私と弟の肩に手を置いて。
「これから、旅の商人に身をやつし、マルティニー山脈を越えてバルト王国に向かう。つらい長旅だが、二人ともがんばるんだぞ、山脈さえ越えてしまえば大丈夫だ」
この日、初めて、優しく声をかけてもらったが、結局、叔父は山の向こう側のバルト王国に辿り着くことが出来なかった。
街道を外れて、目立たぬように脇道を選びながら旅をした。
マルティニー山脈の尾根を越えて、あと一息というところだったが、山の中腹で追手に追いつかれてしまった。
護衛の騎士もひとり、またひとりと倒れていき、私の目の前で弟が切られ、山の岩肌を跳ねるように落ちて行くのを見ると、身体が固まり、動けなくなった。
「逃げろ!アリシア!走るんだ!アリシア!」
追手ともみ合う叔父の声が聞こえ、我に返った。
木の間をめちゃくちゃに走った。
藪に体を隠しながら、とにかく山の麓を目指し、息をするのも忘れて、ひたすらに山の斜面を走る。
だが、木の根に足をとられ、地面に倒れてしまい、身体全体を刺すような痛みに襲われて動けなくなってしまった。
追いついた男に私の髪を鷲掴みにされた。
そのまま私を引きずりながら山道を引き返した。
声の限りに泣き叫び、手足を振り回したが、男に殴られ、意識が飛び、もうどうでも良くなって、それ以上、抵抗するのをやめた。
死んでしまった弟。
もう声の聞こえなくなった叔父。
もう戻れない退屈だった王宮の部屋。
私も楽になってしまいたかった。
引きずられていく私の足元をぼんやりと見ていると、突然、茂みの中から何かが飛び出してきて、男と一緒に跳ね飛ばされた。
低木の葉を散らし、岩に体をぶつけながら山を転がり落ちていき、気が付くと見た事もない男が、剣を振り上げた男から身を挺して、私を守ってくれていた。
私をかばって前に立った男に、剣が振り下ろされる。
そのとき茂みの中から大きな黒い獣が現れ、追手の男に襲いかかった。
あの時、山の中で、全てを諦め、生きる事を投げ捨てた私を助けてくれたのは、カズヤとシリウスだった。
見た事も無く、話す言葉も解らなかったのに、やっと来てくれた、ずっと待っていたと心の底で叫んでいた。
駐屯地から村へと帰る馬車の中。
規則正しく聞こえてくる馬車の車輪の音に眠気を誘われ、カズヤにもたれ掛かった。
カズヤと初めて会った時の事、そしてそれからの事を半分夢の中でうつらうつらと思い出していた。
カズヤと一緒に教会の孤児院で過ごす日々は、毎日が楽しかった。
シスターのハンドベルで目を覚まし、教会の食堂で皆と話しながら朝食を摂る。
子供達と教会の周りを駆け回り、裏庭に咲いている白詰草で花輪の王冠を作る。
王宮での事を思い出し、少し寂しくなるとカズヤに背中から抱き着いて困らせる。
時々、カズヤと手を繋いで教会の外を歩く。
私に懐いてくる孤児院の子供達を見ると、目の前で山から落ちていった弟を思い出して、胸の奥が締め付けられるように痛くなる。
そんな時は、カズヤの後ろから思いっきり抱き着いて、背中に顔を埋める。
カズヤの背中の暖かさで冷たい記憶を心の奥に押し戻す。
今はカズヤが全てだ。
私にはカズヤしかいない。
振り返ったカズヤの顔が、私の冷えた心を温める。
教会の責任者のロバート司教、副責任者のシスターアデリン、孤児院を監督するシスターマリサ、教会の孤児院で先生をしてくれている、ソフィとボリス。
みんな私に優しくしてくれて、いろんな事を教えてもらった。
魔法の訓練で魔力を使い切って、カズヤと一緒に教会の裏庭に寝転んで、青い空を見上げるのが好きだ。
少し魔力が回復すると、ふざけて抱き着くフリをしながら、気づかれないように、ほんの少しだけ、こっそり、ひっそりと魔力を同調させてカズヤを感じた。
ソフィには、気づかれてしまったけれども。
「やりすぎたらダメよ、気を付けるのよ」
ひどく怒られると思ったけれども、そう言うだけで、何故か大目に見てくれた。
王宮での魔法の先生は、まじめだったけれども、それ以上に退屈な先生だった。
でも、今は感謝している。
回復魔法を覚えていたおかげで教会で働くことができ、冒険者としてカズヤを助けることができた。
マラガに来たばかりの頃は、私のことを知っているひとに出会うのが怖くて、カズヤの後ろに隠れていた。
ロバート司教は、私の事を知っているみたいだけれど、黙ってくれている。
「これを着ていれば、たとえ昔のアリスを知っている人と会っても、見違えて、簡単には分からないだろう。何か言われたら、マラガの孤児院で育ち、マラガの教会で働いているシスターだと答えなさい」
そう言うと、教会の制服を渡してくれた。
何も言えずに、黙ってうつむいた私の肩に手をおいて。
「大丈夫、何も心配しなくていい、君はマラガのシスターアリスだ、いいね?」
それっきり、余計な事は何も聞かずに、他のシスターや子供達と同じように接してくれる。
ありがとう、ありがとう、ありがとう。
カズヤとソフィ、それにシリウスと旅立つ前の日。
「旅先で困った事があったら、これを持って近くの教会に行きなさい。きっと助けになってくれるはずだから」
ロバート司教から、蝋で封をした手紙をもらった。
「あ、あの・・・、ありがとう、ありがとうございます。ごめんなさい、言えなくて、言えなくて・・・」
マラガへ来てから、初めて泣いた。
ロバート司教とシスター、子供達、皆の顔が心の中に湧き上がり、いっぱいになって溢れ出した。
頬を拭う手を押しのけて涙がこぼれ落ちる。
教会の窓から差し込む陽の光が、とても暖かくて涙が出た。
いつか、カズヤにも本当の事を聞いてもらいたい。
あの夜の事、輝く槍を持った男の事、私の家族の事。
マルティニー山脈の向こう側に置いてきた私の本当の名前。
アリシア・アーレンベルク・プルーブ・カタロニア。
今はもう、無くなってしまった帝国皇家の家名。
でも、きっとカズヤのことだから。
「ふーん、そうなんだ」
悩んだ私がバカに思えるほど、いつもと変わらない口調で答えるに違いない。
ソフィもカズヤのことが好きだ。
隠しても私には分かる。
でも、何か気にしているみたいで、ちょっと近づいて、たくさん離れる。
そんな、もどかしい事を繰り返している。
私みたいに、大好きって言って、思いっきり抱き着くと、とっても気持ちがいいのに。
ソフィと二人だけで水浴びをしている時に聞いてみたら。
「大人には、いろいろあるのよ」
そう言って、私を子ども扱いしてくるけれど、カズヤを好きになった順番なら私のほうが先輩のはずだ。
顔を真っ赤にして困ったように反対側を向いたソフィは、私よりよっぽど子供のようで可愛らしかった。
しょうがないなあ、許してあげる。
でも、今日は朝からソフィとカズヤの様子がおかしい。
昨日の夜、何かあったようだ。
隠しても私には解る。
抜け駆けは許さない、私とソフィ、ふたりでカズヤのお嫁さんになるのだ。
そして、いつまでも、いつまでも、ずっと一緒に旅をする。
揺れる馬車の中、私は、そっと息をひそめてカズヤの唇を狙う。
「まだ見つからねえのか?」
「は?何がですか?」
「先輩だよセンパイ!」
「またですか・・・、もう四年も経ったんですよ?きっと魔物にやられて死んでますよ。そもそも、こっちに来ているとは限らないでしょう?だいいち、当時は女性キャラを操作していたんですよ?こちらの世界では男性名を名乗っているはずです。名前も分からない、顔も分からないでは探しようがありません」
「いいや、あのヒトの事だ、絶対こっちに来ている。来ていないワケがねえ。ましてや魔物なんぞに殺られるワケがねえ。確かメインの職業はメイジだったハズだ、この世界の腕の良い魔法使いをかたっぱしから当たれ!」
「無茶言わないでくださいよ。ただでさえ山脈の向こう側には表立って調査隊を送り込めないんですから、それより、まだ貴族達の残党が残っていますし、国内の治安も安定しておりません。未決の書類も溜まっています」
「あぁ、先輩、俺を助けてくれよ、俺の隣にいてくれよ、俺には先輩が必要なんだよ。俺の持っているモノは全部やるから、あの時のことは謝るからさ」
「仕事してください」




