ありがとう
「……」
場には静寂が訪れる
耳を澄ませば豪雪の音が聞こえる
彼は本を閉じてハア…と一段落したというようなため息をつき、笑顔でこちらを見た
なんだ?と訝しげに彼を睨むが、「そんな顔をしないで」と俺をなだめ時計を指した
「もうこんな時間だけど、君の家は門限何時なのかな?」
時計を見ると、もう6時過ぎだった
しまった…
しまった、しまった、しまった!
聞き入ってる場合じゃなかった!!
一定の時間が狂うと、母さんも狂う
そうなっている
そう決まっている
「…その様子じゃあ、今日はもう話は無理だね。また明日だ」
「明日…」
いまいちここにまた来ることを納得出来ない自分がいる
もうここに来た時点で、俺の明日の放課後の予定はもう埋まってしまっているのに
「うん、また明日。明日は時間教えてよ。その時間で終わるようにするから」
「え?…あ…ああ…」
一瞬の戸惑いと、気の緩み
思いがけない台詞への戸惑いと、少しいいやつだと思ってしまった気の緩み
少し緩んでしまえば、あとは徐々に心の壁が崩れていくだけ
だが、そんなこと自分の意思とは無意識にだ
無意識に、気づかないうちに、俺の心の壁が消えていく
あるいは、消されていく…のが正しいのかもしれないけど…
俺は、慌てて扉まで行き彼を見ずに扉を開き『それ』を言う
「ありがとう」
彼はどんな反応をしていただろうか
喜んでいたか、驚いていたか
想像もつかない
でも言った
ちゃんと聞こえたはずだ
走りながらさっきの言葉を思いだし、顔がボッと赤くなるのを感じた
俺は何に対してありがとうと言ったのだろう
話を聞かせてくれて?
優しくしてくれて?
気遣ってくれて?
多分…その全てに
教室に入り、自分の席に着く
急がなきゃ、直哉にも迷惑を掛けてしまう
でも…だけど…
額を机にゴンと擦り付け、真っ暗な教室で一人
「うああぁぁぁぁぁ…恥ずかしいぃぃぃぃぃぃ…」
何度も何度も額を机に叩きつけ、さっきまでの自分を責め立てる
最悪だ
なんで礼なんて言ったんだ
あんなやつには心の中で言っとけばいいんだ
いやいや、そもそも言わなくていいんだ…
ああぁぁぁぁ…もう!!
バッとヒリヒリする額を勢いよく上げ、鞄を片手に席を立つ
「よし、早いとこ帰ろう」
直哉ごめん、今帰るから
母さんが今どうなってるかは分からない
ヒステリックを起こしてるかもしれない
今の内に心を入れ替えないと
そうして俺は、明かりのついた図書室を振り返らず校門を出て、雪に囲まれながら我が家に帰るのだった