ガクランの秘密
伝説のガクランの由来があきらかに! いったい伝説のガクランとはなにか?
朝食がすむと、ケン太は父親のブン太に切り出した。
「父さん、聞きたいことがある」
「なんだ、あらたまって」
「伝説のガクランのことだ。父さん、いったいどうやってあれを手に入れたんだ?」
ブン太は腕を組んだ。
ケン太はまだ伝説のガクランに袖を通していない。髪の毛も黒く、もとのままだ。父親からガクランについて詳しい話を聞くまでは、身につける気にならなかった。
ブン太は腕組みを解くと、口を開いた。
母親の純子が側に来て、そっとふたりの前にお茶をいれた湯飲みをおく。
「やはり話しておいたほうがいいだろうな」
父親は話しだした。
ブン太が高校一年生、つまりいまのケン太と同じ年頃。
赤星高校は荒れていた。
いわゆる校内暴力、というやつである。
番長やスケ番が隠然たる勢力を持ち、普通の善良な生徒を恐怖で支配していた。いや、生徒ばかりではなく教師も、だった。
教室や廊下では、不良たちが公然と喫煙、飲酒をあたりはばかることなく行い、女子生徒や女性教師らに性的ないやがらせ……いや、レイプまで行っていたのである。
赤星高校の荒れようは、外からでもわかるくらいだった。校庭にはゴミが散乱し、暴走族がバイクや車を勝手に乗り回す。塀や壁にはペンキで落書きがところせましと塗られている。そのひどさに、校舎の空はいつも暗雲が垂れ込めているようだった。
高校をすこし離れた丘の上から、ひとりの老人がじっと観察していた。ひょろりとした痩身で、手になにかの包みを持っている。
「なるほど、確かにひどい。これではニューヨークのスラム街とおなじだ……」
老人の瞳はなにかを探しているようだった。
と、老人がなにかに注目した。
学校の裏手、ひと気のない体育用具置き場の側で、ひとりの男子生徒が数人のあきらかに不良とわかる生徒たちに取り囲まれている。
「だからおれの欲しいのはこんな甘ったるい炭酸飲料じゃなくて、ほかのやつだって!」
「おれのも違うじゃねえか。おれは別冊の月刊誌を買って来いと言ったんだ。お前の買ってきたのは週刊誌じゃねえか!」
買い物の袋を手に提げ、ひとりの男子生徒が身を固くしてじっと不良たちの暴言に耐えている。
「それに煙草はどうした? 酒も買って来いと言った筈だぞ」
「で、でも……!」
男子生徒は顔を上げた。
今のケン太そっくりの顔。
ブン太だった。
お? と不良たちは面白そうな顔つきをして見せた。こいつ、反抗する気か?
「煙草や酒は学生服じゃ買えないから……」
「自販機があるじゃねえか! まったくつかえねえな、このパシリ」
「でもあんたの指定した銘柄、自販機じゃ売ってないよ!」
「あんた、だと? おめえ、誰にもの言っている?」
ブン太は身をふるわせた。
不良たちはじりっ、と距離を縮めた。
「こりゃあ、罰が必要だな……」
「うん、そうだ。罰が必要だ」
ブン太の顔に怯えが浮かんだ。
「罰はなににしようか?」
「そうだなあ……」
不良たちの目にサディスティックなきらめきが浮かぶ。獲物をいたぶる残忍な表情だ。
「よし、スクワットを百回だ!」
「そうだ、スクワットだ!」
「さあ、始めるぞ、いーち……」
ブン太はスクワットを始めた。両手を後頭部にあて、ゆっくりと膝をまげる。そしてまた身体を伸ばす。
「ふたーつ……」
「みっつ……」
不良たちはわざとゆっくり数をかぞえている。これはきつい。スクワットできついのは、ゆっくりな動きである。
「とお……じゅういち……じゅうに……」
ブン太の額に汗がふきだした。顔はすでに真っ赤になっている。
「にじゅうに……どうした? 身体がふらふらしてるぞ!」
「そうだ、真面目にやれ!」
普通の体力の持ち主で、スクワットを真剣に十回以上やってみればその苦しさがわかる。ブン太はすでに体力の限界をこえていた。
「さんじゅう……」
ついに倒れこんだ。
わっ、と不良たちが喚声をあげた。
「こりゃ罰が追加だな」
「そうだ、あと百回追加だ。三十までやったから、百七十やるんだぞ!」
ブン太は目に一杯涙をためていた。
ようやく不良たちから解放されたとき、ブン太はふらふらになっていた。腿の筋肉はぱんぱんに腫れあがり、背中の筋肉も傷めている。這うように校舎をあとにし、帰宅路をとぼとぼと歩いていた。
「待ちなさい」
老人の声がして、ブン太は立ち止まった。
夕暮れの中、ひとりの老人がたたずんでいる。夕日をバックに真っ黒な影になり、表情は読めない。
「なんですか?」
ブン太は目を細めた。老人はうなずいた。
「さっきから見ておったが、お前さんそうとうやられていたのう……」
ブン太の顔が赤くなった。夕日がまともに当たっているせいではなかった。
くるりと背をむけ歩き出す。
「待ちなさい!」
もう一度老人は呼び止めた。さきほどより、強い調子だった。
「ぼくに何の用なんだ!」
ブン太は怒ったような声になった。
「きみにいいものをあげようと思ってな……これをあげよう」
老人は手に提げた風呂敷包みを差し出した。
ブン太は妙な表情になった。
老人は言葉を重ねた。
「もしこれがきみを選べば──いや選ぶにきまっておるが──きみは今日から生まれ変わることが出来る! さあ、受け取れ」
そう言うと老人はじっと生徒を見つめた。その目のひかりは異様だった。常人の目のひかりではない。
とはいえ、狂人とも思えない。
強い意志と、決意が秘められた目のひかりだった。
その目のひかりに、ブン太はついふらふらと近づき、手をのばした。
風呂敷包みが渡された。
老人は莞爾とほほ笑んだ。
「それではお別れじゃ! 幸運を!」
そう言うとさっさと歩き出した。
ブン太はぼんやりと立っているだけだった。
名前を聞くのを忘れた、と思った。
「それが伝説のガクランだった……」
懐かしそうな目になって父親は話しをつづけた。
翌日、伝説のガクランをまとったブン太に、高校は騒然となった。
「だれだ、ありゃ?」
「高倉の奴らしいぞ……」
「ブン太が──まさか!」
校門でたむろしていた、昨日いたぶっていた不良たちがブン太を取り巻いた。じろじろとガクランを眺め口を開いた。
「いよう、高倉くん……ずいぶんとめかしこんでいるじゃねえか!」
へらへらとひとりの不良が近づき、ブン太の金髪のリーゼントに触ろうと手をのばした。
ブン太はさっとその手を振り払った。
不良の目にかっ、と怒りが燃え上がった。
「野郎! すかしやがって……」
殴りかかるその手を、ブン太がねじりあげる。
「痛てててて……!」
悲鳴をあげる。ブン太はかれの手首を掴みながらゆうゆうと歩き出した。
「こいつ!」
ひとりが殴りかかるのに、手首を掴んだ不良を押してぶつける。わっ、とふたりはもつれあって転んだ。
立ち上がろうとするところにブン太の爪先が襲いかかった。
ぼく! とブン太の爪先がひとりの腹にめりこむ。
ぐえええ……!
鳩尾をまともにキックされ、その不良は身体を折り曲げて苦しんだ。胃液が口もとから吐き出され、酸っぱい匂いが漂う。
ブン太の背後から襲いかかるのを、さっと身を翻し平手で頬を張り倒す。
強烈なビンタに、相手はきりきりと身を廻して倒れこんだ。顔を上げたその顔に、深甚な恐怖が浮かんでいた。
「まだやるか?」
ブン太は叫び、ひとりひとりじっと見つめていく。ブン太に見つめられ、全員目をそらした。
戦意はすでになかった。
ブン太は後を見ることもなく、さっさとその場を立ち去った。
ブン太の目指したのは校長室だった。
「失礼します」
ドアをノックし、返事も待たずドアを開けた。
「きみ?」
デスクの向こうで校長が驚いて立ち上がった。やがてケン太が会うことになる赤星高校校長の若いころである。ブン太はつかつかと校長に近づいた。
「校長、お願いがあります!」
驚きのあまり、校長は口をぱくぱくさせるだけだった。
「この赤星高校はひどい状態です。ぼくはそれに怒りを感じていました。それで、この際高校の大掃除をしようと思うのです。つきましては、ぼくがなにをしようと黙認するという許可を頂きたくお願いにあがったのです。
校長、この高校をまともな状態にするチャンスなんです!」
一気にそこまで話し終り、校長の反応を見る。
校長は奇妙な表情になっていた。
その目がブン太を通り越し、室内の別の方向へむけられている。
なんだろうとブン太は背後をふり返った。
校長室の接客用のソファに、ひとりの少女がきちんと膝に手をやり、座っていた。細面の、大人しそうな美少女である。年令はブン太とおなじくらいか。しかし赤星高校の制服ではなく、べつの高校のブレザーを着ている。
「お客さんでしたか」
「その……転校生なんだ」
「そうでしたか。それは失礼しました。ええと、きみ……ようこそ赤星高校へ」
かるく会釈し、ブン太は笑顔を見せた。
少女ははっ、とした表情になった。
ブン太が笑顔になったとき、その口もとの歯がきらりと光って見えたのである。
少女と目が合って、ブン太はウインクをして見せた。少女は真っ赤になった。ウインクしたブン太の瞳がきらりと煌いて見えた。
彼女こそ、ブン太の運命の相手、純子であった。
その日からブン太の活躍がはじまった。
校長の許可をえ、ブン太は高校の大掃除をはじめた。一月もたたないうち、荒れきっていた赤星高校は立ち直り、生徒や教師は安心して登校できるようになったのである。この活躍で、ブン太は伝説の番長の称号を得、ブン太と純子は将来を誓い合った。
*
父親の話しはそれなりに興味深かったが、ケン太の知りたいことは教えてはくれなかった。
結局、ガクランはどこからきたのか?
ケン太は部屋に戻り、ハンガーにかかったままのガクランを見つめた。
ガクランがケン太を見つめ返しているようだった。
たまらずケン太はガクランを手にし、袖を通した。
!
ある衝動がケン太を貫いた。
外へ……。
そしてある場所へ向かえ……ガクランがそう告げていた。
胸をどきどきさせながら、ケン太は家の外へ歩いていった。
一歩ごとにケン太は変身していった。
髪の毛が自然にオールバックになり、リーゼントの髪型を形作っていく。その色がじょじょに薄くなり、金髪になった。足取りが力強く、自信を深めていく。
ケン太は駅へ向かった。
切符を買う。
思ったより遠い。
目的の駅は、港町だった。
電車に揺られ、ようやく到着した駅前はにぎわっていた。
その喧騒の中をケン太は裏道を探して歩いていく。こまごまとした路地を右へ左へと進んでいった。ちいさな商店が立ち並ぶ中に、目的の場所があった。
「押忍! 有難うございました!」
だしぬけの大声に、ケン太は立ち止まった。
ちいさな服飾屋の店先で、髪型をオールバックに決めた数人の学生が、身を折り曲げて最敬礼をしている。全員膝元まで達する長いガクラン──長ランというやつだ──を着て、裾が広がったパンタロンのようなズボンを穿いている。
かれらは最敬礼をすませると、全員足取りをそろえケン太の立っている方向へ歩き出した。ケン太の側をすり抜けるさい、全員じろりと鋭い視線を送っていった。
ケン太はその服飾屋へ近づいた。
つくりは古い。木造の、平屋建てである。
ウインドゥがあり、様々な種類の学生服、セーラー服が展示してある。普通のもあったが、大部分は改造したものだった。ウインドウのガラスに貼り紙があり
学生服、セーラー服
お仕立ていたします
オリジナルも承っております
とあった。
ケン太はおそるおそる店のガラス戸を押して中へ入った。
からん、とドアベルが鳴った。
入ってすぐがカウンターになっていて、ひとりの二十代はじめころの女性が帳簿らしきものをひろげている。背が高く、憂いをおびた表情をしていたが、はっとするほどの美人だった。彫りが深く、日本人離れをした美貌をしている。もしかしたらハーフかもしれなかった。
なにか話しかけたかったが、なにを話していいかわからない。
と、その時もうひとりの客が入ってきた。ばん、と勢いよくドアを開いたせいで、ドアの上のほうについているドアベルががちゃがちゃとうるさい音をたてる。
小柄な男子生徒だ。
かれは興奮しているのか、顔を真っ赤にさせ入ってくるなり大声をあげた。
「押忍! 自分は由良高校の応援団に所属しております加藤というもんです! 今回、あたらしい応援団の制服を作ってもらいにまいりました! どうかよろしくお願いします!」
あまりの大声にケン太はびっくりした。
加藤と名乗った男は背をぴんとのばし両足をぴったりとあわせ、気をつけの姿勢のまま動かない。
カウンターの女性はうなずくとかれに近づいた。手にメジャーを持っている。
「それじゃ採寸するわね」
「押忍!」
彼女は手早く加藤の全身のサイズを計っていき、手元の手帳に数字を書き込み始めた。彼女が採寸するため加藤に手を挙げなさいとか、足を開いて、というたびに相手の生徒は素直に従う。
やがて採寸がおわったのか、彼女はうなずいた。
「それじゃどんな学生服を作ってもらいたいの?」
「あ……あの……」
加藤は真っ赤になった。
「あの……格好良いのをお願いします!」
女性はちょっと首をかしげた。
「格好良いって言ってもどんなのがいいのか……そうね、あんたちょっと背が低いから短ランなんてどうかしら。似合うと思うわよ」
「それでお願いします!」
加藤はさらに大声をあげた。
女性はメモを見て告げた。
「いま注文が重なっているから、そうねえ仮縫いは来週でどうかしら? 来週の木曜、学校が終わったらいらっしゃい。どう?」
「押忍! 窺わせていただきます!」
くるりと回れ右をして、加藤と名乗った生徒は出て行った。
あっけにとられたケン太に、女性は笑いかけた。
「ここじゃあんなのが多いのよ。近くに由良高校ってのがあって、そこの応援団の団員がお得意さんなの。あの加藤って人、今年応援団に入ったばかりで、格好良いガクランが欲しくなったのね」
そう言ってケン太のガクランを眺める。
「あんた……」
彼女の視線が厳しいものになった。
「そのガクラン、うちで誂えたものね……そのラインは見覚えがある。きっとお祖父ちゃんの手になったものだわ」
ケン太は驚いた。
彼女はまじめな顔になり、さっさとドアに近づくと「開店中」の札を裏返しにし「閉店中」に変えた。
「そのガクラン、詳しく見せてもらえる?」
ケン太は頷いた。それこそ望むところである。
彼女はくすりと笑った。
「ご免なさいね、つい夢中になって。あたし、ヨーコって言うの。この辺じゃハマのヨーコで通ってる」
「高倉ケン太です」
おたがい自己紹介がおわり、ヨーコは真剣な目になってケン太のガクランを仔細に点検しはじめた。
彼女の顔が間近にあり、香水の匂いがケン太の鼻腔を擽る。ヨーコはガクランの生地をつまみ、考え込んだ。
やがて得心が行ったのか、うなずいて口を開いた。
「確かにお祖父ちゃんの作品に間違いないわ。たぶん、最後に仕立てたガクランかもしれない。最近、このガクランあなた以外の人間によって袖を通されているでしょう?」
「そんなこと判るんですか?」
「ええ、それもふたりにね。ひとりはガクランによって拒否されたみたい。もうひとりはあなたにこのガクランを返したひとね。生地の繊維の乱れで判るわ」
「そうですか……実は、いろいろお尋ねしたいことがあるんです。いったい、この伝説のガクランというのは何ですか?」
「伝説のガクラン──そう呼ばれているのね」
ケン太がうなずくと、ヨーコは腰に手を当てた。
「それじゃこっちへいらっしゃい。長い話しになるからお茶でもいかが?」
ヨーコはケン太をカウンターの裏に案内した。カウンターを回ると、そこは家の中に続いていて、ちいさなキッチンと、ダイニングになっていた。テーブルについたケン太に、ヨーコはコーヒーを出してくれた。インスタントではない、ドリップ式の本格的なやつだった。
「あたしのお祖父ちゃんが死んだのはもう、十年前になるかしら。なにしろそのとき百を越していたから、大往生ね。でも死ぬ前に、あたしにこの店を継いで貰いたいと遺言したので、それでこうしているわけ。当時はあたしまだ高校生だったから、こんな店の番をするのなんか厭だったけど、それでも十年たったら愛着みたいなのわいてきたわ」
ヨーコはくすりと笑った。
「あら、つい自分のことばかり……そうそうお祖父ちゃんのガクランのことよね。お祖父ちゃん、戦争中陸軍にいたの。そこで軍服のデザインみたいなことしていたの」
ケン太の表情を見てヨーコは肩をすくめた。
「陸軍って言っても判らないでしょうね。いまから何十年も前、日本は世界を相手に戦争していたのよ。当時は自衛隊ではなく、陸軍と海軍というのがあって……まあ、とにかくお祖父ちゃんはその陸軍で新しいデザインの軍服を作るよう、依頼を受けていたのね。なぜそんなこと陸軍が依頼したかというと、格好良い軍服を兵士に着せて、士気を高めようという作戦だったの」
ケン太は自分のガクランを見た。
「そうよ、そのガクランはそのときの研究の成果でもあるのよ。知ってる? 日本の学生服のルーツは軍服だって」
「そうなんですか?」
「そうよ、セーラー服だって、もともと海軍の制服だったわ。お祖父ちゃんはその研究に心血を注いでとうとう新しい軍服を完成させたの。でも結局陸軍はその軍服の採用を見送ったの」
「どうしてですか?」
ヨーコは笑った。
「お祖父ちゃんはその軍服に理想的な兵士の性格を付与させたのね。その性格が陸軍の統制にあわなくなったと言われている。理想的な兵士の性格ってなにかしら?」
さあ、とケン太は首をかしげた。
ヨーコはさきを続けた。
「勇気、正義感、不正に対する怒り……そんな性格が兵士に与えられたんだけど、当時の陸軍の上部にいたひとは、そんな性格をあたえられた兵士にとっては我慢ならない状態だったというわ。お祖父ちゃんの軍服を着た兵士はことごとく上官に反抗するようになって、結局お祖父ちゃんの軍服は闇に葬られた……そのときの経験で、お祖父ちゃんはそのガクランを仕立てたってわけ」
「ぼくの父親に、あなたのお祖父さんがガクランを呉れたそうですね。なぜ、そんなことしたんでしょう?」
ヨーコはまた肩をすくめた。
「軍服は闇に葬られたけど、お祖父ちゃんは自分の研究の成果を世に問いたいと願っていたそうよ。そのガクランを着た人間は、強い正義感を持つようになる……その結果、世の中が少しでも変われば自分の研究も無駄ではない、そんなこと考えていたのかもしれないわね」
ケン太はぽつりぽつり語りだした。
「ぼくはこのガクランを着る前は喧嘩なんかしたことないんです。でもこのガクランを着るようになって、自分でも思わなかったことを次々しでかすようになって……なんだかどんどん自分が変わるようで怖いんです」
ヨーコは首をふった。髪の毛がふわりと動いて目を隠した。
「ガクランに人を変えるちからはないわ。その人の隠された性格や、もともと持っていた属性を表に出すだけなの。あなた、もしかしてガクランで自分が強くなったなんて思ってない?」
「違うんですか?」
「ガクランが引き出すのはその人のもともと持っている決断力とか、行動力のようなものだけなの。喧嘩するには、そういうものが必要だから、あなたが平気で喧嘩できるのも、そういうことじゃないかしら? 要はあなたがガクランに支配されるか、するかね」
「ぼくがガクランに支配される……」
ケン太はつぶやいた。
ヨーコはそんなケン太の目をじっと見つめた。
「ガクランに支配されるというのは、目的がないときよ。ただ強くなりたい、喧嘩に強くなりたいなんて考えでガクランを着れば、それはガクランを着るのではなく、ガクランに支配されることそのもの。あなたにガクランを支配するだけの目的があって?」
ケン太は顔を上げた。
「あります! ぼくには目的が!」
ヨーコは笑った。
「そう、それは良かった。いくらガクランがあなたに決断力を与えてくれても、一生着つづけるわけにはいかないものね」
疑問が顔に出たのだろう、ヨーコはにやりと笑った。
「だってあなた、学生でしょ? 卒業してもガクランを着つづけるの?」
あ、そうか、とケン太は思った。
ケン太は自分の目的を再確認した。そうだ、その目的も自分が学生であることに理由があるんだ。
ケン太は立ち上がった。
「いろいろ有難うございました。ぼく、帰ります」
「あ、待って!」
ヨーコはあわてて店へ戻ると、カウンターの引き出しを捜し始めた。
「あった!」
叫ぶと、手に何かを持ってケン太の前に走ってきた。
「これを使って!」
ヨーコはケン太の前のテーブルにじゃらじゃらとボタンを並べた。いまガクランについているボタンに比べると一回り大きく、ごつい。
「そのガクランを仕立てたとき、お祖父ちゃんはボタンもデザインしていたのよ。だけどその当時、ボタンを作ってくれるところがなくてね……しかたなく既製品を使うほかなかったんだけど、お祖父ちゃんは死ぬ前までそのことを後悔していたわ。あたしはお祖父ちゃんのデザイン帳からこのボタンのスケッチを見つけて、ようやく一そろい製作してもらったの。いつかそのガクランが生まれ故郷を訪ねるだろうと思ってね。作っておいてよかったわ」
ケン太はじっとそのボタンを見つめた。
ボタンの表面にはなにも刻まれておらず、つややかな真鍮の表面が鏡のようになってまわりの景色を映している。
ボタンに映る自分の顔を見つめ、ケン太は考えた。
ガクランに支配されるか、されるか。それは着る人間によるのだろう。
自分はどっちだろう?
店を出たケン太はまっすぐ家を目指した。
その顔には決意の表情が浮かんでいた。