図面にない送風路
風の出る壁を、すぐには開けなかった。
図面にない穴があるからといって、無断改修とは限らない。だが始発が動けば、中央通路には人が戻る。壁の向こうが未確認のまま、西側三店舗を開けるかどうかは夜明け前に決めなければならなかった。
「壊せば見える、は理由になりません」
俺は壁から距離を取り、現況札を床へ置いた。
「向こうの流れを測ってからです。開けた途端に出口が広がる可能性があります」
獅堂さんは中央通路を退路として残し、西側の角から先を無人にした。真央さんは、壁の継ぎ目と店舗側の原本を固定する。白瀬さんは小暮さんへ、夜明けまでの暫定判断を確認した。
「三店舗だけなら、地上受渡し窓口で商品は動かせます」
小暮さんは答えた。
「ただし、開店保留を延ばすなら店主へ根拠が要る。壁の中を見たい、だけでは足りません」
止めた損失を払う人に、調査側の好奇心まで負わせてはいけない。
堀江さんは引渡し図だけを見なかった。古い修繕控え、開業前の写真、共用部の材料一覧を、管理事務所から持ってきた。
「壁の仕上げは一度替わっています。ただ、この位置を工事した記録はない。裏に通路を作る余地もないはずです」
「風は、ずっと出ていたんでしょうか」
真央さんが聞いた。
「巡回で感じた覚えはない。少なくとも昼はな」
壁の向こうから来る流れは弱くなっていた。鳴き音も止んでいる。
異常が消えたのではない。十一分の揺れの後だけ、出口のように開く。その間を外すと、壁はただの壁へ戻る。
俺は継ぎ目の前に迷宮用計器を置いた。温度、流れの向き、魔力の戻りだけを離れた位置から取る。壁の中へはまだ入れない。
次の揺れが来る。
先に床下の温度が下がり、遅れて継ぎ目から風が出た。流れは通路へ押し出され、すぐ細くなる。
外気がどこかから回っているなら、駅側か地上階段側の変化と近いはずだ。だが、中央通路の流れは変わらない。店の共用設備も、堀江さんが通常状態のまま保持している。
「壁の裏に、閉じきっていない空間はあります」
俺は言った。
「ただし、人が通れる通路とは限りません。迷宮側へ続いているとも、まだ言えません」
小暮さんが店主たちを一人ずつ呼んだ。
全員を集めた会議にはしない。深夜の仕込みを止められた店から、いつ、どんな困り事があったかを個別に聞く。互いの記憶を先に混ぜないためだった。
薬店の店主は、風を知らなかった。
惣菜店の店主は、冬になると壁際の商品棚が冷える、と話した。ただし今年だけではない。異常開始日の手掛かりにはならない。
三軒目、長く地下街にいる店主が、壁を見たまま口を閉じた。
「穴なら、開業の前にあったよ」
小暮さんが問い返す。
「引渡し前ですか」
「店を開ける前の晩。ここだけ白い霧が溜まって、朝までに抜かなきゃ商品を入れられないって。工事の人が、一晩だけの換気穴を開けた」
「どこへ抜いたか、聞きましたか」
「古い管理空間へ逃がす、と。翌朝には塞ぐと言ってた。壁もきれいになってたから、そうしたと思ってたよ」
称賛ではなく、営業を始めるために現場で選ばれた判断だった。
開業を延ばせば、店は初日の売上だけでなく、搬入した商品の処分まで背負う。一晩だけ霧を逃がすことには、その時点の合理性があったのだろう。
問題は、塞いだことを何で確認し、誰へ引き継いだかが残っていないことだった。
「無断改修と記録していいですか」と真央さんが聞いた。
白瀬さんは首を横へ振った。
「現時点では、開業時の旧仮設接続が残っている可能性です。施工主体も、当時の承認範囲も未確認。店主の証言は原本として残しますが、責任の断定には使いません」
堀江さんは壁の古い写真を拡大した。
仕上げ前の面に、薄い円がある。今、風が出ている位置と合う。その奥は、現在の図面では土中だが、開業前の地図には用途の消えた管理空間が点線で残っていた。
管理資料には、翌朝の「閉鎖完了」という記載もあった。
添付写真に写っているのは、仕上げを戻した壁面だけだった。穴の奥と、その後の反応は画角の外にある。
「記録が嘘、とは言えません」
真央さんは、写真を原本のまま拡大し、見えていない範囲へ色を付けなかった。
「この写真で確認できるのは、開店前に壁面が仕上がったことまでです。奥の封止を確認した記録には使えません」
小暮さんは、古い決裁欄と現在の管理責任を分けた。
「当時の責任確認は後で行います。明朝の開店判断は、現物で決める。過去の『完了』を、そのまま現在の安全証明にはしません」
「俺も、ここまでは引き継がれていない」
堀江さんは認めた。
「換気穴を塞いだ検査がなければ、仕上げを戻しただけかもしれない。だが、古い空間が第三迷宮へつながるという記録もない」
「なら、壁を開ける前に奥だけ測れますか」
獅堂さんが聞いた。
「人を入れずに、既存の隙間から計器を置けるなら」と俺は答えた。「反応が迷宮側に近ければ、立入範囲を広げます。地上側に近ければ、地下街設備の調査へ戻します」
小暮さんは、西側三店舗の開店保留を午前の確認終了まで延長した。それまで中央通路と反対側店舗は誘導員つきで使い、商品は地上受渡し窓口へ移す。白瀬さんは保留中の営業損失を店舗別に記録へ載せた。
小暮さんは、見直す時刻と現在の根拠を三店へ直接伝えた。
店主側から、保留するなら商品棚をどこまで動かすのかという質問が出た。
棚の移動は簡単な準備ではない。陳列を崩し、在庫を数え直し、温度管理の必要な商品を別の場所へ移す。調査が空振りでも、店には作業が残る。
小暮さんは、壁一面を空ける案を退けた。
「最初は既存の点検位置一か所だけです。追加で動かす場合は、計測結果を示して改めて店側の同意を取ります」
白瀬さんは、調査範囲を広げた場合の費用を市側の記録へ加えた。
一度閉めた店だからといって、内部を好きに使えるわけではない。立入許可と、商品を動かす許可と、壁を開く許可は別だった。
「穴の奥が未確認だから」だけではない。
開業時の旧仮設接続が残っているなら、壁一枚の不具合ではなく、複数店舗の背面へ同じ空間が延びているかもしれない。閉める範囲を壁の幅だけに限定できなくなった。
堀江さんは、仕上げを壊さずに確認できる古い点検位置を探した。店主の記憶では、換気穴は商品棚の裏へ隠れた。現在の棚を勝手に動かせば、店舗側の損害になる。
点検位置を探す間、俺は隣の二店舗の壁際も通路側から比べた。
風が目に見えて出るのは一か所だけだった。だが十一分の揺れの後、隣の床目地にも同じ冷たさが遅れて届く。壁の穴だけを一点で塞げばよい、とするには反応範囲が広い。
反対側の店舗には、その遅れがない。
これで、地下街全体が同じ故障だという候補は下げられる。同時に、西側三店舗を一店舗だけへ戻す判断もできなくなった。
「開店保留の幅は、この三店で維持してください」
俺は白瀬さんと小暮さんへ伝えた。
「見える風は一か所ですが、床下の反応が両隣まであります。奥の計測が終わるまで、一枚の壁だけの問題とは扱えません」
店主本人が立会い、商品を別の場所へ移す。真央さんが移動前後を記録する。獅堂さんは作業者を中央通路側へ置き、壁へ顔を寄せさせなかった。
棚の後ろに、仕上げ材と色の違う小さな蓋が見つかった。
外からは壁に見える。だが蓋の縁には、長い間、内側から冷たい流れを受けた跡があった。
「開けません」
俺は念を押した。
「今夜は、計器を置くための既存の隙間だけ使います。反応が強まったら、計器を残して全員下がります」
専用の細い受感部を、堀江さんが現物に合う保持具へ収めた。奥へ押し込むのではなく、蓋の内側に届く位置で固定する。設置は市の設備員が行い、俺は表示を受け取った。
最初の値は、地下街の壁裏と変わらない。
冷えてはいるが、地上から回った空気でも説明できる範囲だった。
「これなら開店できますか」と店主が聞いた。
「一回の値では決められません。次の揺れに対して、どちらへ寄るかを見ます」
店主は納得した顔はしなかった。それでも商品を戻さず、待つことを選んだ。保留の時間は、その人の仕込み時間を削っている。
俺は計器から目を離さなかった。
十一分の間が来る前に、第三迷宮側の戻り音が浅くなる。
床下へ冷たさが走った。
壁の中で、低い声が膨らむ。
計器の表示がゆっくり下がった。ただ冷えるのではない。地上の夜気が持つ揺れを外れ、第三迷宮で記録した深い階層の温度変化へ重なっていく。
真央さんが地下街、管理区画、穴の奥の三記録を同じ時刻へ並べた。
地下街の空気だけが、その変化についていかない。
一晩だけの換気穴の奥で、迷宮用計器は外気ではなく、迷宮深部に近い温度を返していた。




