獅堂の退避時刻
獅堂さんは、原因欄が空白のうちに退避時刻を書いた。
《十二時四十分・全員が白線外》
事故ミラーの時計は、十一時三十七分だった。
あと一時間三分で診断を終える、という予定ではない。終わっていなくても、その時刻には潮見回廊と入口前室から出る。
獅堂さんは、事故票へ時刻を入れる前に、現地の全員へ自分の時計を見せた。
朝倉班五人、現地設備員一人、獅堂さんの安全班二人。
内部へ入るのは一度に三人までだが、外で記録と交代を持つ人も退避完了へ数える。海側広場が閉じた時、第二集合所まで移動して初めて全員退出になる。
『時計が違う人は』
戸田さんが、自分の原本時計を掲げた。
現地の潮時計は警報と一緒に止まっている。携帯端末の一台は、事故切替時の更新が遅れていた。
真央さんが使っている事故原本の時刻へ合わせ、他の端末には残り時間だけを表示した。潮時計は直さない。止まった時刻を故障記録として残す。
十二時四十分という数字が、八人の画面に同じ意味で出た。
時刻を知っているだけでは帰れない。
獅堂さんは、観測具を持った状態で一人ずつ前室から白線まで戻らせた。中央カメラの脚が上段の迂回路へ半分出ている。行きには邪魔にならなかった物が、箱を抱えた帰りには人を一列にした。
真央さんは画角が狭くなるのを受け入れ、脚を白線外へ移した。
診断映像が一つ遠くなり、退路が人二人分に戻った。
『早すぎませんか』
海浜迷宮の現地設備員が聞いた。
『次の満ちへ変わるのは一時過ぎです。地上潮位はまだ下がっています』
『水が来る時刻で決めてない』
獅堂さんは、潮見回廊の床を映させた。
砂の縁に、小さな穴が並んでいる。
普段は引き潮の間、そこから薄い殻の運搬種が出て、迷宮の残渣を海側へ運ぶ。満ち始める前に、上段の乾いた割れ目へ戻る。
定点映像では、まだ潮が引いているのに、二群がすでに上へ移っていた。
一群は正規の砂床を使わず、退路に近い石壁を横切っている。
『こいつらが早い。海の数字より、内側の変化が先に来てる』
柏木さんが、退避時刻を五分早める案を出した。
『運搬種がもう一群出れば、十二時三十五分を白線外にしませんか』
獅堂さんはすぐ採用しなかった。
早く出ることにも、現地確認を失う代償がある。原因不明のまま退避を繰り返せば、次回も同じ場所へ人を入れる根拠が作れない。
『群れが退路へ入ったら、その時点で退く。上段へ移るだけなら線を一段下げる。四十分は最後の線だ』
生態変化を無視せず、一群ごとに時刻を揺らしもしない。
柏木さんは二つの条件を安全札へ分けた。即時退避と、絶対退避。同じ赤色でも、起動の仕方が違う。
獅堂さんは、入口から白線までの帰路を一度歩かせた。
空の時なら短い。
観測具を抱え、狭い前室で人が重ならず、最後の一人が人数札を閉じるまでなら長くなる。途中で運搬種の群れが退路へ出れば、倒して進むのではなく、上段へ迂回する。
さらに、封鎖扉の確認帯は外側へ張っている。
今は閉じている。
圧の向きが変われば、閉じた扉のままでも黄色線を一段外へ戻す時間が要る。
『十二時三十分に新しい測定を止める。三十五分に黄色線を通過。四十分に白線外。遅れた機材は残せ』
獅堂さんは三つの時刻を言ったが、最後だけを事故票へ固定した。
途中の時刻は、退路が変われば早められる。
全員退出だけは遅らせない。
獅堂さんは白線の外へ、八人分の位置札を伏せて置いた。戻った人から自分の札を返し、最後の一枚が返るまで扉の閉鎖完了にはしない。
映像が切れても、機材が残っても、誰が外へ出たかだけは地上で閉じられる形だった。
原因欄が空でも、帰る時刻と数える場所は空白ではなかった。
退避は、診断の後工程ではない。
白瀬さんが承認した。
『診断の進捗は、延長理由にしません。白線外の人数が閉じなければ、海側広場も第二集合所へ移します』
朝倉さんは、残り時間へ検査項目を詰め込まなかった。
空調側を一つ。
封鎖扉の外側を一つ。
砂床の定点を一つ。
三つに減らした。
海水側の新しい流入線は見つかっていない。外部潮位板の監視は地上班へ渡し、内部の人員を使わない。
『空調側を先にします』
朝倉さんが選んだ。
戻り口の砂が保護停止を起こし、潮臭を入口へ滞留させたという第一仮説には、見える根拠があった。
空調警報が落ちている。
戻り口の砂は朝より増えている。
風は止まり、その近くで臭いが強い。
ただし、封鎖扉前の確認帯と、海側へ出ない観測片まで説明できるかは未確認だった。
開始前に、朝倉さんは捨てる条件を読み上げた。
『空調の戻りが回復しても、封鎖扉前の圧と入口の臭気方向が変わらなければ、空調詰まりを主原因から外します』
失敗条件を先に原本へ入れた。
現地設備員は、白線内で扱える戻り側の捕集枠だけを交換した。砂を払って再使用せず、付着した向きと湿りを残したまま隔離袋へ入れる。
予備枠は登録品だった。
名取さんが現物札と保管票を照合する。朝倉さんは作業に触れず、交換前後の風だけを見る。柏木さんは前室の人数と黄色線を持つ。
『作業域、三名。黄色線外の朝倉班、三名。安全班、二名。封鎖扉側へ移動なし』
真央さんの画面では、捕集枠の拡大映像より退路映像の方が大きかった。
作業の成功より、戻れる状態を記録している。
十二時ちょうど、空調の保護表示が一つ戻った。
戻った表示を見て、入口外で待機していた市の担当者が見学区閉鎖の縮小を照会した。
白瀬さんは返答を保留しなかった。
『空調一系統の復帰は確認しました。潮位警報と封鎖扉前の圧は未復旧です。閉鎖範囲は変えません』
一つ直ったことを隠さず、直っていない二つも減らさなかった。
現地責任者は、空調復帰を保管品三箱の保冷計画へだけ反映した。入口へ取りに戻らずに済む時間が増える。診断班の入場時間には足さなかった。
予備機を低い確認運転へ入れる許可が、白瀬さんから出た。現地設備員が正規盤で起動し、入口の観測片が陸側から潮見回廊へ倒れた。
止まっていた風が戻った。
空調の応答喪失は、一つ解消した。
画面の外にいる俺には、臭いが薄くなったか分からない。
朝倉さんも、最初の一人の感想では判定しなかった。
同じ位置に立った現地設備員と、線外にいた戸田さんが、時間をずらして確認した。入口前室に溜まっていた臭いは薄くなった。
空調戻り口の臭いも下がった。
しかし、潮見回廊の階段上では向きが変わらない。
迷宮の奥から上がってくる。
封鎖扉前の確認帯も、張ったままだった。
戸田さんが、交換前後の帯を同じ画角で重ねた。
空調が止まっていた時は、帯の中央が扉枠から離れている。
空調が戻った後も、その距離は変わらない。
入口側の空気だけが動き、扉の向こうは別の力で押していた。
空調側の風が戻っても、海側の観測片は外へ倒れない。
『空調詰まりだけではありません』
名取さんが言った。
『保護停止は直りました。でも、扉の裏の圧は下がっていません』
『まだ、枠の馴染みを待てば――』
現地設備員が時計を見た。
原因を空調へ残したいのではない。
自分の設備が正常へ戻ったと確認するには、少し長く見たい。現場担当として正しい要求だった。
獅堂さんは、診断ではなく退路で答えた。
『確認運転は地上から続けられるか』
『風と保護表示は見られます。臭いは現地が要ります』
『なら人を残す理由は、臭い一つだ。残さない』
空調の監視は地上端末へ移した。
直った空調を、事故全体の解決にはしなかった。
聴取室は休憩に入っていた。
俺は廊下の端で、事故ミラーの退避票を見た。
手帳へ書いたのは、回答ではなく時刻だった。
十二時四十分。
班が原因を見つける期限ではない。
全員が帰る期限だ。
十二時七分、潮見回廊の運搬種がもう一群、上段へ移った。
獅堂さんは黄色線を一段外へ戻した。
朝倉さんは抵抗せず、封鎖扉前へ置く予定だった観測具を階段上へ変えた。近づけない分、扉の圧を直接は比べられない。
代わりに、空調が戻る前から置いていた三枚の観測片を、そのまま見る。
入口は送風で正規方向へ戻った。
中段は短く震える。
最下段は、海側へ倒れない。
空調を直した前後で、奥の二枚に変化がなかった。
朝倉さんは第一仮説の札を持ち上げた。
貼られていた根拠を、捨てはしない。
戻り口の砂。保護停止。入口の臭気滞留。
三つは、空調側で起きた故障を説明している。
だが、封鎖扉の圧と海側へ出ない流れを説明しない。
事故ミラーの残り時間が三十二分になった。
最初にあった一時間三分の、ほぼ半分だった。
『空調詰まり案を、主原因から外します』
朝倉さんは札を裏返した。
診断時間の半分で、第一仮説が外れた。




