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新人・朝倉湊

宮前さんと同じ音が聞こえれば、採用された理由を証明できると思っていた。


初日の点検場所は、給食センター迷宮の外周区画だった。


僕は入口の白線から出ず、壁へ耳を近づけた。正規路は低く鳴り、赤札の付いた仮設枝道は、その奥で少し高く返る。そう聞こえるはずだった。


実際に聞こえたのは、空調と搬送枠と、自分の作業服が擦れる音だけだった。


何も分からない。


その一言を出すまでに、点検表の空欄が三つ増えた。


僕は市営迷宮保全班の補助員枠へ採用された。二十三歳、F級《保守士》。戦闘適性なし。資格証の等級は宮前さんと同じでも、同じなのは戦えないという評価だけかもしれなかった。


公開されている事故記録は、応募前に全部見た。


宮前さんは床の振動から別の階層への負荷を見つけ、止める範囲を分けていた。施設名を隠した比較記録でも、戻りの順番を読んでいた。


自分も《保守士》なら、現場へ立てば何か聞こえると思った。


採用課題にも音の比較があった。


三つの録音から、前後で違うものを選ぶ。僕は一つだけ高く聞こえた録音へ印を付けた。


正解発表はなかった。


代わりに、《違いの根拠》と《違っていた場合に止める作業》を書く欄があった。高い気がする、としか書けず、止める作業も決められなかった。


落ちたと思った。


面接で小暮さんに聞かれたのは、音の正解ではなかった。


「根拠がない時、現場ではどうする」


「比較できる記録を取り直します。その間、違いを使う作業は始めません」


その答えで補助員枠に入ったのだと説明された。


それでも僕は、現場に立てば能力の方が追いつくと思っていた。


初日の朝、六人の補助員には別々の記録場所が渡された。全員が宮前さんの後ろへ並ぶわけではない。僕だけが給食センター迷宮へ入り、ほかの人は閉鎖区画の写真照合や、避難所迷宮の正常記録へ向かった。


宮前さんを見て覚える研修ではなく、宮前さんがいない場所の空欄を減らす仕事だった。


「朝倉、耳を近づけすぎるな」


堀江さんに止められた。


「外から取れないものは、今日は取らない。白線の意味を先に覚えろ」


僕は壁から離れた。


白線の内側には入らない。右手が出口。仮設枝道は正面壁の向こう。護衛の獅堂さんは僕らの後ろではなく、出口と内部扉の両方が見える位置にいる。


宮前さんは受音板を床へ置いていた。


その顔を見ても、何を聞いたのか分からない。


「朝倉さんは、今の記録をお願いします」


聞き分け方を教える代わりに、宮前さんはそう言った。


僕は時刻を書き、入口表示を撮り、床へ置かれた受音板の位置を図面に入れた。温度は離れた位置から計器で取った。どれも基準内だった。


基準内、と書けば欄は埋まる。


でも昨日との差は、昨日の同じ時刻の記録がなくて分からない。


点検表の《正常との差》へ、比較資料なしと書いた。


堀江さんが横から見た。


「空欄じゃ駄目か」


「測っていないのか、測ったけど比較できないのか、後で分からなくなります」


「なら、そのままでいい」


褒められた感じはしなかった。


その代わり、堀江さんは昨日の巡回写真を探し始めた。


今日の作業は撤去ではない。仮設枝道を使わない状態で、正規路だけへ小さな確認負荷を戻し、赤札隔離が図面どおりか確かめる予定だった。


給食センターは地上配送へ切り替え、搬送枠を空にしている。現地責任者が人数を確認し、獅堂さんが内部扉の向こうに魔物の接近がないと報告した。


開始票は四枚あった。


利用停止。


退路確認。


現物照合。


確認負荷の開始。


最後の一枚だけが、僕の持つ盆に残った。


現物照合が済めば、現地責任者へ渡す役だった。


壁には二つの識別札があった。


上の札は《正規路》。下の札は《仮設枝道・使用禁止》。図面でも、入口から見て上が正規路、下が仮設枝道になっている。


堀江さんが、設置時の写真と壁を見比べた。


「表示は合ってる。確認側を準備する」


現地担当者が入口盤の前に立った。


僕は最後の開始票へ手をかけた。


開始票を持つ人にも、中止権があると朝の説明で聞いた。


ただ、紙に書かれた権利と、先輩三人を待たせて使う権利は重さが違った。


獅堂さんの護衛枠は、この後もう一現場ある。給食センターは地上便の費用を払い続けている。ここで止めれば、全員の準備が無駄になるかもしれない。


だからこそ、現物照合済みと書かれた一枚を渡せば、その重さは現場担当者へ移る。


僕だけが軽くなるために、分からないものを済みにしてはいけなかった。


その時、昨日の巡回写真が端末へ届いた。


同じ二枚の札が写っている。


ただし、写真では赤札の紐が右へ垂れていた。今は左へ垂れている。


風で動いたのかもしれない。


写真を撮った向きが反対なのかもしれない。


識別札を清掃のために外し、戻したのかもしれない。


どれが正しいか、僕には分からなかった。


壁の音も、二つを分けてくれない。


図面どおりです、と言えば作業は進む。


札の文字も合っている。


でも、僕が確認したのは文字であって、壁の向こうの接続ではない。


開始票を盆から上げなかった。


「朝倉?」


現地担当者が待っている。


声が喉に引っかかった。


新人の初日に止めれば、慎重すぎると思われるかもしれない。宮前さんなら音で分かるのに、僕だけが分からないのかもしれない。


それでも、開始票には《現物照合済み》と書かれていた。


僕は照合できていない。


「止めてください」


思ったより大きな声が出た。


現地担当者の手が入口盤から離れた。


獅堂さんは理由を聞く前に、開始位置から全員を一歩下げた。


「中止を受けた。続きは理由の後だ」


僕は写真と壁を交互に示した。


「札の位置は図面と合っています。でも、昨日の写真と紐の向きが違います。撮影方向も、札を外した記録も分かりません。どちらが正規路か、僕は現物で確認できていません」


「音は?」


堀江さんが聞いた。


「分かりません。二つに違って聞こえると言える根拠がありません」


言ってしまうと、自分がここにいる理由までなくなる気がした。


宮前さんは壁を見ず、昨日の写真を拡大した。


「この写真、床の矢印が写っていません」


真央さんが記録端末から答えた。


《撮影位置は残っています。カメラは内部側から入口方向。今日とは逆です》


向きが逆なら、紐の左右は反転して見える。


僕の心配は外れかけた。


堀江さんは、それでも開始票を戻さなかった。


「写真の向きは分かった。札を外した記録は?」


現地の清掃記録に、前日の壁面洗浄があった。識別札を一時的に外した欄には、作業者の署名がある。


戻し位置の独立確認欄は空白だった。


堀江さんが、壁から離れた点検窓の表示を確認した。図面上で正規路につながるはずの上側は、使用禁止側の識別へ返っていた。


二枚の札は、洗浄後に上下を入れ替えて戻されていた。


独立確認のため、別の現地員が点検窓と設置時記録を照合した。堀江さんが見つけたから正しい、で終えなかった。


点検窓の返り先、工事写真の識別位置、清掃前の封印番号。三つが同じ入替えを示した。


僕が気づいたのは、紐の左右という弱い違和感だけだった。写真の向きについては外していた。


それでも、最初の理由が一部外れたからといって、開始してよいことにはならなかった。残った《復旧確認なし》が、実際の誤表示へつながった。


文字を信じて確認負荷を入れていたら、使わないはずの仮設枝道へ先に負荷を戻していた。


現地担当者は入口盤に触れず、誤表示を赤札で覆った。


堀江さんは清掃後の復旧確認を作業記録へ追加し、今日は現物照合未達として終えると決めた。


作業は進まなかった。


給食センターの地上配送は半日延び、次の停止枠を取り直す必要がある。


僕が止めた結果は、安全だけではなく、費用と遅れにもなった。


現地責任者は、停止枠を使い切った理由へ僕の名を勝手に載せなかった。


《補助員が開始条件未達を申告。現物照合で識別札の入替えを確認》


申告した人と、設備状態を独立確認した人が分かれている。


もし紐が風で動いただけなら、僕の中止は慎重すぎる判断として残ったはずだった。それでも開始条件を満たしていない事実は変わらない。結果が当たったから中止が正しくなったのではないと、記録の形で分かった。


堀江さんは、次回の開始票を僕から取り上げなかった。


「次もお前が持て。今日止めたから、明日は先輩が持つ、では訓練にならん」


怖さは減らなかった。


次も分からないと言えば、今度こそ何も見つからないかもしれない。それでも、何かを当てることではなく、渡してよい条件を自分で確かめる仕事は残った。


白瀬さんは延長費用の記録先を決め、現地責任者は中止へ署名した。誰も、聞き間違いのせいにはしなかった。


僕は点検表の《正常との差》を見た。


比較資料なし。


音の識別不能。


表示の復旧確認なし。


分からないことが三つ並んでいた。


その三つ目で、間違った開始を止められた。


「すみません。音で気づいたわけではありません」


宮前さんへ言うと、彼は本当に意味が分からないという顔をした。


「聞こえないのに聞こえたことにしなかった。照合できない開始票を渡さなかった」


宮前さんは、僕が止めたまま持っている一枚を指した。


「それが一番助かります」


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