保守士の耳が消える日
天蓋第零迷宮の床は震えていた。
入口の灯りも動いている。主流入の表示には、低負荷運転中を示す細い輪が残っていた。
それでも、俺には何も聞こえなかった。
耳で聞く音がないのではない。
床の下を流れた負荷が、どの壁へ触れ、どこから返ったか。その関係だけが、きれいに消えていた。
受音板を置き直せば拾えるかもしれない、とは思った。
思ったこと自体を、先に口にした。
「聞き直したくなっています。今のまま判断するのは、怖いです」
白瀬さんは、追加の感覚確認を作業票から外した。
「不安は受領します。聞こえるまで場所を変える試験はしません。体調確認は継続。現地判断は計器と原本へ切り替えます」
聞こえないことを隠せば、いつもの俺を待つ時間が増える。
聞こえないまま進むなら、何を根拠にしたかを一つずつ残せる。
俺は受音板を黄色線の外へ下げた。
音そのものは、計器にも耳にも入っている。
循環材が擦れる低い音。冷却板が縮む短い音。地上側の送風が隔離扉へ当たる音。
以前なら、その間にある細い返りから、壁の向こうの順番を組めた。
今は、ただ別々の音だった。
頭の中へ作ろうとした関係図は、入口から先が白いまま止まる。
集中が足りないのかもしれない、とも思う。
だからこそ、集中すれば戻るという仮説を自分の中だけで試してはいけなかった。
白瀬さんが救護担当の確認票を持ってきた。一般的な聴覚、平衡、反応速度に急な悪化はない。疲労は残り、能力側だけを測る検査はない。
《身体要因を否定できず》《迷宮側信号消失と分離》
二つとも残した。
診断できない理由を一つへ決めなかったことで、俺の休養も、現場側の隔離も、どちらも省かずに済んだ。
天蓋第零迷宮の第一層は、黒い隔離扉を基準に三つへ分かれている。
正面が、現在も低く流入を受ける管理区画。
右側が、十五年前の事故で応急保持した境界壁。
左側が、清掃槽と外周戻り路へ続く保守区画だった。
退路は背後の地上入口一本。獅堂さんの安全班が、隔離扉から入口までに人と運搬物がないことを確認している。
異常は警報盤に出ていなかった。
朝倉班が出した壁面図では、左の清掃槽側から、温度の境目が消え始めていた。
高温でも低温でもない。
平らな帯が、黄色線の手前へ一観測点ずつ近づいている。
「正常記録は三組あります」
朝倉さんが、昨日の同時刻、前回休眠明け、十五年前の事故後点検を分けて床へ並べた。
十五年前の記録は、今の正常ではない。応急保持の前後を知るための事故原本だった。
昨日と前回休眠明けでは、正面の受入れ板が細くなった後、清掃槽の壁面、外周戻り板の順で反応している。
形と強さは違っても、順番は同じだった。
今日、正面の受入れ板は動いた。
清掃槽の壁面は返らない。
外周戻り板は、遅れて一度だけ強くなっていた。
戸田さんは三枚を同じ尺度へ直さなかった。固定計器、携帯計器、壁面画像を別の列に置き、それぞれが昨日の自分からどちらへ外れたかだけを示した。
「固定計器の共通補正はありません。携帯側は別箱、壁面画像は独立時刻です」
一つ目の仮説は、計器側の一斉ずれだった。
独立した三方式で同じ位置から順番が欠けている。少なくとも、固定盤だけの故障では説明できない。
朝倉さんは、三方式が揃ったという言葉だけでは閉じなかった。
計器名を伏せ、昨日と今日の組を入れ替えて、別当直へ差のある位置を選ばせた。
当直は、今日の第二受入れ板から清掃槽までを選んだ。同時に、十五年前の事故原本も異常側へ置いた。
ただし、十五年前と今日が同じ故障だとは書かなかった。
「同じ場所で順番が欠けています。原因の一致は未確認です」
俺が計器の置き方を知っているから見つけた差ではない。
異常を知らされていない当直も、正常との差から同じ幅を選んだ。
二つ目は、主流入そのものが止まりかけている可能性だった。
それなら、正面の受入れ板も動かないはずだ。
実際には、人間が入れた低い流入へ入口側は反応している。床振動も、人工流入の開始と終了に追従していた。
入っていないのではない。
入った後が返っていない。
「清掃槽の閉塞ですか」
朝倉さんは、答えを求める声では聞かなかった。
候補名を、原因欄へ入れてよいかを確かめる声だった。
「候補です。どこで止まったかは、まだ二通りあります」
清掃槽の手前で詰まり、負荷が外周へ押し戻されている。
または、清掃槽を通った後の戻り路が閉じ、外周板へ別経路から負荷が来ている。
どちらでも、扉を開けて見に行く案は外れた。
平らな温度帯は黄色線へ近づいている。内部へ入れば、閉塞位置を確かめるために退路側の帯を横切ることになる。
柏木さんが、隔離扉の外から取った退避時刻を出した。
安全班が全員戻るまでの時間は確保できる。
機材を増やして内部へ入れる時間はない。
「人を入れずに、二通りを分けられますか」
白瀬さんが聞いた。
俺は答える前に、朝倉班の正常記録を見直した。
前回休眠明けには、清掃槽の壁面が光るより先に、第二受入れ板の縁が曇っている。流れが清掃槽へ入る直前の反応だった。
今日も縁は曇っていた。
曇りが消えたのは、板の中央から清掃槽側へかけた部分だけだった。
閉塞が第二受入れ板より手前なら、縁まで反応しない。
閉塞はその先にある。
さらに、外周戻り板が強くなった時刻は、正常記録で清掃槽から返る時刻より早い。
清掃槽の後ろで詰まった負荷が、一周して戻ったのではない。清掃槽へ入る前に、応急保持側の近道へ押し返されている。
十五年前の事故原本には、同じ順番の崩れがあった。
正面受入れ。
第二受入れ板。
清掃槽の欠落。
左壁と外周への早い返り。
当時は図面外の仮設枝道が原因候補に残り、入口だけを隔離している。
今ある同型管が同じ状態だとは決められない。
俺は事故図の旧枝道へ、閉塞点を一本引きかけた。
朝倉さんが、現在図の写真索引をその上へ置いた。
「その線は、十五年前の位置です。今の壁裏が同じ取り回しかは確認できていません」
補修履歴には、表面材と受入れ板の交換がある。壁を開けた施工原本は残っているが、旧枝道の奥まで受領した記録はない。
事故時と同じ順番が出ても、同じ一点が詰まったことにはならない。
俺は引きかけた線を消し、第二受入れ板から清掃槽手前までを幅で囲んだ。
聞こえていた時なら、もっと狭く置けたと思った。
狭い方が正しいとは限らない。
見えていない距離を残した幅なら、隔離時に余白を取れる。朝倉さんの指摘で、診断の速さではなく、外した時に人を入れない範囲へ変わった。
けれど、どの区間を隔離候補にすべきかは、事故原本と今日の三計器で同じ範囲へ絞れた。
「第二受入れ板から清掃槽手前まで。そこで戻りが閉じ、左の旧枝側へ逃げています」
俺は原因ではなく、閉塞区画を書いた。
《閉塞物・損傷形態は未確認。内部進入不可》
朝倉さんが、昨日の図面へ赤い幅を置いた。
一本の点にはしない。
計器の間に、見えていない距離が残っている。
「この幅なら、正面を止めずに清掃側を隔離できます」
朝倉さんは隔離案を二つ出した。
一つは、清掃槽手前だけを閉じる。利用への影響は小さいが、左の旧枝側が退路へ近いまま残る。
もう一つは、左保守区画全体を管理区画から切り離す。観測点を二つ失い、再開には別の調査停止が要る。その代わり、平らな温度帯を人の退路から遠ざけられる。
俺ならどちらを選ぶか、とは聞かなかった。
朝倉さんは柏木さんへ退避幅を、戸田さんへ隔離後も残る観測点を確認した。名取さんは、第二受入れ板の外側から読める表示を三つへ減らした。
班の中で、利用損失と安全余白を比べた。
選んだのは、広い方だった。
左保守区画は、今日の運転へ戻さない。
俺は診断範囲の確認者として署名した。
隔離作業の主担当欄には、朝倉湊と書かれた。
自分の名前が先頭にないことへ、不足は感じなかった。
聞こえない不安は残っている。
能力が戻ったわけでもない。
それでも、計器、正常記録、朝倉班の観察を重ねれば、入ってはいけない区画と、止めるべき幅は分けられた。
研究所の全球位相班は、その閉塞幅を現在の台帳へ重ねた。
天蓋の左保守区画を切れば、今回の局所波は止められる。
ただし、隣接ノードから戻る位相差は残る。別地点が稼働して負荷を渡し続ける限り、隔離した区画の外で同じずれがまた始まる。
一地点の隔離で、全球網の基準は戻らない。
必要なのは、すべての稼働ノードが同時に負荷の送り先でなくなる時間だった。
俺の耳が戻るのを待つ作業ではなかった。
白瀬さんは、その場で天蓋の定期票を改訂した。
《宮前感覚確認》は主判定欄から外れ、補助原本へ移った。
代わりに、三計器の正常差、朝倉班の範囲判定、現地責任者の中止入力が、次の当直にも必要な欄になった。
能力が戻れば、補助観測として使える。
戻らなくても、閉塞区画の監視は続けられる。
耳が消えた日に、現場の判断欄から一人分の耳も消えた。
残ったのは、誰が来ても比較できる幅と、入ってはいけない線だった。




