獅堂の護衛教本
最初の護衛訓練は、剣を一度も抜かずに中止になった。
沿岸公共迷宮の受入れ路で、湿った板を運ぶ小型魔物が、作業員の後ろへ回り込んだからだ。
攻撃ではない。
三匹は人に背を向け、薄い甲殻で板を押していた。
その通り道が、護衛班の引いた退避線と重なった。
「盤面停止。人は高い側へ戻せ」
獅堂さんは現地安全班の合図を待たず、自分側の訓練を止めた。
作業員は計器箱に蓋をし、右手の階段へ上がる。護衛班は退避者の後ろを囲まず、魔物が運ぶ板の進路から人だけを外した。
小型魔物は追わなかった。
水路際の割れ目へ板を押し込み、その上を濡れた砂で覆った。
訓練盤では、魔物は奥から来る設定だった。
人は手前へ退く。
その二つだけなら、退避線は真っ直ぐでよかった。
現物には、奥と手前以外の利用者がいた。
壁側には人の作業帯。
中央には空の搬送枠。
水路側には、魔物が板と砂を運ぶ細い帯があった。
「種類別の攻撃範囲を見直しますか」
日本側の護衛員が、未採用の教本案を開いた。
種名、体長、予想される突進距離、防御姿勢。
討伐班の教範なら必要な項目だ。
獅堂さんは開かなかった。
「種類が分かった頃には、作業員は帰ってる」
現地安全班が、水路際の足跡を示した。
大きい甲殻痕の上に、小さい爪痕が重なっている。
小型の運搬種が板を落とすと、奥の個体が出てくる。夜は濡れた床を通るが、昼は壁側の陰に寄る。
今日の明るさで人が立てば、普通は水路側から出ない。
それを正常として、訓練用の後退線を引いた。
しかし、作業灯を一基増やした時、水路の表面が白く反射した。
小型魔物はその反射を避け、いつもと違う陰を通った。
現地の正常記録は正しかった。
人側が光の条件を変えていた。
獅堂さんは、最初の案から退避線の図を外した。
「線を共通化するな。線を決める前に、誰がどこを使ってるか見る」
残したのは、《観察》という空欄だった。
人の入場前に、現地班が一つの生態周期を見る。
敵の数だけではない。
何を運ぶか、どの穴へ戻るか、人と光と停止音で道をどう変えるかを書く。
日本の訓練票にあった《安全距離三十メートル》も外れた。
幅が十八メートルしかない通路では、守れない数字だ。
代わりに《退避線》は二本必要になった。
常用は高い側の階段。
水路側の生態動線と交わる場合は、壁側の凹みまで。
どちらも、計器箱を持った作業員が通れる幅を、訓練前に現地班が実際に歩く。
剣を振れる幅ではない。
人が道具を捨てずに帰れる幅だった。
二回目の訓練は、作業灯を平常数に戻して始めた。
現地安全班が魔物の運搬帯を見る。
日本側の護衛員は作業員の肩と床の反射を見る。
獅堂さんは二つの退避先に別の人を立てた。
両方を一人で見る案は採らない。
魔物が動く時に作業員と床の両方を見れば、どちらかは視野の端になる。
計器を置く作業自体は、予定では二十分だった。
現地班は、分で切らなかった。
板を運ぶ列が二回通り、空の個体が戻るまでは、床の動きが変わる。
「二回と一回の戻り」を一つの作業窓にした。
七分で終わる回もあれば、十三分まで待つ回もあった。
予定を取り戻すために次の列へ食い込まない。
作業員は一窓で交代し、護衛の観察者はその前に交代した。
作業員を受け取る人が、前の退避線を実際に通れたと返すまで、次の人は入らない。
二回目は、計器の固定が終わる前に止まった。
小型魔物が運んでいた板を一枚落とし、空のまま戻ったからだ。
現地安全班は、大型個体の接近を警告した。
日本側の護衛員は作業員へ退避合図を出した。
獅堂さんは、剣の間合いを取らず、二本の退避線がどちらも開いているかを見た。
「壁側。水路は空の列に渡す」
作業員が壁側の凹みへ退く。
空の魔物は人の反対側を通り、落とした板へ戻った。
奥から出てきた大型個体は、板の周りの砂を爪で除けた。
攻撃姿勢には入らない。
板の裏に付いた細い粉を口器で落とし、小型個体へ押し返した。
教本に大型種の解剖図は増えなかった。
《運搬物を落とした》
《空で戻る個体が増えた》
《作業帯へ進路を変えた》
種名の前に、撤退を変える行動が三つ入った。
そこまでで、今日の訓練は閉じた。
計器の固定は未完了。
作業員が無事で、記録箱は回収済み。
第二退避線も、後退者が通れたことを確認した。
未完了と中止は、護衛の失点にならなかった。
「見て帰した時間」が、作業時間と別の実績になった。
獅堂さんは、教本の表紙へ地域名を書かなかった。
《観察》
《退避線》
《交代》
《作業時間》
四つの見出しだけが入った。
中身は地域ごとに現地安全班が閉じ、他地域の数字や種名をそのまま移さない。
その四項目を、現地安全班が別の作業帯で試した。
水路から二区画離れた乾いた回収口だった。
そこで取るのは、前日から置いた記録箱一つだけ。
壁側の段差に足を置き、蓋を閉じ、箱を白線の外へ出せば終わる。
日本側の種別教本では、その区画は《小型翼種・上方警戒》になっていた。
人の目の高さより上を守り、壁側を後退する案だった。
現地班は、その退避線を使わなかった。
前日の定点映像では、薄い翼の小型種は天井に留まらない。
上を一周した後、壁側の段差へ粉状の残渣を落とし、その残渣を床の小型種が回収する。
壁側を退けば、人はその回収列を踏む。
現地班が引いたのは、中央の空枠に沿う方向だった。
搬送枠は今日使わない。
レールの内側へ工具を落とさない幅があり、小型種の回収列とも交わらない。
《観察》は、天井の数ではなく、上方を一周したか、壁側に残渣が落ちたか、床の回収列が戻ったかの三つになった。
《作業時間》は、回収列が壁際へ寄り、中央のレールが空く一回分。
時間は前日より短いが、人が退く距離は長い。
《交代》は、護衛と作業員を同時に替えなかった。
先に天井側の観察者を替え、上方の一周と回収列の現在位置を引き継ぐ。
次の一周が始まる前に、作業員を箱の外側で受け渡した。
獅堂さんは口を出さず、一回目は外側から見た。
記録箱の蓋が半分まで閉じた時、天井の一匹が向きを変えた。
上方の護衛員は敵意と判定せず、方向変化を返した。
床側の観察者は、回収列がまだ壁際にあると返した。
現地班は、直ちに退避せず、蓋をその位置で固定した。
上方を見続け、翼の個体が元の周回へ戻るか、床の回収列が広がるかを分けて見た。
個体は蓋から反射した光を一度避け、元の周回へ戻った。
回収列は変わらない。
「継続」
現地安全班が自分で決めた。
作業員は蓋を閉じ、記録箱を中央レール沿いの退避線へ出した。
護衛員は翼種を一匹も落とさず、床の回収列も止めなかった。
四項目の名前は同じでも、水路側と同じ一行はなかった。
それでも、作業員は記録箱を持って戻った。
現地安全班は、二つの作業帯を同じ合格欄に入れなかった。
水路側は《中止・退避成立・計器固定未了》。
乾いた回収口は《回収完了・生態動線維持》。
二つを平均して《訓練合格》にすれば、次の班は水路側で何が未了かを読めない。
獅堂さんは教本の実績欄から、点数を外した。
代わりに、《人を戻した》《作業物を戻した》《生態動線を壊さなかった》《次回に残した作業》の四欄が入った。
剣撃数と討伐数はない。
攻撃しなかったことを失点にしないと、必要のない戦闘が実績作りになるからだ。
日本側の護衛員が、《乾いた回収口》の終了票へ署名しようとした。
現地安全班は、署名欄を現地の交代指揮者へ返した。
上方の周回、床の回収列、二本の退避先を閉じたのは現地班だ。
獅堂さんの四見出しを使っていても、判断の責任者まで日本側に置き換えなかった。
教本の初版から《獅堂式》という呼び名も外れた。
残ったのは作成者名ではなく、試した作業帯、中止した理由、次に改訂する現地班の受領欄だった。
「これで輸出できるのは、討伐法じゃないな」
獅堂さんは未採用の種別教本を閉じた。
「現場ごとに、何を見なきゃ帰れないかを決める。そこだけだ」
小型魔物の列が、また板を運び始めた。
今度は水路際の割れ目に入れず、その奥へ曲がった。
台帳の図では行き止まりになっている壁だった。
現地安全班が人を近づけず、定点映像の向きだけを変えた。
一匹目が消えた後、壁の向こうから、濡れた板が石に当たる音が返った。
二匹目は空で戻らなかった。
別の細い板を押して出てきた。
人が発見した倉庫ではない。
魔物の運搬が、壁の向こうで続いている。
ソフィアさんは、現在の流路図と古い保守図を両方開いた。
どちらにも、消えた先の空間はない。
内部へ入る許可も、退避線も、正常記録もなかった。
教本の四項目は、一つも閉じていない。
獅堂さんは追跡班を出さなかった。
割れ目の外に立入禁止線を置き、映像と運搬時刻だけを原本へ残す。
人類が発見したのは、奥の流路ではなかった。
未登録の流れがそこにあることを、そこを日常的に使っている魔物の方が先に示した。




