最深部の環状流路
三港を止めても、環状部材の内側だけは冷えなかった。
乾側の戻り板は、三枚とも低い位置で揃っている。
海中映像では、青黒い弧の外側から浮遊片が消えたのに、厚い結晶殻の奥だけが、遅い明暗を続けていた。
止めれば全部静かになる設備ではない。
何かが残っている。
それが正常な戻りなのか、殻に閉じ込められた負荷なのかは分からなかった。
潜水班は、前回撤退した外周より内側へ入った。
許可されたのは環状部材の最深部手前までだった。
先頭の潜水員が流れを確認し、二人目が映像と既設計器を持つ。岸本さんが地上で潮と回収線を見て、獅堂さんは第一回収帯を荷役から空けたままにしている。
俺は乾側に残った。
三港を止めたからといって、俺の潜水資格が増えるわけではない。
「比較するのは停止前と停止後です」
俺は作業画面へ二つの時刻帯だけを残した。
停止前、中央港の左が遅れ、東港が一度受け、西港が圧だけを返した時間。
停止後、三港の板が揃い、国外沿岸の公開圧がわずかに上がった時間。
間の積替えや潮の変化を一つの線に混ぜない。
環状部材が一方向へ送る弁なら、負荷を止めた後は、弁の手前から先に下がるはずだった。
海中映像では違った。
弧の外側と内側が、場所ごとに交互に冷えている。
一方から他方へ順に抜けるのではない。
岸本さんが、潜水班へ位置を確認した。
『最深部外縁。帰路側保持。上の流れは港側、下は動きなし』
画面の中央に、前回は結晶殻で隠れていた青黒い面が見えた。
継手も、可動部もない。
輪の内側へ向かうほど細くなるのではなく、海底の暗い層へ同じ厚さで沈み、その先でまた浮かび上がっている。
全周は映らない。
照明の届く範囲だけなら、一本の部材というより、海底そのものに埋め込まれた流路に見えた。
結晶殻の表面にも、停止前後の差が出ていた。
港側の白い層は、三港停止後に光を失っている。
反対の面では、細い青い筋が増え、内側から外へ向かっている。
同じ材質が一度に育ったなら、止めた反応も同じになるはずだった。
潜水班長が照明の角度を変えず、過去映像と同じ位置で待つ。
古い層は動かない。
その上にある新しい白い層だけが、乾側の板に遅れて明暗を変えた。
殻は一枚の蓋ではない。
違う流れを受けた時期の層が、表と裏へ重なっている可能性があった。
岸本さんは、厚さの測定を求めなかった。
近づかなければ測れず、今必要なのは材質の量ではなく、どの反応と一緒に動くかだった。
海中班は距離を保ち、停止前の原本と同じ画角だけを返した。
「形で機能を決めません」
俺は自分に言うように口にした。
輪なら循環する。
弁なら一方向へ通す。
そう名付ければ簡単だが、人類以前の設備にこちらの図記号は付いていない。
真央さんが、映像の明暗と三港の板を同じ時刻幅で切った。
「停止直後、内側が明るくなった時に東港の板が一度上がっています。その後、内側が暗くなると国外公開圧が上がりました」
「中央から東、東から国外へ流れたんですか」
白瀬さんが可能性として聞いた。
「順番は合います。でも経路は映っていません」
真央さんは地図に線を引かなかった。
同じ時刻に動いた点だけを置く。
岸本さんが、環状部材の両側へある既設計器を選んだ。
片方は人間の港湾工事で置いた物だ。
もう片方は迷宮出現時からある反応を、人間の計器が外から受けているだけだった。
目盛の大きさも意味も違う。
同じ数値にはできない。
「絶対値ではなく、止める前と後で、どちらが先に向きを変えたかだけを見ます」
停止前は、外側が先に上がり、内側が遅れて逆へ動いている。
停止後は、内側が先に下がり、外側が少し遅れて同じ向きへ戻った。
一方向弁なら、前後の呼び方は変わらない。
今の反応では、負荷が高い側が前になり、低い側が後ろになっているように見えた。
「流す向きを固定していない」
俺は仮説欄を更新した。
《一方向送出ではなく、差の大きい側から低い側へ戻す機能の可能性》
「均している、ですか」
「候補です。流量なのか、熱なのか、位相なのか、それらをまとめているのかは分かりません」
岸本さんが、海中から反証を足した。
「潮を均しているだけなら、三港停止でここまで内側が残る説明が要ります。人間の荷役以外の負荷を受けている可能性も残してください」
「残します」
流路の機能を一つ絞ると、分からない相手が増えた。
三港だけを均しているのか。
沿岸迷宮を含むのか。
海底の熱を逃がしているのか、迷宮同士の位相差を小さくしているのか。
今言えるのは、中央港から一方向へ廃熱する管ではないことだけだった。
潜水班長が、最深部の外縁で照明を落とした。
人工の光が消えても、青黒い面は内側から一度明るくなった。
その直前、厚い結晶殻の外側で、細かな粉が持ち上がる。
流れは港側から来ていない。
輪の内側から外へ出ている。
乾側の三枚が、ごく小さく動いた。
中央だけではない。
東と西も、違う高さから同じ向きへ下がった。
三港を止めたことで、別々だった板が一つの反応を返した。
均す流路という仮説には合う。
ただし、同じ反応は大きな空洞が圧を放した時にも起きる。
俺は確定へ上げなかった。
「次の比較を一回だけ行えますか」
岸本さんへ聞いた。
「海中班を動かさず、乾側の点検負荷だけなら」
白瀬さんが条件を確認した。
営業荷は使わない。
人員搬送もしない。
中央港の点検枠へ、荷役床が受入れを認識するだけの短い診断負荷を置く。東と西は停止を保持し、海中班は環状部材へ近づかず、現在位置で反応を受ける。
現地設備員が正規の点検枠を載せた。
中央港の戻り板が上がる。
前のように左だけが遅れない。
東港の板が先に動き、西港が少し遅れて追った。
海中では、青黒い面の明暗が片側から走らなかった。
最深部を挟んだ二か所がほぼ同じ時刻帯で明るくなり、その間の結晶殻だけが遅れて白く光った。
一方向弁なら、点検負荷は入口側から出口側へ順に渡るはずだった。
二方向へ分かれ、低い側が先に受けている。
「均す機能は、濃厚へ上げられます」
俺は言った。
「ただし対象範囲と、本来の正常値は未確認です」
環状部材は、三港の排水管ではない。
複数の迷宮側に生じた差を、輪の両側へ分けている可能性が高い。
説明はそこまでだった。
点検負荷を外す。
三港の板は、今度は大きな片寄りを残さず下がった。
一回の診断だけでは、中央港の入口に近い側へ負荷が分かれただけかもしれない。
現地設備員は、中央港の点検枠が完全に冷えるまで待った。
その後、西港の正規点検枠で、同じ大きさではなく、西港が普段使っている最小の診断負荷を一度だけ入れる。
中央港のやり方を西港へ写さない。
西港の正常記録と比較できる刺激を、現地設備員が選んだ。
西港の板が上がる。
次に動いたのは中央港だった。
東港は、中央より遅れて低い幅を返した。
海中映像では、先ほどと反対の面が先に明るくなり、最深部の二か所へ分かれた後、間の殻が遅れて光った。
中央港から入れても、西港から入れても、決まった出口へ一方向に送られていない。
高くなった側から、低い複数側へ分かれている。
「二つの入口で同じ分かれ方をしました」
真央さんが、二回の原本を上下へ並べた。
「同じ流量とは言えません。ですが、入口を変えると先に明るくなる面も変わっています」
一方向弁の候補はさらに弱くなった。
それでも、全球網へつながる装置だとは言えない。
三港の間だけを均しても同じ反応は作れるし、海底の別の空間へ逃がしている可能性も残る。
俺は仮説の対象範囲を《複数迷宮または複数負荷点》とし、《国外を含む》までは入れなかった。
西港の点検負荷を外すと、東、中央、西の順ではなく、三枚がそれぞれの正常な時間差で下がった。
均すことと、全部を同じ動きにすることも違った。
海中班長が、最深部の両面差を報告した。
『青黒い面は下がっています。結晶殻の内側だけ、まだ高い。外側との差は停止前より大きい』
止めて安全になったのに、殻の前後差は広がっていた。
殻が原因なら、全部外したくなる。
だが厚い殻は、異常を作る一方で、内側に残る負荷をせき止めてもいた。
海中の既設反応では、外側が停止帯へ入った後も、殻の内側だけが二段高い。
差は少しずつ下がっているが、次の自然な戻りが来る前にゼロにはならない。
外側の流れが静かな今、殻を全部なくせば、その差が作業域へ開く。
どの方向へ抜けるかは、二回の診断負荷でも決められなかった。
一方向なら退避側を選べる。
均す流路なら、最初に低い場所が作業班のいる側になる可能性がある。
知らない機能を絞れたことで、全撤去が危険な理由はむしろ強くなった。
岸本さんは施工図を全周除去から区画除去へ変えた。
「一度に外しません。外側から見える層を区画ごとに分けます。一区画を外した反応が戻るまで、次へ進まない」
「残すと直らない可能性はあります」
俺は言った。
「全部外せば、直ったか確認する人が残らない可能性があります」
潜水班長が返した。
海中で決めるべき重さのある言葉だった。
俺は全周除去案を消さず、《現時点では不採用》と残した。
環状流路は、一方向へ送る弁ではない。
複数迷宮の差を均している可能性が高い。
そこまでは、停止前後と小さな反応から絞れた。
結晶殻の内側に、どこから来た負荷がどれだけ残っているかは分からない。
殻を一気に外せば、均される前の戻りが、最深部の作業班へ直接返る。
次に作るのは、殻を壊す力ではなかった。
一層ずつ外しても、戻りを受けずに済む短い窓だった。




