第36話 血の命令
36話です。
呼び名が、
先に変わった。
「……閣下」
その声は、
懐かしかった。
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野営地の端。
朝靄の中で、
一人の男が立っている。
背は低く、
肩は張っている。
軍服ではない。
だが、
姿勢が違う。
(……生きていたか)
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「……久しぶりです」
男は、
頭を下げない。
下げる必要が、
ないからだ。
「……今は、
何と呼べば」
「……閣下でいい」
短く答えた。
その一語で、
距離が決まる。
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男は、
かつての教え子だった。
鉱山で、
数字の前に立っていた。
沈黙を、
学んだ。
同時に――
疑う癖も。
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「……村の件で」
男が、
本題に入る。
「……拘束者が、
戻っていません」
「……夜逃げも、
増えています」
報告は、
冷静だ。
だが、
目は怒っている。
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「……調査中だ」
事実ではない。
だが、
嘘でもない。
「……理由は」
問われて、
初めて気づく。
理由を、
用意していない。
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「……家名の
安全だ」
そう答えた。
それで、
十分なはずだった。
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男は、
一拍置く。
「……それは、
命令ですか」
(……来た)
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「……命令だ」
そう言った。
言葉は、
簡単だ。
簡単すぎて、
痛い。
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「……誰の」
男は、
続ける。
「……国の」
「……家の」
「……それとも」
一歩、
踏み出す。
「……あなた自身の」
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沈黙。
周囲の兵が、
緊張する。
一言で、
血が出る距離だ。
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「……退け」
副官が、
小さく言う。
だが、
手は出さない。
(……出すな)
目で、
止めた。
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「……答えろ」
男は、
視線を逸らさない。
「……何のために、
村を
締め付けた」
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言葉が、
喉で止まる。
(……数字)
そう言えば、
終わる。
だが――
数字は、
今は盾にならない。
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「……守るためだ」
ようやく、
そう言った。
「……誰を」
「……家を」
「……血縁を」
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男は、
笑った。
短く。
「……それ、
最初に
教わりました」
「……守るために
縛る」
「……縛るために
黙らせる」
「……黙らせるために
数字を使う」
(……覚えているか)
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「……でも」
男は、
声を低くする。
「……最後に
言ってました」
「……人を
数字に
するな」
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胸の奥で、
何かが鳴る。
(……言ったな)
確かに。
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「……今は違う」
そう答えた。
「……立場が」
「……違う」
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「……立場が
変われば」
男は、
言葉を切る。
「……正しさも
変わるんですか」
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答えは、
用意されていない。
(……命令だ)
それだけが、
確かだ。
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「……退去命令を
出す」
「……これ以上の
詮索は、
反逆に
近い」
言葉が、
冷える。
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男は、
一歩下がる。
だが、
目は下げない。
「……分かりました、
閣下」
その呼び方が、
一番痛い。
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「……一つだけ」
最後に、
言った。
「……血で
命令するなら」
「……血で
返されます」
脅しではない。
予告だ。
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男は、
去る。
兵は、
動かない。
動く理由が、
ない。
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天幕に戻る。
机の上に、
新しい文書。
「家名周辺
反対派整理」
整理。
その言葉が、
すべてを包む。
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ペンを取る。
一瞬、
止まる。
(……ここからだ)
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署名する。
その瞬間、
自分の中で
線が引かれた。
過去と、
今。
教えと、
命令。
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外で、
号令がかかる。
兵が、
動き出す。
沈黙は、
再び広がる。
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理解した。
これは、
善悪の話ではない。
継承の話だ。
問いを、
どこで
捨てたか。
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次に会うとき、
彼は
味方ではない。
だが――
敵とも
言い切れない。
その曖昧さが、
一番危険だ。
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夜。
火が、
小さく揺れる。
その向こうで、
家名が
育っていく。
血で。
命令で。
誤字脱字はお許しください。




