第29話 播かれるもの、動かされるもの
29話です
叙爵式の前夜、
王都は静かだった。
静かすぎて、
兵の足音が
よく響く。
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「……準男爵殿」
そう呼ばれたのは、
その夜が初めてだった。
私邸の廊下。
近衛が、
自然な調子で言った。
(……もう、
戻らないな)
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通された部屋は、
小さく、
暖かい。
火が、
静かに燃えている。
「……お疲れでしょう」
声の主は、
以前会った
王族の遠縁。
年齢は、
測れない。
目だけが、
冷静だ。
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卓上には、
地図が広げられている。
国境。
補給線。
駐屯地。
その横に、
家系図。
(……同じ扱いか)
「……軍は、
動きます」
彼女は、
淡々と言った。
「北の辺境で、
不穏な動き」
「……対応は」
「あなたの
方式を使う」
沈黙。
数値。
遵守。
(……兵にも、
家にも)
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「……同時に」
彼女は、
一歩近づく。
火の匂い。
肌の匂い。
匂立つ空気。
「……血も、
動かします」
言い切りだった。
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「……理解していると
思いますが」
彼女は、
視線を外さない。
「あなたは、
もう個人ではない」
「……はい」
答えは、
短い。
「……家名が
必要です」
「兵に、
旗が必要なように」
(……象徴か)
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扉の向こうで、
足音。
報告が入る。
「……北部軍、
配置完了」
「補給線、
安定」
軍事が、
順調だ。
「……よろしい」
彼女は、
満足そうに頷く。
「では――」
一拍。
「こちらも、
準備を」
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別室。
香りが、
変わる。
甘く、
重い。
昨夜の夜会より、
露骨だ。
そこにいるのは、
地方貴族の
若い女性。
衣装は、
控えめ。
だが――
豊満さは
隠れない。
視線が、
交わる。
言葉は、
いらない。
(……命令だな)
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「……閣下」
彼女は、
そう呼んだ。
それだけで、
意味は通じる。
「……王家の
許可は」
「……あります」
短い答え。
選択肢は、
ない。
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外では、
軍が動いている。
内では、
血が動く。
どちらも、
国家のため。
どちらも、
個人の意思は
関係ない。
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再び、
地図の部屋。
彼女が、
報告を読む。
「……初動は、
成功」
「反発は、
限定的」
「……あなたの
方式は、
兵にも効く」
(……効きすぎる)
だが、
口には出さない。
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「……子が生まれれば」
彼女は、
さらりと言う。
「あなたは、
完全に
こちら側です」
完全。
その言葉が、
重い。
「……生まれなくても」
一拍。
「努力した
という事実が
重要」
努力。
その言葉が、
一番残酷だった。
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夜明け前。
窓から、
兵の整列が見える。
静かだ。
完璧だ。
(……同じだな)
兵も、
血も。
管理され、
期待され、
消費される。
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近衛が、
最後の報告。
「……叙爵式は、
予定通り」
「……軍も、
問題なし」
二つの報告が、
同時に来る。
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一人になる。
衣服に、
まだ匂いが残る。
甘く、
重い。
それは、
夜の名残か。
それとも――
役割の匂いか。
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机の上に、
新しい文書。
「準男爵叙爵
最終確認」
「軍事顧問
正式任命」
「家名登録
仮」
三つが、
並ぶ。
(……同時だ)
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ペンを取る。
署名する。
その瞬間、
外で
号令がかかる。
兵が、
動き出す。
そして――
血も、
動き始めた。
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空が、
白む。
王都は、
今日も平和だ。
その裏で、
播かれ、
動かされたものが
確かにある。
それが、
何を生むかは
まだ分からない。
だが――
引き返せないことだけは、
はっきりしていた。
誤字脱字はお許しください。




