第16話 命令が、空気になる前に
16話です。
命令は、
もう声ではなかった。
紙でもない。
掲示板でもない。
空気だった。
坑道に入った瞬間、
皆が同じ動きをする。
立ち止まる。
見る。
待つ。
誰も、指示を確認しない。
誰も、質問しない。
(……完成したな)
教育官として、
これ以上ない成果だ。
事故は減った。
混乱もない。
怒鳴り声も、泣き声もない。
――理想的だ。
それなのに。
胸の奥に、
小さな引っかかりがあった。
理由は、
分からない。
⸻
「……先生」
呼び止められる。
振り返ると、
新人の坑夫だった。
まだ、
顔に煤が馴染んでいない。
「……今日の作業、
第三坑道ですよね」
「そうだ」
短く答える。
「……規程通り、
中層から……」
「その通りだ」
それで終わるはずだった。
だが、
彼は立ち去らなかった。
「……あの」
声が、
少しだけ震えている。
(……質問か?)
周囲が、
静かに緊張する。
誰も、
こちらを見ない。
だが、
聞いている。
「……昨日、
天井の音が……」
そこまで言って、
彼は口を閉じた。
(……やめろ)
心の中で、
そう思った。
続ければ、
彼は消える。
それを、
自分は知っている。
「……すみません」
彼は、
一歩下がる。
「……忘れてください」
その瞬間だった。
胸の奥で、
何かが――
はっきりと、嫌な音を立てた。
⸻
「……待て」
自分の声だった。
周囲が、
息を止める。
「……何だ」
新人が、
驚いた顔をする。
「……さっきの話、
もう一度言え」
空気が、
ざわつく。
(……何をしている)
自分で、
自分を止められない。
「……天井の音が……
昨日より、
近い気がしました」
声は、
小さい。
だが、
確かだ。
坑道の空気が、
わずかに変わる。
(……現場の感覚)
久しく、
聞いていなかった言葉。
「……規程では」
誰かが、
口を挟みかける。
「黙れ」
自分の声が、
思ったより強く出た。
全員が、
固まる。
(……あ)
やってしまった。
「……第三坑道、
作業を一時止める」
静寂。
「……教育官?」
現場監督が、
信じられないという顔をする。
「……理由は」
理由。
数字は、
ない。
規程も、
ない。
「……嫌な予感がする」
それだけ言った。
⸻
数分後。
第三坑道・中層。
調査に入った先で、
小規模な亀裂が見つかった。
放置すれば、
数時間以内に崩落する。
「……止めてなかったら……」
誰かが、
呟く。
答えは、
出さない。
だが、
全員が想像した。
「……報告を」
現場監督が、
慎重に言う。
「……規程外の判断です」
「……ああ」
認める。
「……俺の判断だ」
その一言で、
場の空気が変わった。
誰も、
責任を押し付け合わない。
押し付ける先が、はっきりしたからだ。
⸻
夜。
部屋に戻る。
報告書を書く。
「事故未然防止
一件」
理由欄。
しばらく、
ペンが止まる。
――嫌な予感。
それを書けば、
すべてが崩れる。
制度が、
揺らぐ。
沈黙が、
割れる。
だが。
もし、
これを書かないなら。
自分は、
何者だ。
ペンを動かす。
「現場作業員の違和感による報告」
書いた瞬間、
胸が、少しだけ軽くなった。
同時に、
理解する。
(……これが、
一番危険だ)
命令が、
空気になりかけている。
その空気に、
言葉を戻す行為。
それは、
制度にとって
最も厄介なものだ。
⸻
翌朝。
掲示板に、
新しい紙が貼られた。
「現場報告は、
教育官が直接確認する」
短い一文。
誰かが、
それを見て、
目を見開く。
誰かが、
小さく息を吐く。
(……戻れるかもしれない)
そう思った。
ほんの一瞬。
だが――
同時に、
はっきり分かっている。
これは、
戦いの始まりだ。
制度と。
沈黙と。
そして――
自分自身との。
命令は、
まだ空気になりきっていない。
なら。
空気になる前に、
壊すか、
壊されるかだ。
坑道の奥で、
今日も人が働いている。
考えながら。
疑いながら。
それを、
自分が許した。
その事実だけで、
物語は、
もう一段、深い場所へ進んでいた。
誤字脱字はお許しください。




