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葉月の奇跡 season 1  作者: 岩河尚輝
Ⅸ 閉幕篇
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47.2つの誇り、1つの悔しさ

 身に纏った会場の熱気をロビーの風が冷ます。その涼しさが、ついさっきまであらゆる感情で揺さぶられていた心を抜けて、頬を撫で、虚無感をもたらした。そんな心地で、寛斗は焦点を合わせずにぼーっと外を眺めた。

 啓司は、タオルに顔を埋める英成の隣にそっと座った。英成の体はまだ震えている。啓司は感情をコントロールするのが得意なせいか、悔しかったけど、やはり涙は出てこなかった。

「あのさ......啓司......」

 タオルの中でしゃくりあげながらも、英成はゆっくりと言葉を紡いだ。啓司はそれに、「うん」と優しく返事をした。

「俺たちは八年間、良い夢見れたよな」

「......うん」

「悔しいな......いつかは終わるけど、でもやっぱり、悔しいな......」

 英成はそこで言葉を詰まらせた。そんな英成を見て、啓司は英成の肩に手を置いた。ずっと言えなかったこと、伝えるときが来た。啓司は手を置いた瞬間にそう思って、ゆっくり話し始めた。

「俺は……英成がいたから......今の自分があると思ってる......だから......今まで、ありがとう」

 たった一言の「ありがとう」だけど、そこには二人で歩いてきた長い道が詰まっていた。英成はタオルから顔を上げ、笑顔を見せた。目は、涙で濡れて少し腫れている。鼻は赤く、髪も汗で無造作になっていた。でも確かに英成だ。この顔をずっと隣で見てきた。これからはもう、同じ道ではないかもしれない。けど、啓司は怖くなかった。かつて人と関わるのが苦手だった自分でも、こうして、目を合わせられる存在がいるから。

「啓司......」

 英成は手を差し出した。啓司がその手を握ると、英成も強く握り返した。

「......俺の隣が啓司で良かった」

 短く、ストレートな言葉。それが、啓司の心を大きく揺さぶった。その揺れはコントロールできないほどに大きく、次第に啓司の目に涙が溢れてきた。いつぶりだろう、こんなにも気持ちが溢れてくるのは。でもしばらくは、この溢れる気持ちに二人で浸っていたい。普段あまり感情を表に出さない啓司は、久しぶりに、堰を切ったように涙を流した。

 裕太郎は、凛のストレッチを手伝っていた。裕太郎は、入部当初、凛の優しさにも助けられた。そんな時はこうして、よく凛のストレッチを手伝っていたのを思い出した。

「懐かしいな、この感じ」

「まぁ、今日で最後だけどな」

 辺りは、嵐が過ぎ去った後のような静かな時が流れている。そこに、二人だけの会話が響いていた。

「凛はやっぱり、お兄さんのレストラン手伝うの?」

「んー、そうだね。だから料理系の専門学校行って、資格を取ろうかなって。裕太郎は?」

「俺は……大学進学かなぁ」

「バレーは続けるの?」

 凛の問いに、裕太郎は少し悩んでから答えた。

「昨日までは悩んでたんだけど……」

 裕太郎はさっぱりとした表情で凛の顔を見た。

「今日で終わりにする」

 自分がバレーを続けようと思えたのは、今ここにいる仲間たちがいたから。そして、涼にも再び会うことができて、もう心残りは無かった。そんな裕太郎に様子を見て、凛はそれ以上に追及しなかった。

「俺、裕太郎たちがいたから、もう一度戻ってこようと思った。途中でチームを捨てて、逃げて、今更合わせる顔なんてないって思ってたけど、それでもずっと「戻ってこい」って返ってこれる場所を作って待ってくれた」

 凛は8番のユニフォームを握りしめた。8番を永久欠番にしていたのは3年生全員の総意。いつか帰ってきた時、また一緒にコートに立ちたいと監督を説得した。

「最後また、みんなとコートに立てて、ほんとうにみんなに感謝してる。ありがとうな」

 面と向かって感謝されると、裕太郎はなんだか照れくさかった。自分を殺して、都合よく使われるようになっていた頃の安っぽい感謝とは違う。その温かさに裕太郎は嬉しくなった。

「俺も、みんなに感謝してる。後で改めてみんなに伝えようぜ」

 凛は足を伸ばしたまま、頷いた。

 荷物を運んで、ロビーの様子を見に戻ってきた航生は、階段で優斗と鉢合わせた。航生は優斗の顔を見て、何を言えばいいのかと戸惑っていると、優斗が航生の肩をポンと叩いた。

「頼んだぞ」

 その一言に、航生は目頭を熱くした。先輩たちに貰ったたくさんの言葉と経験値、そして自信。さっきまではあまり現実味の無かった事実が、やっと心に降りてきて、涙が止まらなくなった。それでも、立ち上がらなければならない。明日からは、もう先輩たちはいない。航生は拳を握って、決意を固めた。優斗はそんな航生の背中を、霞んだ視界で見て、安堵の笑みを浮かべた。

 朔斗はロビーから少し離れた自販機の前のガラス窓から、外の広場を眺めていた。そこには、監督の元に集合するチームが幾つかいた。大会三日目は、まさに天国と地獄。たった一点の差で運命を分かつ。そして自分たちも......。すると、朔斗は頬に冷たさを感じた。びっくりして振り返ると、祐飛がペットボトルを差し出していた。

「おぉ、ありがとう」

 朔斗は祐飛からそのペットボトルを受け取って、それを一口飲んだ。

「祐飛も、今くらいはゆっくりしろよ」

 部長の寛斗はもちろん、副部長の祐飛にもこの三年間、色々なことに気を配ってもらった。悔しさを感じてるのは同じはずなのに、それでも祐飛は、涙を流すこともなく、部員たちを励ましたりして回っていた。きっと祐飛は頭が良いから、自分のことよりも周りのことを考えて、優先してしまうのだろう。その優しさには、何度も助けられた。

「なんか......動いてないと気が済まないっていうか……」

 祐飛にはこの気持ちの原因が分かっていた。きっと「終わり」を受け入れたくないんだと。止まったら、悔しさに押しつぶされそうで、涙が止まらなくなりそうで、怖かった。今更見栄を張る仲ではないが、それでも祐飛は、強い自分のままでいたかった。

 手持無沙汰になった祐飛が、他にやることを見つけようと立ち上がった時、朔斗は祐飛の腕を掴んだ。

「なぁ」

 咄嗟のことに驚いた祐飛は、焦りで鼓動が早くなるのを感じた。今振り返ったら、泣き出しそうで、朔斗に腕を掴まれたまま、祐飛は振り返らずに立ち止まった。

「......祐飛のトスって、なんか落ち着くんだよなぁ」

「なんだよ急に......」

「俺は、祐飛がいたから、伯斗と向き合えたし、ここまで来れた。こんなこと、改まって言うのも恥ずかしいけど、中学生からずっと感謝してる。でも......」

 朔斗は言葉を詰まらせた。朔斗の感情が、腕を通して伝わってくるようだった。

「......もっと、祐飛のトス......打ちたかったな......」

 その言葉は慌てて塞いだ心の穴を、ゆっくり解いていくようだった。中学生からずっと一緒で、いつも強くあった朔斗の本音が、祐飛の涙を誘った。

「なぁ、祐飛」

 祐飛はつい、名前を呼ばれ、反射的に振り返ってしまった。掴まれた腕の先、勇ましいエースの顔は涙で濡れていた。

「......俺にとって、最高の相棒だったよ」

 それを耳にした瞬間、祐飛の仮面は壊れ、涙が溢れ出した。今まで歩んできた道、そして最後の試合。もっとうまくできたんじゃないか、もっと違う組み立て方があったんじゃないかと、考えればきりがないから考えないでいたけど、今はそれにとどまっていたかった。

 三年前は何の取り柄もなかった自分を、ここまで連れてきてくれたのは朔斗の方だ。多くの人が、持っているけど見出せない才能を、見つけてくれた彼は自分にとって、本当のエースだった。

 その時、祐飛はある日の会話を思い出した。


「......俺、ほんとに朔斗のトスを上げられるのかな。高校から始めた奴が、朔斗たちと対等に渡り合えるのか?」

「......天才じゃなくたって、俺は打つぞ。だって、エースだからな」

 自信に満ち溢れたその笑顔。中学で話すようになった時も、進路が同じだと分かった時も、そしてバレー部に誘われた時も、この笑顔だった。


 あの日、全ての運命がガラリと変わった日を、祐飛は忘れないと心で誓った。雪崩れる涙を拭った手に宿るのは、誇り。市立中央の司令塔として、そして、エースの相棒としての誇り。溢れる涙と共に込み上げてきたのは、2つの誇りと、1つの悔しさだった。

「......俺も......もっと、トス......あげたかった......」

 祐飛は、やっと本音を口にした。涙で光った二人の目は、繋がった。そうすれば、もう互いに言葉は必要なかった。

 扉の向こうの盛り上がりが、こちらにまで聞こえてきて、祐飛は次のやるべきことを思いついた。そして祐飛は、朔斗をもう一つの場所へと送り出す。

「集合は閉会式が終わってからって監督が言ってた。......行ってこい。見届けるんだろ?」

 朔斗はタオルで顔を拭いて、立ち上がった。そして、再びアリーナへと向かった。その後ろ姿を、祐飛は朔斗のように自信を漲らせた笑顔で見送った。

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