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葉月の奇跡 season 1  作者: 岩河尚輝
Ⅱ 始動篇
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4.ゼロの強さ

 桜はほとんど葉桜に変わり、春があっという間に去ろうとしていた。ほんの一週間前までは珍しくなかったコート姿の人も、今日はあまり見かけない。


 郁瀬は、一週間が経って少し慣れてきた最寄り駅までの道のりを自転車で駆け抜けた。顔に当たる風が少し涼しいくらいの心地よい気温だった。


 駅に着くと、今日は湊の方が先に着いていた。


「おはよう、郁瀬」


「おはようー、そっか、湊も今日からか」


「ああ、眠くて疲れてるのに部活も始まるし......これじゃあ体もたねぇよ」


「なに弱音吐いてんの? いつもは威張ってくるくせに湊も大したことないねぇ」


「それとこれとは違うだろ」


 湊はこの日、野球用のエナメルとバットが入った袋を持っていた。今日から、正式に仮入部期間が始まり、全ての部活で体験が行われることになる。


 郁瀬は湊の装いを見て、どこか懐かしさを感じた。高校に入りたての頃、野球を続けるか決めていないと言っていた湊を、郁瀬は自分のしたいようにすればいいと思って黙っていたが、いざ湊が野球部の姿でいるのを見ると、安心感がした。


「郁瀬はよく入学初日からただでさえ忙しかったのに部活までこなしてたよな」


「だって、バレー部は楽しくて、雰囲気もいいし、先輩たちも優しい人ばっかりで……なんなら部活が最近のモチベーションかも」


「はは、そんなセリフ言ってみてえよ」


「湊だってやる気になればいいのに。野球上手いんだからさ」


 湊は時々、郁瀬に不意を突かれることがある。率直な正論を突きつけられ、湊は少しうろたえてしまった。


「......お、俺だってやる気がないわけじゃないけど……所詮部活だろ? 強豪校でもないし、未来に繋がらないからな。小学生の頃から続けてきたおかげで、周りよりもできるだけだから」


「またまた、湊はいっつもそうなんだよな。俺よりもずっと大人っぽくて、冷静でさ」


 それからしばらく二人の間には沈黙の時が流れた。湊は返す言葉が見つからず、ただ電車の窓から流れる景色をぼーっと眺めた。


 大人っぽい。それは違う。そんなことは自分でも分かっていた。所詮部活-そんな言葉で割り切れるような世界に、郁瀬はいない。湊は、ずっと隣にいたはずの存在が、気づいたら違う世界にいて、ショックだった。そして、憧れた。運動会の徒競走でどちらかが勝つかと競うことに熱くなっていたあの頃のように、純粋な自分に帰りたかった。


 しかし、現実はそんなに優しくなかった。追いかけようと振り返っても、すぐ後ろは崖で、もう道は見えない。手を伸ばそうとしてもその谷の先にいる郁瀬には届くはずもなく、郁瀬と湊に隔たりは深くなるばかりだった。


 その時、湊は悟った。


(もう、俺はこの世界で生きるしかないんだ)


 それは強がりで、本当はちっぽけな自分の表れにしか思えなかった。どこかで線を引いて、諦観して、無駄に大人ぶっていた代償だ。何事もほどほどにという都合のいい言葉に寄りかかって、心の自分が現実の自分とどんどん乖離していく感覚。それが、大人になることだと初めは思っていたけれど、結局、自分が傷つくのが怖いだけだ。


 それなのに、いつも郁瀬は、そんな湊を大人っぽいと言って尊敬していた。しかしそれは、湊にとっては辛かった。郁瀬の言葉が自分を突き放しているようで、痛かった。その度に傷つく自分を恐れて、現実の自分を装う。まさに断つことのできない負の連鎖だった。


「......俺は……」


 湊はふと呟いたが、また言葉が詰まってしまった。


「ん? なんか言った?」


 郁瀬はそんな湊の葛藤を知るはずもなく、何の気なしに聞き返してくる。湊はまた心の中で諦めをつけて、割り切った。


「......いいや、なんもない」


「なんだよそれ。どーせ、お前よりはな、とか言いたかったんでしょ」


 その時ちょうど、下車する駅にまもなく到着する車内アナウンスが聞こえた。同じ駅で降りる人たちが下車の準備を始めるのと一緒に、二人も降りる準備を始めたことで会話は途絶えた。湊は扉が開く方を表示しているサイネージを会社員たちの頭越しに見ながら、会話の続きを心に浮かべた。


(そんなことない。郁瀬、お前の方がずっとかっこいいさ。俺たちはまだ現実なんて見なくてもいい。ただ目の前のことを精一杯できることが、どれだけすごいことか、お前は知らないんだろう。そんな姿がどれだけかっこいいか、それも知らないんだろう。俺が言いたかったのは、そんな偽りの言葉じゃない。


-俺は、お前みたいになりたい-


 それが素直に言えたら、偽らないでいられたら、それはどんな世界なんだろう)


 何度も言いかけては言えなかった言葉。しかしながら、湊は今日もまた口に出せずにいた。





 

 帰りのホームルームが終わり、郁瀬は掃除を一瞬で済ませ、勢いそのまま荷物を背負った。


「じゃあお先!」


「お、おう。部活がんばれ!」


 郁瀬はそんな返事を待たずして瞬く間に行ってしまった。残された黒田と及川は呆然とそれを眺めた。


「あいつ放課後なのに、よくあんな元気出るよな」


「部活大好きだよなぁ。今日から俺たちも仮入部かぁ」


「俺、何部にしよーかなぁ」


 二人は持っていた箒を仕舞いながら、郁瀬の持っていたバレーシューズを思い出した。


「バレーはさすがになぁ、高校から始めるの遅い気がするしな」


「それな。タッパが足りないから戦力外だよな。......って、郁瀬、ちゃっかりゴミ捨てサボってね?」


「うわ、あいつ......」


 黒田と及川は仕方なくゴミ袋をまとめて、教室を後にした。


 入れ替わるようにして、忘れ物を取りに教室に戻ってきた晴は、一枚の部活紹介パンフレットを手にして、窓の外をぼーっと見ていた。


「......高校からじゃ遅いよな」


 晴はそう呟いて、開いていたパンフレットを閉じた。それから画材道具を一式持って、体育館とは反対の棟にある美術室へ向かった。


 湊はエナメルを背負って教室を出ると、ちょうど莉奈と鉢合わせた。


「おお、湊も仮入部? やっぱり野球にするの?」


 莉奈は湊持っていたエナメルを見て、バットを振る真似をする。


「まあな。わざわざ何か新しく始めようとも思わないし、俺ができるの、これしかねぇから。莉奈はどうするんだよ」


「私は色々あって、部活はパス」


「色々ってなんだよ。せっかくならバレー続けてもいいんじゃないか? 県大会にだって出てたんだし」


 すると、莉奈は具合の悪そうな表情を浮かべた。


「いやいや。私、これといって目立ってたわけじゃないし。ほら......バイトとかね、始めようかなーって。ね」


 莉奈は小学生の頃からバレーをやっていた。小さい頃から運動神経は良く、女子の中では背丈もあったので、バレーはまさに彼女にとって天職だった。中学に入って郁瀬がバレーを始めた時は、莉奈がたいそう喜んでは、基礎からルールまで教えていた。


 しかし、そんな莉奈も順風満帆にはいかなかった。自分たちの代になって初めての大会、莉奈はレギュラーに選ばれなかった。理由は単純、平凡だから。それでも莉奈はめげなかった。郁瀬が瞬く間に才能の芽を伸ばしている傍らに、ずっと努力をしていたのを湊は知っていた。どれだけ辛くても、苦しくても、投げ出すことなくやり抜いた。そして、最後の大会で見事レギュラーに返り咲き、県大会に出場する好成績を残した。


 それほどの莉奈がバレーを辞めると決断するには、相当な決心をしたのだろう。湊は莉奈の苦笑いを見て、これ以上詮索するのはやめた。


「そうか。まあ、それもひとつの選択肢だもんな」


「うん、湊も野球頑張ってね」


「おう」


 莉奈と昇降口で別れ、湊は第二グラウンドに向かった。


 市立中央は元々サッカー部の強豪校で、第一グラウンドは男女サッカー部で占領状態。その他の外部活は校舎裏の第二グラウンドで活動していた。


「野球部......仮入部、俺だけか?」


 湊はパンフレットを片手に辺りを見渡したが、それらしき人はいなかった。やはり、サッカー部に男子生徒の多くが入るので、残る男子は限られてくるのだろう。


 パンフレットには力強い文字で「野球部」と書いてある。いかにも古典風な野球部感があって、湊は性に合わないかと思ったが、部員が三年生の五人しかいないということをパンフレットで知って、少人数だったらついて行けるかもしれないと思い、足を運んだのだった。


 その時、倉庫の中から野球のユニフォームを着た二人が、ボールの入ったかごを持って出てきた。


「今年も、だーれも来ないな」


「新入部員ゼロだったらさ、うち、廃部になっちまうぞ……」


「そ、そんなわけあるか。少なくとも四人は必要なんだぞ。じゃないと、俺たち試合出れねぇぞ」


「また合同チームかぁ。あっちのチームの監督、俺苦手なんだよな」


 どうやら、本当に人気の無い部活のようで、彼らの嘆きは湊にももちろん聞こえていた。


「やっぱり冨田のパンフレットがパンチ弱かったんだよ」


「じゃあお前が書けばよかっただろ......ってうわあああ」


 一方のツッコミが勢い余り、反対側を持っていた者がカゴを斜めにしてしまい、辺りにボールが散乱してしまった。湊は目の前で起こった一部始終に呆れつつも、駆け寄ってそれらを拾い始めた。


「あ、ごめんごめん。拾ってくれてありがとう」


 湊は軽く頭を下げつつ、拾ったボールをカゴに入れた。その時、野球部の先輩と思われる人は湊と目が合って、しばらく静止した。それからようやく事態を理解したらしく、行動を再開した。


「赤ジャージ......ってことはもしかして一年生?」


「は、はい......」


「仮入部か。ハンド部だったら向こうで、テニス部はそっちのコートだよ」


「いや、その......」


 湊は突然会話することになった上級生との絶妙な空気感に戸惑った。すると、三年生は湊の持ち物を見て、次第に目を丸くした。


「エナメルに......バット......まさか野球?」


 反応の勢いに、湊が引き気味に返事をするや否や、残りのボールを拾っていたもう一人の三年生に向かって叫んだ。


「と、ととと、冨田ぁ!」


 三年生は雷が落ちたように慌てて冨田という先輩を連れてきた。


「一年生の子! 来てくれたんだよ、一年生が!」


 冨田は、初めは状況が上手く飲み込めていなかったが、一瞬の間をおいて、目の前に状況に整理をつけた。


「......え? えええ! 嘘だろ」


「いや見てみろよ、エナメル持ってるしバットも持ってる。どう見たって野球経験者だろ」


「ほ、ほんとじゃん。き、君、仮入部?」


 冨田は少々あたふたしつつも正気を何とか保って聞いた。


「仮入部っていうか、入部希望っていうか……」


 湊は、彼らの慌て様につられて咄嗟に入部希望とまで言ってしまった。気づいた時にはもう遅く、冨田は目を輝かせたと同時に、既に涙までも浮かべていた。


「に、入部希望......一年越しの……待望の……」


「やったな、冨田! お前のパンフレット効いたぞ!」


「ほ、ほんとだな......夢みたいだ」


 二人が抱き合って喜び合っていると、後ろから残りの三年生らしき人が三人揃ってやって来た。


「ちぃーっす。サッカー部、今年もめっちゃ一年集まってたぞ」


「俺たちの夏、完全に終わったなぁ」


 しばらくして、三人もやっと目の前の光景が目に入ったらしく、それまでの会話を止めて立ちすくんだ。


「と、冨田......なんで泣いて......」


「えっ、赤ジャージ......サッカー部のとこでいたのと同じ......」


「もしかして......これって」


 冨田は半泣きで三人に向かって大きく頷いた。すると、三人は一瞬驚いたと思ったら、走って部室棟の方へ向かった。


「すぐユニフォーム着替えてくるから!」


「俺たちの夏もまだ終わってなかったみたいだな」


「俺たち以外がここにいるのいつぶりだよ......」


 溢れる想いを口に出しながら、意気揚々に去って行った先輩たちの背中を、湊は眺めた。パンフレットで分かっていたが、暑苦しいくらいの先輩がいて、その五人は最後の夏を諦めそうながら、微かにも信じることをやめていなかった。今まで、根性論とか熱血とかいう類のを好かなかった湊だが、何故かこの野球部の雰囲気には一切の悪い気はしなかった。それと同時に少しだけ、見えなかった道が見えた気がした。郁瀬の世界にたどり着けるかはわからない。自信もない。けれど、何かが始める気がして胸が騒いでいた。


「冨田、言いたかったんだろ、あれ」


 冨田は涙をぬぐって、満面の笑みで頷いた。ちょうど、ユニフォームに着替えた三人が戻ってきて、三年生全員が揃った。そして、冨田は湊の方へ改めて向き直って、大きく息を吸い込んだ。


「ようこそ! 市立中央高校、野球部へ!」


 遠くでカラスが鳴いている。夕焼けは深く色づいていた。







 部室で身支度を終えて、郁瀬は体育館へ向かう。体育館のそばのイチョウの木にいたカラスが茜空に向かって鳴いていた。


 重い扉の開く音が体育館に響いて、先に体育館にいた空と康介が振り向く。


「失礼しまーす」


「なんだ、郁瀬か」


「なんですかー、それ」


 郁瀬は先輩の反応に不満げな顔をした。


 郁瀬はこの一週間でだいぶ部に馴染んできた。元々社交性はある方だったので、先輩との会話も今では何の苦もない。


「だって先行入部は結局、郁瀬と朱俐しか来なかったからな」


「二人が来たのは大きいけど、二人だけじゃまずいもんな。今日から本当の勧誘合戦ってわけだ」


 ちょうどその時、体育館の隣の第一グラウンドから、サッカー部の掛け声が響き渡った。それと同時にビラを持って勧誘に繰り出していた寛斗と祐飛も苦い顔で帰ってきた。


「あれ、ずるいよな。毎年」


「ほんとに、おかげさまで万年人員不足だっつーの」


 啓司と英成はモップを持ちながら、どうしようもない境遇に嘆きを漏らしていた。


 郁瀬はシューズを履いて、雑巾を取りに入口の方に向かった。すると入口で体育館の中の方をちらちらと覗いている人が一人いた。


「もしかして、バレー部の仮入部?」


 郁瀬が声をかけると、彼は慄いて一歩後退りした後、震えた声で答えた。


「あ、いや、バ、バスケ部......」


「バスケ部? あれ、今日はバスケ部の練習は無かった気が……ちょっと待ってね」


 彼はかなりしっかりとした体格をしていて、背も朱俐と同じくらいで高かった。


 郁瀬は、ちょうど体育館にやってきた航生に尋ねた。


「先輩、今日ってうちの隣、バスケ部でしたっけ?」


「いや、今日は木曜日だからバレー部とバドミントン部の日だぞ?」


「やっぱり、そうですか……」


「どうした、なんかあったか?」


 航生は郁瀬の視線の先へ目を向けると、知らない顔の一年生を発見した。


「あ、もしかして練習日を間違えてきたってことか」


 すると、彼は事態をすぐに察知して、早々にこの場を去ろうとした。


「そ、そうですか……ありがとうございました......失礼しま......」


 彼が頭を下げて去ろうとした瞬間、航生は突拍子もないことを言い出した。


「いや、ちょっと待って。今日この後なんか用事ある?」


 思いもよらない発言に彼は動揺して怯んだ。


「い、いや......ないですけど……」


 その隙を狙うかのように航生は自信満々の笑みを浮かべる。


「それじゃあ、せっかくだし、うちの練習見ていきなよ」


「えっ......と……」


「ちょ、先輩。いきなり何言い出すんですか、彼はバスケ部の体験に......」


 彼は唐突な航生の提案にどうしていいか分からずにあたふたしていた。すると、航生は自信に満ちた笑みで彼を見た。


「だって元々仮入部する予定でいたんなら時間が空いてるはずだし、見聞広げるには良い機会だと思うんだ。バスケにだって生かせるかもしれないし」


 郁瀬は口から出まかせな航生の綺麗事に少し呆れたが、納得する節もあったので、仕方なく航生の後押しをした。


「......まあたしかに、俺の中学の部活にも小学校はバスケやってたって人いたしな......先輩の言う通り、せっかくだから見るだけ見てみれば?」


 彼はしばらく俯いて考えこみ、しばらくしてやっと心を決め、バッグからインナーシューズを取り出した。


「わかりました......見るだけなら、俺にもできるかな......」


 航生はその返事を聞いた瞬間、喜んで、ちょうど後ろからやってきた朱俐に向かって叫んだ。


「おお! 朱俐、同級生増えたぞ!」


「い、いや、まだ入るとは......」


 とんとん拍子で進んでいく話に、彼は狼狽えた。それを見た郁瀬は航生にますます呆れた。とりあえず、その場を取り繕うと、郁瀬は狼狽する彼に一言添えた。


「先輩、先生とかにはさっぱりしてんのに、バレーと俺たちの面倒は暑苦しいくらいにしっかりしてくれてさ......でも、ほんとに気楽に見てってね」


「う、うん......」


「名前、なんて言うの?」


「えっと……朝日健介......三組」


 健介は終始控えめな態度だった。初めて見た時は図体の印象で勝手に堅いイメージを抱いていたが、案外物静かで優しい雰囲気だった。


「三組かー、ちょっと遠いな。俺は風上郁瀬、八組! よろしくな」


「うん......よろしく......」


 すると、航生に絡まれていた朱俐が解放されて、こちらに戻ってきた。


「そういえば朱俐、今日来るの遅いじゃん」


「あー、掃除でジャンケン負けてゴミ捨て行ってた。んで、君が入部希望?」


 郁瀬はゴミ捨てということを聞いて黒沼と及川が頭に浮かび一瞬ぎくりとしたが、考えなかったことにして、すぐに健介を紹介した。


「あ、こちらは今日見学の……」


「朝日健介です......」


 健介は緊張混じりに軽く会釈した。


「ああ、えっと早川朱俐、よろしくな」


「よろしく......」


「にしても、お前ガタイ良いな。バレー経験者?」


 朱俐は少し期待を寄せたが、健介は首を横に振って全力で否定した。


「いや......中学はバスケやってて......今日間違えて来ちゃったんだけど……さっきバレー部の先輩に誘われて......」


「それで航生先輩あんなにテンション上がってたのか。まあ良かったら見て行って」


「うん......ありがとう」


 すると、朱俐の背後からひょこっと顔を出した者がいた。細身で身長は朱俐と同じくらいだ。そして、軽く天然パーマがかかった髪を撫でながら口を開いた。


「あのー、俺も今日見て行っていいかな?」


 朱俐は思い出したように彼を前に出して紹介した。


「そうそう、俺と同じクラスでバレーに興味あるって言うから連れてきた」


「四組の柳瀬俊太郎です。よろしく」


 ニコッと笑った俊太郎は、健介と打って変わって明るい雰囲気で名乗った。それでも、優しい雰囲気については二人の共通項としてあった。


 郁瀬は、仲間が一気に増えたことにワクワクして、早くバレーがしたいと気分が高揚してきた。


「よろしく! 俊太郎はバレーやったことあるの?」


「いや、姉ちゃんが女子バレー部で、その試合しか見たことないんだけど……でも、ちょっと興味あったから朱俐に声かけてみたんだ」


「そっか、中学は何やってたの?」


「中学は生徒会やってたから、運動っていう運動はちょっとしか......」


 俊太郎はそう言って気まずそうにまた頭を撫でた。すると、それまで黙っていた健介がその波に乗るように喋りだした。


「お、俺も万年ベンチだったから......バスケ部だったけど大したことなくて......」


「いや、それ便乗して言うことじゃないだろ」


 郁瀬のツッコミに、二人は恥ずかしそうに顔を見合わせた。


「まあでも、バレーは高校からでも遅くないからな」


 朱俐はそんなふたりを励ますようにして肩を叩いた。自己紹介もほどほどに、早速四人は体育館へ入っていった。


「部長、仮入部で二人来たんですけど、どうします?」


 アンテナをつけていた寛斗は、郁瀬と朱俐に続いておどおどと入ってきた二人を見て優しく微笑んだ。


「それじゃあ......準備したら、さっそくランニングから混ざろうか」


 それから、寛斗は辺りを見回して二年生の三人を探した。


「航生、空、康介! 二年生中心で見てやってくれ。郁瀬と朱俐はこっちでガッツリ練習入れてくから」


 キャットウォークでカーテンを閉めていた二年生の三人は、寛斗の指示に返事する。


「じゃあ荷物はそこに置いて、シューズ履いて、ランニングするから軽く足とか伸ばしておいて」


「......はい」


 見るだけということで入ったものの、健介は寛斗の話を断れずに、言われるがまま返事した。俊太郎も先ほどまでの明るさは少し緊張によって隠れているようだった。


 二人ともバレーネットが立っている、授業とも、バスケコートとも違う雰囲気の体育館を見るのは初めてだった。


「なんか俺、不思議な感じだなあ。今まで体育の授業以外で体育館で運動したことなんてほとんどないし」


 俊太郎は緊張を少しでも紛らわせようと、荷物を置きながら健介に世間話を持ち掛けた。一方の健介は、人見知り故にうまく言葉が見つからず、ただ頷くだけになってしまった。


 話が途切れたタイミングで、俊太郎がふと呟いた。


「俺、運動あんまり得意な方じゃないし......ついていけるかな」


 独り言なのか、話しかけているのか曖昧で健介は困った。そもそも何故運動部の見学に来ようと思ったのか、先ほどの俊太郎の話からして自分のように強引に勧誘されたわけでもなさそうだし、無理に運動部に入る必要もないのに、わざわざ自ら敢えて運動部に来た意図が健介には分からなかった。しかし、横目で見た俊太郎の手は震えていた。健介もバレーは未知の世界だし、そもそも自分がやることになるなんてほんの数時間前までは考えてもみなかったので、当然緊張はある。けれど、きっと俊太郎はもっと緊張しているに違いない。俊太郎の緊張と弱音を感じ取った健介は、次の瞬間、はっとした。逆境の中にいる俊太郎の眼の奥には、燃えているものがあった。緊張と不安を燃料に、それを乗り越えようとする闘志が見える。自分が得意な世界なのかわからない、それでも俊太郎は挑戦しに来ているんだ。健介は次第に俊太郎の姿に心を動かされていた。俊太郎も同じ初心者なのだ。中学の時とは違う。ひとりじゃない。そう思えたら、健介は少し気が楽になった。


「......大丈夫。きっと初めから上手くはいかないだろうけど……ひとりじゃないから。一緒に......頑張ってみよ」


 足を伸ばしていて空を見つめていた俊太郎は姿勢を直して健介を見つめた。その目に映った健介の姿は、さっきまでとはまるで違うようであった。


 それぞれ散らばっていた部員が、寛斗の声でエンドラインに集まる。もちろん健介と俊太郎も混ざっていた。


「ランニング!」


「はいっ!」


 威勢のいい掛け声とともに集団が走り出した。






 三時間の練習が終わり、気づけばあっという間に辺りは暗くなっていた。四月といえどまだ夜は冷える。開けていた窓から夜風が入り込んで、カーテンをなびかせていた。


「じゃあラスト一本」


「はいっ!」


 啓司のジャンプフローターサーブは無回転でコートに飛んで来て、突然軌道を変えた。しかし、優斗はきちんとそれに対応し、体を横へ移動させてレシーブした。綺麗な放物線を描いたボールは、祐飛の手の元へ吸い込まれていく。それを優しく受け止めつつ、いつもの場所へ送り出す。祐飛が三年間かけて得た唯一無二のトス。そのトスを空中で待ち構えていた朔斗が丁寧かつ力強く叩き込む。無駄のない、美しいスパイクだった。


 しかし、ボールは地に着かない。寸前のところで反応した郁瀬が拾った。少々形は崩れたものの、その修正は二段目の空がきちんと行う。レフトの空が上げた先は、センターでもライトでもない、バックアタック。飛び込んできた朱俐が鮮やかなジャンプの後、ボールを叩き返した。


ドライブ回転のかかったボールはブロックを避けて地に叩きつけられる。啓司がサーブを打ってから僅か数十秒の華麗な駆け引きは、こうして幕を閉じた。


 健介は思わず息をするのを忘れていた。初めての緊張、レシーブの腕の痛み、ボールを打った時の手の感覚......それらを全て忘れるほどに見入ってしまった。


 同じように、俊太郎も目の前の光景に見惚れていた。今まで見たことあったのは女子のバレーボールで、速さも、ボールの重みも全く違った。数秒後、やっと意識を現実に戻して、思わず感嘆の言葉を漏らした。


「す、すげぇな......これが男子のバレーボールか……」


 健介も心に自然と湧いてきた何かを形にしようと言葉を紡ぐ。


「......か、かっこいいな......」


 ふと健介はこの感覚が初めてでないことに気づく。小学四年の時、父親に連れられて初めてバスケットボールというものを生で見た。これまでスポーツには無縁だった彼の目に映ったのは、ただ単純な「かっこよさ」と「憧れ」だった。


 そんな懐かしきあの頃の衝動が、今、目の前に蘇ってきたのだ。ずっと前に感じて、それから現実を歩む中で心の奥に仕舞い、忘れてしまった、衝撃。


 途端に俊太郎が口を開いた。


「健介、俺さ」


 練習の前に健介が見た彼の瞳は燃え滾っていた。今もその炎は消えていない。消えていないどころか、一層確かなものへと変わって、真っ直ぐに輝いている。


「......バレーボール、頑張ってみたい」


 俊太郎の言葉に不純物などなかった。健介も、もう体育館に入る前の自分とは決別していた。答えはひとつ。


「......うん、俺も......バレー部入ろう、俊太郎」


 家に帰って、親に何と言おうか。驚かれるだろうか。中学のバスケ部のチームメイトに伝えたらどんな顔をするだろう。この先の未来なんて全く分からないけど、それでも今だけは、心の叫んでいる方へ、歩みだしてみたかった。もう一度、あの時に戻れる気がしたから。


 その時、練習を見ていた弥生が二人の元へやってきた。それに気づいた二人は弥生の方へ向き直って、会釈した。


「今はまだたどり着けるかわからない。遠い遠い存在で、手を伸ばしても、めいっぱい飛んでも、届かない。でも、それでいい」


 弥生はコートの方を見たまま、落ち着いた口調で続けた。


「二人とも、ゼロの強さって知ってるか?」


 聞いたことの無い言葉に、健介も俊太郎もきょとんとした。すると、弥生は持っていたバインダーで、片付けを始めた部員たちを指して言った。


「実は、さっきトス上げてた二人は、高校から始めたプレイヤーなんだ。うちは、初心者が少ないチームだったから、初めは二人とも落ち込んでたよ。漫画みたいに、偶然始めたスポーツに隠れた才能を持ってて大当たり、なんてことは無かったから」


 弥生が話すことは、二人にとって想像できないものだった。ほんの二、三年前までは自分たちと同じで、それでも今は試合の要を握っている。その上、目立って才能があったわけでもないなんて、信じ難い話だった。しかし、二人の抱いた不思議さを弥生が解いた。


「でも、あいつらは落ち込むだけじゃなかった。初めから追いつけるわけないのは分かってる。だからこそ、少しでも挫けていたら置いていかれる。周りが走れば、自分たちはダッシュして、周りがジャンプすれば、自分たちは空まで飛ぶ。そのくらいの気持ちであいつらはここまでやってきた。そういう奴らって、経験者とはまた違った、新しい強みを持っているんだよ」


 終始一貫した口調で話した弥生は、最後に健介と俊太郎を一瞥して戻って行った。


 健介は、数時間前までは予想していなかった舞台に心を躍らせている自分が不思議で、少し可笑しかった。俊太郎も、ゼロの強さという言葉に脈打つ鼓動が高鳴っている。ここにいる人たちと夢を共有していく三年間。もう諦めたくなかった。


 風上郁瀬、早川朱俐、柳瀬俊太郎、そして朝日健介。いつか全員で戦えるその日まで、精進してみせる。オレンジの光に包まれた二人の心は同じだった。

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