43.兄ちゃん
生まれた時からずっと隣にいて、友達とも恋人とも違う距離感の存在、それが兄だった。
「にいちゃん......ころんだ......いたい......」
「だいじょうぶ。はくとは、おれがまもってやるからな」
朔斗は優しくて頼りがいのある力強い人。伯斗はずっと、そんな兄が好きで、憧れだった。兄の行く道を一緒に行けば間違いない。兄の真似をして、いつも置いていかれないように横を歩いていた。
だから、朔斗がバレーボールを始めるときに、伯斗も一緒に始めた。
「かあさん! おれも、にいちゃんといっしょにばれーやる!」
「はくちゃん、バレーボール興味あったっけ?」
「いいの! やるの!」
「いいじゃん、おれもはくととばれーしたい」
こうして、朔斗と伯斗は小学二年生の時から地元のバレーボール教室に通い始めた。
初めのうちは、体格にも恵まれていた兄の方が芽を出していて、よくレギュラー入りしていた。でも、伯斗はその事実が悔しくはなく、好きな兄と同じ景色を見れているだけで幸せだった。
「兄ちゃん、今日の試合も大活躍だったね」
「だろ? 俺はエースになるんだからな、こんなもんじゃないぞー?」
「……俺も、兄ちゃんと一緒の景色見れるかな」
朔斗は伯斗を見て、自信に溢れた笑顔で言い放った。
「......当たり前だ。だって俺の弟だからな」
その笑顔を見ていたら、伯斗も兄のようになれるような気がした。兄のような、大胆でエネルギッシュなスパイカーに。
兄ともっといろんな景色を見たい。一緒に飛んで、どこまでも遠くへ。その思いは強くなって、伯斗も懸命に努力を重ねた。もっと高く、もっと速く、二人でしか見れない景色を求めて。
そして、いつしか横に並んでいたはずの兄はいなくなっていた。中学の最後の学総、惜しくも全国大会を逃した瞬間、兄と弟では、きっと違う景色が見えていたのだろう。伯斗が悔し涙越しに見た朔斗の目は、乾いていた。
「兄ちゃん......負けちゃったね」
帰り道、涙で目を赤くして言ったその言葉に返した兄の言葉。
「......あぁ、負けたな」
あの時は気づかなかったけれど、後になって分かった。あの言葉には兄の本当の気持ちが表れていた。かつて、同じ道で信じた兄の笑顔は、伯斗にはもうどこにも見えなかった。
この時から歯車が狂いだしていたのは、伯斗も薄々勘づいていた。でも、その現実を、見て見ぬふりをした。
「伯斗、総武学院の練習会、行ってみないか?」
学総が終わってしばらく経ったある日、伯斗は監督に声をかけられた。
「え? 総武学院ってあの?」
「そうだ。この前の学総でプレー見てくれてたらしいぞ」
「ええ! 嬉しいなぁ。あ、兄ちゃんは?」
「あぁ......一応、朔斗にも話しといたよ。あいつがどうするかは分からないけど」
その時、伯斗は察した。監督の微妙な表情、言葉。兄の道は、総武学院へは続いていない。少なくとも兄は自分の未来が、そう見えたんだろう。
「......ありがとうございます。帰ったら、自分からも聞いてみます」
二人で歩く道は、もうどこにも無いのだろうか。何度もその現実を突きつけられては、受け入れられずにいた。反芻しても消化できない、厄介な笑顔が、脳裏に蘇るのが辛かった。
その日は伯斗が先に帰ってきたので、兄の帰りを玄関で待った。自分の耳で聞くまでは、まだ分からない。伯斗は自分にそう言い聞かせた。
しばらくして、家の扉が開き、朔斗が帰ってきた。その顔は梅雨の曇天のような、晴れない顔をしていた。
「兄ちゃん、おかえり」
朔斗は目を合わせることなく、「ただいま」と呟いた。何も言わなければそのまま行ってしまいそうだったので、伯斗は慌てて言葉をぶつけた。
「兄ちゃんは、総武学院の推薦どうするの?」
言ってから、あまりにもストレートに聞いてしまったことを伯斗は後悔した。靴を脱いで立ち止まった朔斗は、ぶっきらぼうに答えを返した。
「......俺は……いかない」
その答えが返ってくることなど、兄が帰ってくる前からわかってたことだった。それなのになぜか、伯斗は何かが込み上げてくる感じがした。このままでは本当にいなくなってしまう。
「兄ちゃん、俺は……」
その時突然、黙っていた兄が怒鳴った。怒鳴ったことへの驚きよりも、「わかってるよ」の一言が耳を伝って、胸の内側にぐさりと刺さって痛かった。
「伯斗は総武学院に行けばいい、そうすればもっと成長できる。俺が見られないような景色、いくらでも見れるようになれる」
朔斗が喋れば喋るほど、胸が痛かった。そうじゃない、そんな景色は見たくない。自分が見たいと願ったのは、兄の見ている景色。それなのに、なんで兄は、突き放すんだ。
「ねぇ、俺は兄ちゃんと……」
気づけば伯斗は朔斗の腕を掴んでいた。今この手を離せば、もう二度と届かない存在になりそうで、強く握った。兄の顔は見えない。言葉を繋がないと、終わってしまう。伯斗は必死に言葉を探した。でも、いざとなったら言葉が出てこない。言いたいことが沢山あるのに、渦巻く心はまとまらなかった。
「俺と伯斗は違う」
朔斗は少し乱暴に、掴まれた伯斗の手を振り払って、歩き出した。そして次の言葉が、伯斗の叶わぬ淡い期待にトドメを刺した。
「もう一緒にバレーしたくないんだ」
バタンと音を立てて閉じた部屋の扉を、伯斗は呆然として見つめた。端から分かってたことじゃないか。有り得ない期待を抱いていた自分が馬鹿らしく、自分への呆れ笑いと、込み上げた涙があふれ出した。




