41.交差点
キッチンの奥の扉から、弟と妹が出てきて、凛と兄との間の沈黙を破る元気な声が聞こえてきた。
「兄ちゃん! 兄ちゃん!」
テレビのリモコンを持ったまま駆け寄ってきたので、きっとテレビを見ていたら好きなキャラクターが出てきたとか、いつも通りのことだろうと察していた。しかし、二人から出てきた言葉は予想と違うものだった。
「兄ちゃんの学校がテレビ出てるよ!」
テレビ? そんな取材が来ているといった噂は聞いたことない。それならば......。頭の中を少しかき回せば、すぐに答えが出てきた。皮肉にも、逃げても逃げても目の前にやってくる。どうして......。
弟は店内のテレビをつけて、チャンネルをローカル局に合わせた。間もなく聞こえてくるのは、聞き馴染みのあるシューズとボールの音。それから、目に入ってくるのはよく知る色のユニフォーム。どうしてだろう、もう遠い昔に線を引いたはずなのに。どうしてだろう、心はまだ、帰りたがってる。そして目からは……。
「......兄貴......」
凛は目を赤らめて、もう一度兄を見た。兄の目が、この一歩は、今この瞬間に踏み出すべきものだと、そう言っている。
「俺......戻りたい。間に合わないかもしれないけど……せめて、あいつらをこの目で見届けたい......!」
凛の兄はその言葉をしっかりと聞き取って、キッチンの横の棚からあるものを取ってきた。そして、兄から手渡されたものを受け取った瞬間、手に伝わった感触で、それが何かわかった。
「急げ、俺がアリーナまで送ってくから。それならまだ間に合うだろ」
幸い、会場までは車で最短十分あれば着く距離。今は第二セットの最初だとすると……間に合うかは、展開次第といったところだった。それでも、自分は見届ける責任がある。このユニフォームを手にしている限りは、最後まで。溢れる涙を拭って、凛は急いで支度をして、店を出た。
監督という立場である以上、現実を見続けなければいけないのは分かっている。でもきっと、心というものは目に見えないところにあって、そのような部分が、綻びを繋ぎ止める大事な部分になるのだろう。弥生はチームを俯瞰して見ていた。声掛けはできていて、このような展開で雰囲気を崩していないのは大いに成長している。しかし、そこが逆に、綻びにも見える。弥生は、選手たちが大事なものを忘れて、ただ目の前だけに必死になっているように感じていた。しかし、一人だけ違った。弥生はその者を呼び、「目玉」を書き換えた。
長い笛が鳴り、スターティングメンバーはサイドラインに並ぶ。その六人を見て、市立中央の観客席は少しざわついた。
「おい、あれって……」
「湊、見ろよ」
湊も確かに、その背中を見ていた。
“12”の数字がコートのオレンジの光を浴びて、輝く。彼は足首を回して、軽くジャンプした。
「向こう、選手交代か」
「あー、12番じゃん、あの時の」
「......」
今、監督に言われた言葉を聞いた瞬間、胸の靄が晴れた。雰囲気は良く見えるかもしれないが、今、このままでは、まずいんだ。その直感はどうやら正しいようだった。
「見えてるんだろ。綻ぶ未来も、その救い方も」
今は見えていないだけで、歯車は狂いだし始めている。その歯車を止められるのは、先輩でも、朱俐でも、応援でも、そして俺でもない。でも、必ず救ってくれる存在がいる。自分のやるべきことは、それまで時間を稼ぐこと。粘って、粘って、勢いに乗せないこと。
寛斗のサーブを相手は難なく拾い、スパイクが来る。セッターをよく見て、感覚を研ぎ澄まさせて、ボールの呼吸が向いている方へ飛ぶ。スパイクは郁瀬の腕にぶつかって総武学院のコートの方へ戻る。まだ終わってない、粘れ、粘れ......。
(12番の一年厄介だな......どこにあげても食らいついてくる)
セッターを惑わせたら勝ちだ。郁瀬のブロックの毒が、総武学院に徐々に回り始めれば、脆くなる。そこを捉えれば......。二連続で郁瀬がブロックをした時、セッターのトスが乱れてスパイクがチャンスボールに変わった。その隙を逃さず、優斗、祐飛と確実に繋げていく。そして繋いだ先には、朔斗がいた。逆に追い込まれた総武学院のブロックのズレを狙って、朔斗は渾身のスパイクを叩き込んだ。二セット目、最初の一点は市立中央のものとなった。
「郁瀬、ナイスブロックだったな」
郁瀬は自分の気持ちを確信して、寛斗に改めて伝えた。
「先輩、このセット、どれだけ厳しい展開でも粘っていきましょう」
「なんかあるのか?」
「確かな根拠は無いんですけど、自分の直観が言ってます」
寛斗は「直観」という曖昧な根拠に拍子抜けしたが、その郁瀬の直観を信じられる気がした。確かに郁瀬はどちらかといえば直観タイプだ。中学校、それから今年の数ヶ月見てきて、その研ぎ澄まされた時の感覚と言葉には驚かされることが何度かあった。きっと今も、何か感じているのだろう。
「全員、こっから粘って行くぞ!」
寛斗は全体に向けて叫んだ。今にも崩れそうで脆くなった見せかけの雰囲気が壊される前に、それまで粘っていこう。選手たちはそれぞれ改めて気合を入れ直し、寛斗は再びサーブのルーティンに入った。
ずっと追いかけてきた存在が、今目の前にいて、その勇姿を初めて見届けている。攻撃を凌ぐ展開が続く市立中央の中で、郁瀬は必死にブロックで相手に食らいついていた。そんな彼を真っ直ぐに応援したいと思ってた。それなのに、今、湊が心に抱いた気持ちは、違う気持ちだった。
彼をずっと隣で見てきて、そしてバレーボールと出会った時に、彼が一気に人生に希望を見出したこと、それから絶望したこと、いろんな意味で人生を懸けているものの一つであることは知っていたけれど、改めて目の当たりにすると圧巻で、言葉が出てこなかった。応援も忘れてしまうほど引き込まれるものがある。それはきっと......。湊は自分を省みて、郁瀬と比べた。本気になるっていうのはこういうこと。郁瀬だって、きっと傷を抱えながら、今コートの中を飛び回っている。果たして自分は、郁瀬のようになれるのだろうか。
その時、隣にいた黒沼が持っていたメガホンで湊の腕を突っついてきた。
「郁瀬、すげぇな」
「あぁ。昔からバレーに馬鹿だったからな、あいつは」
黒沼はその言葉に納得したのか、深く頷いて、試合を見たまま湊にひとつ尋ねた。
「湊はさ。野球、楽しいのか?」
その問いは質素で鋭く、湊に刺さった。そして、この前郁瀬に問われたことも思い出した。
――なんでいつも楽しそうじゃないの?
自分が何のために野球をやっているのか。自分が野球を始めた理由ってなんだっけ......。湊は大事な何かを思い出せずにいた。次第に視界が曇って、色が無くなった。郁瀬の姿を見るほどに、そして黒沼の問いを反芻するほどに、自分が本気だと思ってやってきたことが安っぽく感じた。
(俺って……なんにもないな)
心にすとんと落ちてきたのはその言葉だった。中身のない、人当たりの良い存在。それが自分。そんな奴が頑張っても、得られるものは、たかが知れてる。親友の頑張っていることも素直に応援できない自分に、湊は嫌気がさした。湊の中でやっと動き出したエンジンは、少しずつ止まっていった。
湊は黒沼への返事を曖昧にして、得点版を見る。二セット目よりも粘ってはいるものの、市立中央が総武学院を追いかける展開が続き、17-19とリードを許していた。その時、目の端から誰かがやってくるのが見えた。
「......?」
「健介、俊太郎。誰か走ってくるぞ」
突然走ってきた人を見つめ、健介と俊太郎は戸惑いの表情を浮かべた。
「はぁ......はぁ......」
息を切らしているその者は、呼吸を整えて、名乗った。それを聞いた二人は目を丸くして驚いていた。
「......芦原......凛です」
ジャージを脱ぐと、今まさにコート上で戦っている選手と同じユニフォームが現れる。健介と俊太郎の頭に衝撃が走るのも間もなくのことだった。




