3.光と影と異端児
サーブ練習を終え、二段トスの練習、レセプション、スリーメンなどたくさんの練習をこなしていく。公立校の場合、大抵はひとつの体育館をバレー部以外にもバスケ部やバドミントン部、体操部などが交代で使う。市立中央高校もその通りで、私立のように専用の体育館があるわけではないので時間は無限ではない。その分濃い練習をしていて、中学の時よりも充実感が大きい。寛斗が言っていた、バレーの楽しさを忘れないチーム作りとその自信は、練習を通して郁瀬も十分に納得していた。
「じゃあ、次スパイクな」
「部長、一年どうします?」
「二人ともウィングやってたらしいから、そのまま入れちゃって大丈夫だろ。二人とも行けるか?」
二人は寛斗の期待に応えるべく大きく頷いた。すると、航生が二人の方へと駆け寄ってきた。
「じゃあ最初下打ち二周して、Aクイック三周、それからオープンとかコンビとか好きなの入っていいよ。セッターの近藤先輩なら何でも上げられるから」
航生はふざけた笑顔である先輩に目線を向けた。その視線の先にいた三年生の先輩は、直上パスで手を慣らしている。その先輩は、こちらを見ては困り顔で言った。
「おい、お前無茶言うなって。初日からハードル上げすぎだよ......まったく」
二人のやり取りを見て、郁瀬は何となく仲の良さそうな人達だなと思った。
「スパイク―!」
「はいっ!」
郁瀬と朱俐、どちらにとっても久しぶりのスパイク練習。ブランクはあるけど、楽しみな気持ちであっという間に心配は埋まった。
まずはネットの下でボールを床に叩きつける「下打ち練習」。そこで、インパクトの時のミートの感覚と、手首のスナップでドライブをかける感覚を確認する。
「久しぶりだな。この感じ」
「ああ、でもすぐに感覚を戻さなとな」
「そうだな」
それから、クイックの練習。二列に分かれて、全員がクイックに入る。普段クイックを打つことは滅多にないアウトサイドヒッターやオポジットもクイックに入るのには意味がある。この練習はただのクイック練習だけではなく、実際にネットの上からどこへ打ち込むか判断する訓練も兼ねていて、スパイクの基礎練習になる。いよいよ郁瀬たちは、先輩たちが実際に飛んで打つ姿を見ることになる。そう思うと、郁瀬は高まる気持ちを一層募らせた。
まず先陣を切るのは寛斗。郁瀬にとっては三年ぶりの先輩のスパイクだ。そう思った次の瞬間、郁瀬は周りの時間が止まったように感じた。完璧に計算されたトスにファーストテンポで飛び込む。振り上げた手からボールが放たれ、狙った一点を無駄なく打ちぬいた。もちろん、中学の時よりもネットが高いし、中学時代の寛斗が公式戦でクイックを打っていたところを郁瀬は見たことがなかった。徹頭徹尾洗練された美しいスパイクに圧倒され、郁瀬も朱俐も息を呑んだ。それと同時に、インスパイアされた心が今にも動き出そうとしている。
すると、拾ったボールをマネージャーに渡して、寛斗が郁瀬に近寄って、肩に手を置いて一言告げた。
「めいいっぱい、見せてやれ」
その言葉が、郁瀬の心を最高潮に至らせた。その燃え滾る眼で、祐飛と目を合わせる。初めてのセットアップだが、その刹那で意思は繋がった。その眼に応えた祐飛の眼が不思議と全てを受け入れてくれるような感じがして、郁瀬は安心して助走に入った。歩調を早め、左足、右足、そして左足を踏み込んで両足で力強く地を蹴り、空の世界へ飛び込んだ。
「この感覚......」
時はゆっくり流れ、呼んだ場所にボールがある。そしてそれに向かって羽を広げて会いに行く......。
あの時と同じだ。選ばれし者が与えられる景色を見て、全てを手に入れた気がした日。......そして、全てが壊れた日。
はっとした時にはもう遅かった。一瞬はっきりと見えた視界に、淀んだ雑念がその景色を一気に隠して、若干腕を振り下ろすのが遅れた。クイックは、そのような些細なズレでも成立しなくなる攻撃だ。
着地すると、郁瀬はとてつもない暗い気持ちに苛まされた。
「ごめんごめん、俺のトスの合わせが悪かった」
もちろん悪いのはセッターではない。トスは完璧だった。なのに、自分の弱さがそれを全て台無しにした。
「いや、違います......俺がミスしました」
一年近く経とうとしているのに、未だに変わらない自分が、ただ悔しくて、上を向くことができなかった。それでも練習は続くので、郁瀬はひとます邪魔にならないようにはけた。
「あいつ、一球くらいであんなに気落ちしなくていいのに。完璧主義か?」
祐飛は近くにいた寛斗に小声で言った。祐飛がそう言うのも無理もない。Aクイックが合わないことなんてざらにある。しかも初めての練習なので尚更だ。郁瀬の反応はそれほど不自然で、何か抱えているに違いないと思えるものだった。
そんな様子を見て寛斗は、郁瀬に偶然再会したあの日の、彼の陰りを思い出した。夕暮れを背に、自暴自棄になっていたあの時と同じ表情をしている。やはり、どうにかして乗り越えなくてはならない壁のようだ。しかもそれは、簡単には越えられない、大きな壁。
それでも寛斗には、簡単に引き下がるわけにはいかない使命があった。自分が、ここでなら答えを探せるかもしれないと誘った。それを信じて、郁瀬は幾千の道からここに進むことを決めてくれたのだ。何とかして、引退するまでに彼をスタートラインに立たせてあげたいと寛斗は考えていた。
(未来へ繋ぐために......)
寛斗は、郁瀬が打ち損ねたボールを拾って、再び決意を固めた。しかし、決意とは裏腹に、どうしていいかわからない現状も確かであった。郁瀬のスパイクは、彼の視界は闇がまとって、飛んでも道標が見えないのだろう。この現状を打破する策を、寛斗は考えていた。
その時、その途方もない暗闇に一筋の光が差した。力強く地を蹴って飛び上がると、空を舞うボールを確実に捉え、うち抜く。それと同時に、地に叩きつけられたボールの地響きが足から重く、寛斗や郁瀬に響いた。それはまるで、岩陰から獲物を狩るべく飛び上がった豹のように、無駄なく仕留めたAクイックだった。
そんな一部始終に呆気を取られ、郁瀬は呆然とした。それと、次第に懐かしい記憶が蘇ってくる。あの時も、こんな感情を抱きながら見ていた。
「あいつ......何者だ」
このレベルの選手なら、選抜や推薦である程度名は知れているはずだ。でも、彼が最初に体育館へ来た時、早川朱俐という名を聞いてピンと来た部員は誰もいなかった。
寛斗は、目の前で起こったことがあまりにも衝撃的過ぎて、なかなか理解が追い付かなかったが、それは決して嫌な感じはしなかった。寛斗はさっきまでの暗い現状に、朱俐のスパイクが光となって差し込んだ時、ひとつ、微かに道が見えた気がした。
(......行けるかもしれない)
部長という立場で弱音を吐いている暇など無さそうだ。時間はもう限られている。寛斗は気持ちを奮い立たせて、スパイク練習に戻った。
「おいおい、今年こんなにやばいやつ来るなんて聞いてないぞ」
「早川なんて名前のやつ、去年の選抜にいたっけ」
スパイク練習の直後の給水時間、部員たちは朱俐のことで話題が持ちきりだった。
「なあ、早川ってなんで中学の時の成績は何も残ってないんだ?」
「出身の沖見ヶ丘中が県ベスト8ってのしか出てこないな」
「こんなに上手いなら選抜とか選ばれただろうに」
案の定、こうなるとは思っていたが……。先輩らの詮索にうんざりした朱俐は、俯き加減で答えた。
「......選抜も推薦も全部断りました」
それを聞いて先輩たちの間に衝撃が走るのは、手に取るように分かった。こうなるなら思い切って打つんじゃなかった。中学時代もこうして自分の才能だけを賞賛されるばかりに、次第に全力で打てなくなった。しかし、久々のスパイクだったので、体が本能のままに動いて、つい打ってしまった。でも、自分のスパイクが目立つほど、影が生まれる。これでは中学の時と変わらないじゃないか。心機一転と思っていた朱俐の希望は霞んでしまった。そう思った時だった。
「まあ、何があったかは分からないけど、なんにしろ俺たちのチームを選んでくれたってわけだ。これ以上無いくらいに嬉しいことじゃないか。しかも選抜級の奴が見てくれてたんだろ、自分のことよりも、俺たちの『チーム』をさ」
朱俐ははっとして見上げると、朔斗が優しい笑みを浮かべていた。それから、朱俐に集まっていた人たちを練習へと向かわせた。
「改めて、うちを選んでくれてありがとうな」
朔斗は一瞬朱俐と目が合ったが、恥ずかしくなったのかすぐに目を逸らして、寛斗に向かって大声で尋ねた。
「さてと、次は……寛斗! 次はディグかー?」
「ああ、すぐ始めるぞ」
朔斗は、過去を詮索されていた時にふと見た朱俐の表情に痛みを感じた。きっと何かを抱えていて、それは自分のバレーへの愛を檻に閉じ込めているようなものだろう。その気持ちは、朔斗にも理解できるところがあった。それならば、今の朱俐に必要なのは過去の詮索でも、個人的な賞賛でもなく、朱俐がこのチームにいる、そのことを認めて快く迎え入れることだろう。
朔斗は朱俐の肩をポンと叩いた。
「だってさ。ほら、行くぞ」
「......はい!」
バレーボールに触れてから、朱俐は初めて出会った。自分の技術だけじゃない、「チーム」というものを大切にしたいという気持ちを理解してくれる人に。恵まれた才能、それは周りを圧倒するほどに輝き、そして時にはその輝きが棘となり、周りを寄せつけなくさせる凶器にもなりうる。まさに薔薇のような紙一重の美しさと残酷さを持っていた。朔斗の言葉は、そんな薔薇を優しく包んでくれた。その感覚がなんとも心地よかった。
ディグの練習は変わらず、濃い内容で続いた。スパイクの時に不調だった郁瀬も気持ちを切り替えて、レシーブ練習に専念していた。郁瀬のことも考慮して、今日のところはひとまず、一年生はレシーブのみに入った。
「早川君は打ちたいだろうけど……まあまだ仮入部の初日だし、今日のところは勘弁な」
「いや、全然大丈夫っす。レシーブ力も向上させたいところだったんで」
「そっか。なんかバレー馬鹿ってよりは、ちゃんと色々考えてんだな」
「そうっすかね」
「でも、周りに染まりすぎても上手くならないからな。プレースタイルに自分らしさを見つけないとな」
航生はそう言って、ディグの列に入っていった。確かに物語とかだと、強力なスパイカーはバレー馬鹿だったり、キャラが濃かったりする。でも、朱俐にはスパイク力以外のアイデンティティを自身で見出せていなかった。自分のことよりも見たいものがある、大切にしたいものがある。その気持ちが自然と朱俐のバレースタイルを確立させたのだろうか。朱俐は航生の助言がしばらく耳に残った。
ディグ練習を終え、もう一度サーブ練習をして、今日の練習は終わった。本来ならチーム練習をするらしいが、入学式の関係で開始時間が遅れたため、今日はカットになった。
朱俐は、寛斗がネットを畳んでいるのに気づいて駆け寄った。
「先輩、代わります」
「おお、ありがとう。でもあとちょっとだから大丈夫。それよりさ......」
畳んで丸めたネットを余った紐で括りながら、寛斗は悩ましい表情を浮かべた。
「......郁瀬のことなんだけど」
朱俐は、その一言で、スパイクの時の郁瀬の様子を思い出した。寛斗の表情を見て、先輩にも郁瀬の違和感に何かを感じていたのだろうと察した。
「たぶん、郁瀬は何らかの原因でスパイクを打てなくなってるんだと思う」
寛斗の勘は、朱俐も概ね同じだった。後ろから郁瀬の背中を見ていた朱俐には、少し思い当たることがあった。まるで、昔の自分のようだったから。
「それは俺も思いました。先輩、何か原因に心当たりあるんですか? 先輩って、あいつと同じ中学校出身って聞きましたけど……」
しかし、寛斗は難しい顔のままでいた。
「いやあ、俺がいた頃は元気のあるやつって感じだったんだけど……。原因は分からないけど、俺が半年前に偶然再会して市立中央に誘った時には、あの頃のガッツのある郁瀬とは真反対で、その時もさっきと同じような、浮かない顔してたんだよな......」
確かに、郁瀬が元々元気のあるやつで、バレーが大好きなのは、会って初日の朱俐でも伝わってきた。スパイクの助走を見た時、並の選手じゃないという勘を肌で感じたから。実際、それに感化されて朱俐もあのスパイクを打ってしまったのだが……。しかし、そんな期待とは裏腹に、スパイクはミスに終わった。合わせるのは初めてだし、クイックだったので偶然セッターと息が合わなかっただけかと最初は思っていたが、その後郁瀬が少し震えていたのが目に止まった。それを思い出した朱俐は小声で呟いた。
「......あいつ、もしかしたら、スパイクを打つのが怖いのか......」
だとしたら......。朱俐は心に引っかかっていたことが現実になりそうで悲しくなった。もしそうなら、ここからは茨の道。かつての自分がそうであったように......。
寛斗は朱俐の呟きを聞いて納得した表情を浮かべた。
「確かに、助走までは楽しそうな雰囲気だったのに、空中でそれが消えた気がしたんだ。怖い......確かにそれなら辻褄が合うかもしれない。なんでわかったんだ?」
「それは……」
その時、職員会議から戻ってきた顧問の先生が体育館にやってきた。気付いた部員からあちらこちらで挨拶が飛び交い始める。朱俐や郁瀬は顧問を見るのが初めてであったが、周りの反応ですぐに監督であることがわかった。
「青葉、今日の練習は大丈夫だったか?」
「はい。いつものメニューに一年生二人も入れてやりました」
「そうか、早速二人来てくれたのか」
そう言って監督は遠目からちらりと二人を確認すると、少し何か考えたような素振りをして、ステージの方へ歩いてきた。
「さっきのメニューの内容、あとで詳しく聞かせてくれ。それじゃ集合かけて」
寛斗は片付けで各々体育館に散らばっていた部員を招集して、監督を半円で囲んだ。
「気を付け、礼!」
「しやーす!」
年齢は四十代くらいだろうか。短髪で、ガタイはしっかりしていて、身長も180cmはありそうだ。その佇まいは、いかにも監督というような感じであった。
「自己紹介はもうしたのか?」
監督は野太く低い声で寛斗に尋ねた。明るく熱血というよりは、なんとなく冷静沈着という感じで、厳かな雰囲気が郁瀬や朱俐を少々緊張させた。
「いえ、とりあえず練習しただけなので、まだです」
「それじゃあ、今度本入部の時に大会前のミーティングも兼ねて改めてまたやるだろうけど、青葉から順番に自己紹介しとこう」
「はい、じゃあ俺から。三年で部長の青葉寛斗です。ポジションは主にレフトやってます。よろしく」
寛斗は相変わらず堂々としていた。まさにリーダーのように頼りがいのある先輩に思われた。
「次は俺だな。三年の副部長、近藤祐飛。セッターです。よろしく」
先ほどのスパイク練習の時のセッターを務めていた。郁瀬がミスした時、自分のミスとして分析をしていた。冷静で聡明な人、郁瀬にはそんな印象だった。
「同じく三年で副部長の西村朔斗。寛斗と対角レフトやってます」
朔斗は身長が寛斗よりも少し高く、チームの中でも随一のしっかりした体格をしている。その頼りがいのあるオーラは、まさしくエースそのもので、スパイクはもちろん、レシーブでも安定して姿を見せていた。
「三年でリベロの木梨優斗! 今年の一年生も高ぇな、羨ましいよ」
優斗はチームの土台であるリベロを担う。リベロは、攻撃ができな代わりに守備の要として、レシーブに不利な前衛専門の選手、主にミドルブロッカーが後衛に回ったときに交代する。身長は郁瀬よりも低いが、先ほどのレセプションの練習では、一度もミスしていなかった。そして、彼の明るい性格は、チームのムードメイカーだった。
「優斗、それ自分で言うのカッコ悪いぞ。三年の倉田英成、ミドルブロッカーです。よろしく」
優斗を茶化した英成は、チームで最も背が高い選手だ。その高さを生かしたブロックで、チームを前衛から守る。
「......臼井啓司。サウスポーなんで......オポジット......やってる」
物静かな人柄の啓司は、英成と共に左利きの選手。それゆえ啓司は、左利きの選手が有利とされる、ライトからの攻撃が専門の「オポジット」というポジションを務めている。彼の持ち前の体格からの守備力と左利きの攻撃は、チームにバランスとアクセントを加える点で、とても貴重な人材だった。
「英成も啓司も酷だねぇ。茂木裕太郎でーす。三年でセンターです、よろしくー!」
裕太郎は雰囲気も陽気な感じだが、ブロックとなるとチーム屈指の高さでシャットアウトする、頼れるブロッカーだ。
郁瀬と朱俐は、改めて三年生を見ると、県内強豪校でも通用する高いレベルの人材がそろっていることに、畏敬の念を抱いた。
「それじゃあ、次に二年だな。中村航生です、ポジションはリベロ! よろしくな」
航生は、優斗と同じリベロを専門とする。航生の面倒見のいい性格のおけげで、郁瀬たちはすぐに部活に馴染むことができた。
「三井康介です。ポジションはウィング。よろしく」
康介はスパイカーではあるものの、チームの中では身長が低い方であった。しかしながら、実力は確かで、ディグの練習では三年生のブロック相手に果敢に打ち込んでいた。朱俐は、康介の紹介を聞いてほのかに笑みを浮かべた。
「鈴木空。二年でポジションはウィングだけど、ライトやることが多いかな。よろしくな」
空は右利きながらライトからの攻撃を得意とする。二年生は、以下の三人で人数は少ないが、いつも三人一緒にいるようで、その仲の良さは郁瀬たちにも見て取れた。
寛斗は、空まで自己紹介を終えたので、そのまま一年の方に振った。
「じゃあ一年生、改めてお願いしていい?」
「了解です! 魚海浜中出身の風上郁瀬です。これからよろしくお願いします」
「沖見ヶ丘中出身の早川朱俐です。ポジションはウィングでした。よろしくお願いします」
監督はあらかた終わったのを見届けて、話し始めた。
「私も改めて。顧問の弥生剛です。今年は、二年九組の担任と、教科は物理を教えてます。男バレの顧問は今年で四年目になるかな。俺も中高時代はバレー部でした。よろしく」
軽く会釈をして、それから話を続ける。
「今日から一年生も徐々に加わって行って、また環境が新しくなると思うけど、四月の大会はすぐだから、そこはブレることなく気を抜かないように。一分、一本、ラリーひとつでも考えてプレーすること。あと、今は先行入部だから経験者の子が来てくれたけど、仮入部が始まったら初心者の人も来るだろうから、二年生はきちんと面倒見ること。明日からは顔出せるようにします。以上」
「気をつけ、礼!」
「ありがとうございました!」
挨拶を終えると、監督は郁瀬と朱俐を呼び止めた。
「入学初日から参加してくれて、気合入ってるな。まあまだ確定ではないだろうけど、入部予定か?」
「はい!」
二人は威勢よく返事をした。監督は顔色を変えずに落ち着いた口調で続ける。
「さっきもちらっと言ったけど、本入部してすぐに春の県大会の予選会がある。インターハイ予選のシード決めの大会だ。一年生はおそらくこの大会には間に合わないだろうけど、六月のインターハイ予選には学年関係なく見ていくつもりだ」
つまり、四月の大会を終えてから六月までには、もうポジション争いが始まっているということ。郁瀬と朱俐は、いよいよ高校バレー生活が現実味を帯びて、改めて、気を抜いている暇はないと実感した。
「例年、うちの学校はこのインターハイが三年生の最後の大会になる。でもさっきの通り、学年関係なくメンバーは選ぶつもりだから、一年生といって甘んじてないように。二人は経験者だから尚更だ」
郁瀬と朱俐は横目でアイコンタクトした。監督には、見抜かれている。ただの経験者ではなく、粒ぞろいの上級生と渡り合える素質があることも、何かを抱えていることも。
「何をそんな。県南地区の中高合同交流会で二人のことなら見た。実力は県随一なのに名は知れていない隠れた天才、沖見ヶ丘の早川朱俐。選抜も推薦も全部断ったなんて、教師の間で話題になってたな。そんでこっちは、浜中の異端児、風上郁瀬」
「異端児?」
朱俐は郁瀬のことをまだ詳しく知らなかったので、そんな呼び名で呼ばれていたことに驚いた。それから先ほどの寛斗とのやりとりを思い出した。もしかすると......。一方の郁瀬は痛いところを突かれたと苦笑いをした。
「まあ、色々あったんだよ......」
「二人とも良いスパイカーだったのは覚えてるさ。だからこそ、一年生だからとか構わずに頑張ってもらいたい」
監督はまっすぐな目で二人を見つめた。彼らの雰囲気はあの頃とはまた深みが違って見えた。
一年前の三月。県南地区のバレー連盟から連絡が入り、今年初めて、県南地区の中学と高校が合同で交流試合をする「県南地区中高合同交流会」を開催することが決まった。
開催当日、たくさんの人混みの中、市立中央のバレー部を任されてから二年が過ぎようとしていた弥生も参加校のひとつとして会場にいた。その日は、中学生から地区大会優勝校の星野済矢高校まで数多くの選手が集まり、たくさんのプレーが見られる絶好の機会だった。前任校までは副顧問しか経験がなく、なかなか監督を任せてもらえなかった弥生は、やっと市立中央で監督を任され、そしてそれから二年の時を経て、チームの軌道が安定してきた。チームの基盤づくりの次にやるべきことは、そのチームを未来へ繋ぐこと。弥生はこの機会に何かを得ようと期待して臨んだ。
「今回は、主催から招待までしていただき、ありがとうございました」
弥生は、アップをしている選手達を眺めていた主催者の済矢高校の顧問、太田監督に軽く挨拶した。
「やはり済矢のチーム力は安定してますね」
太田監督はふっと笑みを浮かべた。しかし、瞳の奥は鋭く光っていた。
「それでも、完璧とは言えない。今日集まった学校の中で、一番高い成績を持っているからと言って、一番完璧なチームというわけではない。我々だって中学生相手だろうと学ぶべきものはあるさ」
ちょうど済矢高校の選手たちは高校生と中学生がペアになって練習を始めていた。
「弥生さんもよくここまで仕上げてきたね。無名だった市立中央だけど、侮れない存在になってきたなあ」
そう言って太田監督は大きく笑った。弥生はチームについて褒められた経験が初めてだった上に、尊敬すべき名将からの言葉で、感激した。
「いやあ、ほんとに部員の奴らのおかげです。あいつらが俺についてきてくれたから、ここまで来れました」
目の前のコートで、市立中央の選手達は対人などのアップをしていた。
「今日はいろんなことを吸収できるといいな。市立中央は新星なんだから、まだキャンバスは白いだろう? チーム力が安定してきて、キャンバスが準備できたなら、今度はそのキャンバスを色で染める。そして鮮やかな試合を作る。それがバレーの醍醐味だろう」
太田監督の言葉はどこか重みがあった。これから先、監督としてのキャリアを歩む上で、この言葉は一生ものかもしれない。数年前までの自分ではきっと出会えなかった。あの頃の、影にいた自分では。
「ここは色んな色で溢れてる。足りない色を吸収して補う。相手の得意を得て色を加え、深みを出す。そしてもうひとつ」
「未来に繋がる色を見つける……ですか?」
「ふふっ、わかってるようだな」
いつか戦ってみたい。初めは恐れ多く、高尚な存在として見ていたけれど、今は違う。太田監督の率いるチームと戦ってみたい、そんな気持ちが大きかった。弥生は表情は変えずとも、柄になく心を震わせた。
それからいくつかの試合を重ねた。事前の打ち合わせにより、この日、済矢高校と当たることはなかったが、色々な高校や中学校とセットをこなす中で、選手達は確実に得たものがあったように感じた。
最後の試合を勝利で終え、弥生は部員に各自ダウンに入るよう指示をして、本部に戻ってきた。本部側のコートの試合はまだ終わっていないようで、弥生はしばしその様子を見ることにした。ちょうど試合をしていたのは済矢高校と、中学バレーにおいて県大会でベスト8の実力を持つ、沖見ヶ丘中だった。
やはり、済矢高校は確実に強さを示していた。相手が中学生だろうと気を抜くことなく、自分たちのリズムで試合を運んでいる。
しかし、驚いたことに点差はそれほど開いてはいなかった。弥生は、少々不思議に思ったが、次のプレーですぐにそれを納得してしまった。
済矢が緩く返したボールを、確実にチャンスボールに変換し、セッターがジャンプトスでセットアップする。中学生としては、ここまででも十分誇れるものだが、そのトスに応えるスパイクこそが、このチームの強さそのものだった。
高校生の高さに負けじと、大きく力強く踏み込んで飛び上がり、ボールを捉える。そして、全身に溜めたエネルギーをボールの一点に込めて叩く。ブロックという鉄壁を破り、地に叩きつけられるまでの一刹那がなんとも美しかった。
「あいつ......でも、選抜とかで見たことないな。あのレベルなら選ばれてもおかしくないはずなのに......」
あんなスパイクを打てる中学生は、そう簡単にはいないだろう。しかし、その後に発表された県選抜にも、彼らしき選手の姿は見えず、いよいよ彼の存在が世に知られることはなかった。それでも、弥生の目に強く焼き付いた彼のスパイクは、忘れることはなかった。
しばらくして、先ほどの試合の決着が着いた。結局は、済矢高校が相手を二十点台に乗らせることなく試合を終えていた。
「それにしても、沖見ヶ丘の4番のスパイクは強かったですね」
本部席に戻ってきた太田監督は、それを聞いて思ったことがあるらしく、こちらをちらっと見上げた。
「......確かに、今の試合であいつのスパイクは目立ってた。だが、本当にそれだけが、我々を追い込んだ要因なんだろうか」
弥生は、その言葉を聞いて今の試合を思い返した。
試合を終えて本部席に戻ってきてからの間、自分は何を見ていたのだろう。済矢の安定した試合運びはもちろんだが、何より、沖見ヶ丘の4番のスパイクが頭から離れなかった。
すると太田監督は、体育館の隅で集合している沖見ヶ丘の選手の方を眺めながら、静かに呟いた。
「......あいつは、天才故に消してしまうのかもな。光が、影を生むように......」
弥生は太田監督の呟きをしばらく頭の中で反芻したが、とうとう答えは導き出せなかった。
一方、その奥のコートで行われていた河北高校対魚海浜中の試合は終盤に差し掛かっていた。弥生は今のやりとりで、チームの見方について考え直した。太田監督の言葉の意味が理解できなかったのは、指導者として力不足なのだろう。これでは、あの頃と何も変わっていない。どうにかして刺激を与えようと、まだ終わっていないその試合を、弥生は眺めていた。
河北高校は高いブロックが持ち味。その鉄壁は、済矢にも劣らないほどだ。そんな絶対的な防御に、高さではもちろん適うはずのない中学生が、違うアプローチで攻める。試合展開は、先ほどの済矢と沖見ヶ丘の試合に似ていた。しかし、弥生は試合を見ていて、何となく違和感を覚えた。先ほどの沖見ヶ丘中は、高い壁にチームが力を合わせて剣となり、立ち向かっていた感じだった。それに対して、目の前の浜中は、決定的なミスなどプレー面の実力の差こそ無いが、選手それぞれの空気感のような、内部的なものに隔たりを感じた。
それは、浜中の4番がスパイクを打つと同時に確信へと変わった。沖見ヶ丘中の4番のように、彼のスパイクに美しさを感じなかったからだ。力量ではさほど変わらないように見えるが、果たして彼の何が沖見ヶ丘の彼に劣るのだろうか。弥生は試合を見れば見るほどに、4番の彼に異質さを感じた。沖見ヶ丘の4番が光のような特異点であれば、浜中の4番は孤独な狼のような特異点だった。チームの輪に入ってないように見える。彼のスパイクはまるで孤独な獣の鳴き声のようだ。それは何故なのか。
その時、弥生は太田監督の言葉を思い出した。
「確かにスパイクは目立っていた。しかし、本当にそれだけか?」
空気感の隔たり、孤独なエース、美しさの差......。その瞬間、弥生の頭の中でそれらの点が全て線で繋がった。
「......バレーは六人だから」
弥生はあまりにも並外れたスパイクを目の当たりにして、逆にスパイクしか見えていなかった。スパイクはバレーの試合の中でも大切な攻撃の武器である。しかし、それだけじゃない。沖見ヶ丘のスパイクが美しく見えたのも、浜中のスパイクから空気感の隔たりを感じたのも、全て「繋がり」のせいだ。
「繋がり......ってなんだ?」
あいにく、今の弥生にはこの発見で精一杯だった。しかし、新たな目標ができた。これから先、市立中央のチームを作っていくのは選手自身。自分ができることは……。
「この答えを探して、導くこと」
そうすれば、もうあの頃の自分はいなくなるのかもしれない。正々堂々と監督として、コートの横に立てる日が来るかもしれない。あの人を敵として迎えながら。弥生の心に湧きあがった高揚感は、不安を晴らした。それから、太田監督のもとへ向かった。
太田監督は再びちらりとこちらに目線を向けたきり、何も言わなかった。ただ、弥生の目を見て、ふっと笑みを浮かべた。
「いつの日か、どこかで戦う時、その時見せてくれ。楽しみしてる」
太田監督はそれ以上は言わなかった。
影を生む光のエース、輪から外れた異端児、そして監督としてのあるべき姿。弥生はこの日、市立中央がこれからさらに進化していくための大きな糧を手に入れたと感じた。この日から、弥生には自信が宿った。選手達を支える上で自分が迷いを見せてはならない。冷静で安定したサポートを心がける。それすればいつか、うちのチームは見つけるだろう。あの答えを。
帰り際、沖見ヶ丘の4番とすれ違った。弥生に気づいた彼が、「ありがとうございました」と軽く挨拶を交わしたその短い刹那から、弥生は彼から少しの悲しみを感じた。
また、その先の柱の陰に一人の少年が座っていた。ユニフォームを見ると、浜中の4番であった。
「大丈夫か?」
しかし、弥生が声をかけた途端に、彼は顔を拭って立ち上がった。
「......大丈夫です。失礼します」
一瞬、目が合った時、彼の瞳は赤く充血していたように見えた。彼からは後悔を感じた。
県内でも有数のエースであろう二人は、互いにどこか檻に閉じ込められている気がした。
監督の問いに二人は声を揃えて言った。
「頑張ります。今日からお世話になります!」
威勢のいい、新鮮で活気に満ちた声だった。この場所で新たなスタートを踏み出したいという気持ちがひしひしと伝わってくる。
体育館中に響いた二人の宣言は、片付けの続きをしていた二年生や三年生にも聞こえていた。
「素材もいいし、やる気もあって、今年はいつにまして良い雰囲気じゃん」
「今年こそは、勝ちましょうね」
「そうだな、あいつらに負けてられないな。しかも、俺たちはあと三カ月しか残ってないんだから」
二人に倣って、部員たちは各々決意を固めた。
今の宣言を聞いて、弥生は少し安心した。あの時の彼らとは一味違うようだ。今度は、期待してもよさそうだ。彼らがこのチームをさらに高みへと押し上げる起爆剤になることを。
「......二人がどんな過去を歩んできたのかは知らないけど、今日からは市立中央の選手だ。その誇りを胸に頑張ってくれ」
「はいっ!」
郁瀬と朱俐は一礼して、部室へと戻るべく体育館を後にした。
外に出ると、空は夕焼けと夜の音が混じって、紫色に染め上がっていた。目の前で桜の花びらが風に吹かれて空に舞う。
「始まるぞ」
「ああ、始まるな」
郁瀬と朱俐は互いに顔を見合って、また空を見た。
春の大会まで二週間、そしてインターハイ予選まで残り三カ月を切った。