32.恩返しをするとき
この辺では珍しく、雪が降っている。でも、そんなものに関係なく裕太郎の心は冷えていた。ランドセルがいつもよりも重い気もする。浮かび上がる涙が外気で凍ってしまいそうだった。
「......はぁ」
いつから分からなくなったのだろう。人との距離感、考え、気持ち、あらゆる人間関係の構築が、気づいたら難しくなっていた。集団の中で、権力を握るものが現れ、それに付く者もいれば、目の敵になって浮く者もいる。社会のカーストと言われるものは三角形ではなく、つぼ型だ。裕太郎はいつの間にかそのつぼの底にいた。
「昨日の試合、めっちゃ良かったよな」
「俺、そいつらと最強のチームになるんだ」
「へぇ、南小の人と、かぁ......もしかしたら中学校同じになれるかもね」
声が聞こえただけなのに、体を翻して、自然とその声の主を避けていた。つい最近まで隣にいたはずのその声は、遠く手の届かないものになっていた。
小学生でいじめを経験してから、裕太郎は自分が何者なのか分からなくなっていた。せめて中学校では集団の輪に外れないように、必死で「都合のいい奴」を繕って、自分を殺した。だがやはり、自分を繕い続けることは心を徐々に痛めていた。
「......ずっと遠い所に行きたい」
進路調査票を片手に握り、中三になった裕太郎は夕日を眺めていると、自然と涙が溢れてきた。こうして校舎の窓から外を眺めていると、活気づくグラウンドと混じりあう掛け声たちが体に染み込む。晩秋の澄んだ空気が、裕太郎の心を少し感傷的な気分にさせた。その気持ちは次第に大きくなり、苦しくなった。鞄を取りに教室へ戻り、少々乱暴に帰り支度をした。教室には一人残っている人がいたけれど、今は誰とも干渉したくなく、気づいていないふりをして足早に教室を去った。
冬を越えて春がやってきた。同じ家の前の桜の木が一年前に見た時とはどこか違って見える。
もう過去に囚われないようにと、裕太郎は高校を越境することに決めた。地元の同級生が誰も着ていないブレザーを着て、電車に乗る。そして、めでたく祝われた門をくぐり抜け、これから同級生となる人たちが目に飛び込んできた。すると、心機一転したはずだった裕太郎の心は次第に暗転した。これまでの経験が蘇り、手が震える。自分は果たして変わることができるのだろうか。震える手を見つめて、裕太郎は悔しさを感じた。
入学して二週間が経ち、一年生も通常授業に入る頃。学業と同じくらいに重きが置かれる部活動の入部締切も迫っていた。裕太郎は人間関係のために何かしらには入ろうと思っていたが、ピンとくるものが無く、右往左往していた。その時、
「なぁ、部活決めた?」
話しかけてきたのは、同じクラスの寛斗だった。
「い......いや、まだ決められないんだー」
慣れない初対面の人とのタメ口の会話に神経を使い、会話の内容がいまいち入ってこなかった。
「じゃあさ、今日の放課後、俺についてきて!」
「う......うん......」
数秒後に、あっさりと許諾してしまったことの後悔がやってきた。そんな簡単に返事をしてしまったら、また自分を殺して生きていかなければいけない。でも、寛斗の自信満々な笑みにワクワクする自分がいたのも本当だった。
入学式で臆してから、コミュニケーションをとるための武器になる自己紹介もまともに覚えきれず、クラスの人について知らないことばかりだった。寛斗もそうである。彼がどこに自分を連れて行くのか、裕太郎には分からなかった。放課後、裕太郎はジャージに着替えて、寛斗に言われるがままについて行き、辿り着いたのは体育館であった。
「青葉君......ここって……」
寛斗はにこりと笑って重い金属製の扉を開けた。その扉の先が裕太郎の目に入った時、裕太郎は息を呑んで見つめた。もう二度と見るつもりはなかった景色を。
「どう?」
目の前では自主練だろうか、思い思い伸びやかにスパイクを打っている。裕太郎は、言葉を出すまでにしばらく時間がかかった。そして次の言葉に、裕太郎はトドメを刺された。
「一緒にバレーボールやろうよ、裕太郎」
その一言から始まった。本当に始まった。今度こそ始まった。この場所でなら、新しい自分を見出せる気がした。寛斗の言葉を信じてみてもいい気がした。裕太郎は少し目を潤わせながら、その誘いにめいっぱい頷いた。
あれから三年間、色々な経験をしてきたけれど、市立中央に来たことも、そしてバレーボールを再び始めたことにひとつも悔いなんてない。あの日の寛斗の言葉を信じて本当に良かったと心の底から思ってる。先輩からは希望を、後輩からは勇気を、そして寛斗たちには自信をもらった。今度は自分が、みんなにあげる番。自分を認めてくれた人たちに恩返しをするときだ。裕太郎はしっかりと朱俐の目を見た。朱俐はその視線で自分への不甲斐なさよりも強い信頼感を感じた。朱俐の抱く悔しさも全部、先輩が昇華してくれるとその目が言っている。コートに足を踏み入れて、みんなとハイタッチをした時、みんなとの試合がすごく久しぶりな気がした。
「裕太郎、足は大丈夫なのか?」
寛斗はそう言って心配そうにするので、裕太郎は「大丈夫」と大きく笑っていつものように雰囲気を和ませた。
裕太郎は自分の足と会話する。自分に残された時間も残りわずかだ。最後まで一緒に戦いきれないけど、その覚悟はできている。あとは、残された時間で自分ができる精一杯のことをやりきるだけ。悔いの無いように、中学までの自分のように自分に嘘をつかずに。
そして、裕太郎の眼差しはすっと相手へと向けられる。サーブの位置に移動した涼にもその視線は届いていた。
「涼......全力で来い」
裕太郎の目が涼に語り掛ける。涼は一つ深呼吸をして、ジャンプフローターサーブを打った。いつもよりもスピードが速い。
「オーケイ」
後衛の啓司がレシーブを構えたその時、無回転のサーブは軌道を大きく変えて、前衛へ落下した。スピードが速く、啓司が一歩踏み出すのが間に合わなそうである。相手に流れを与えてしまうサービスエースは痛恨である。啓司が滑り込もうと咄嗟に体勢を変えようとしたその瞬間だった。前の裕太郎が左側に移動して完璧なオーバーカットを見せた。この試合、レセプションにおける初めてのAカットに会場が湧き上がる。その時啓司が見たいつも穏やかで楽観的な裕太郎は、形相を変えて、見たことないくらいの気迫と真剣さを浮かべていた。言葉を交わさなくとも、表情、そして今のレシーブで選手たちは皆、全てを悟った。それに応えるように、祐飛がいつもよりもワンテンポ速くトスを上げる。それを読んだブロッカーはクイックと予想して飛ぶ。しかし、トスはそのブロッカーを横目にアウトサイドへと進んでいく。朔斗がギアを上げて踏み込み、一枚となったブロックの隙を狙って叩き込んだ。間もなくして、得点を告げる笛が鳴り、やっと取れた自力による得点に、コートの六人は声にならない喜びを噛み締めた。




