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葉月の奇跡 season 1  作者: 岩河尚輝
Ⅴ インハイ県予選開幕篇
22/53

19.いざ、その舞台へ

 郁瀬が会場に着いた頃には選手がちらほらいるだけで、周辺はまだ閑散としていた。少し早く着きすぎてしまったかと思ったが、場の雰囲気に馴染むためにもしばらくアリーナ周辺を散歩していることにした。


 郁瀬たち市立中央高校の最初の試合は第二試合なので、まだ試合までには時間がある。とはいっても、前回と違って今回の試合は選手としてユニフォームを着てアリーナに立つので、それなりの緊張はしていた。散歩しながら辺りを見渡すと、第一試合の学校がストレッチやランニングなどして体を起こしているのが目に入った。


 その時、前方からランニングしてきた総武学院の黄色のジャージを着た見覚えのある人物と目が合った。


「お前......」


「............」


 思えば、こいつの名前を郁瀬は知らない。しかしこいつに言われたことだけは鮮明に覚えていた。


「バレーの才能無いから」


 癒えていた傷が少し痛み出したが、何も言い返せなかった。彼は相変わらず無言でいる。郁瀬は何とか言葉を必死に探した。


「お、お前の言ったこと、間違ってるって証明してやるからな!」


「............」


 動じない彼に、ただ一方的に言葉をぶつけていたら、まるで郁瀬の方が敗者のように見えて、惨めだった。


「......なんか言えよ」


「......スパイカーに恐れは要らない。失せろ」


 捨て台詞のような言葉を残して、彼は去って行った。郁瀬はまた、何も言えなかった。なぜ言い返せないのか、それは分かっていた。郁瀬は手を握って悔しさを噛み締めた。


「郁瀬!」


 後ろから朱俐がやって来て郁瀬を呼んだ。朱俐は郁瀬の元から去る人物に目をやって記憶を辿り、今起きていたことを察して郁瀬の肩をポンと叩いた。


「......今日が俺たちの新しい一歩目だ」


 隣にいる朱俐が、その朱俐の言葉が郁瀬にとってどれほどの大きな支えであるか、郁瀬には計り知れなかった。でも、欠けている自分でも朱俐となら歩いて行ける、あいつに追いつけると、肩に置かれた手から伝わる思いが信頼を形作った。


 しばらくして、段々と市立中央の部員たちもそれ以外の選手たちも集まって来て、会場がざわざわし始めた。


 郁瀬は立ち上がってぐるりと辺りを見回すと、ユニフォームを着ている人、ストレッチをしている人、チーム内でコミュニケーションをとる人など様々いる。だが、その中には必ずどこかに緊張の糸が縫われていた。思えば、今日の大会で引退する人たちも少なくない。市立中央の三年生だって、一度でも負ければそこでおしまいだ。今日この場所は、まるでたった一本の吊り橋の上で、昇りゆく太陽が沈む頃には、無事に渡り終えて笑っていても、振り落とされて泣こうとも分からない。ただ、この場にいる誰もがこの吊り橋を死ぬ気で渡ろうとしていることは揺るぎないことだった。


 午前九時。アリーナの入口が開かれて、導かれるように今日の舞台へ招かれる。郁瀬たちも周りの空気と同じように今は口数も少なく、集中の刃をひたすらに研ぎ澄ましていた。


 それから三十分ほど経った。それぞれ選手たちは各々のユニフォームをまとい、コートに降り立つ。郁瀬たちもまたそれに続いた。


 アリーナの扉を開け、光が差し込んでくる。その光はどこか懐かしく、痛みもあって、そして暖かかった。白のユニフォームがその光に照らされて反射する。


「......!」


 郁瀬の目に映ったのは、しばらく忘れてしまっていた色だった。健介の方を見ると、彼の目もまた光を帯びていた。きっと同じ色が見えている。朱俐はどうだ、俊太郎は、そして先輩たちは。同じ甲冑を着た戦士の目を見た侍の一人は、自信の宿った笑みを浮かべて頷いた。


「ここから始まるんだ......!」


 午前九時四十分。東西南北各地域から選りすぐられた全五十六校の強豪たちが乱れなくアリーナに並んだ。


「ただいまより、第75回学校総合体育大会兼全国高校総合体育大会バレーボール競技大会、埼玉県予選会、男子の部を開催いたします」


 たった一つの切符をかけてぶつかり合う者たちの静かな闘志が最高潮を迎えた。


「選手宣誓。昨年度優勝校、総武学院高等学校主将、入間紫音」


 威勢よく返事した彼は、黄色いユニフォームを光らせながら堂々とした所作で前に出た。それから、選手宣誓が始まった。彼の声は静まるアリーナに轟き、その声の芯の太さはここまで磨き上げてきた彼らのチームの強さを体現しているかのようなものだった。


 選手宣誓が終わり、開会式は幕を閉じた。その瞬間にアリーナは一気に戦場へと様変わりする。先ほどまで静かに燃やしていた炎を吹きあがらせて吠えた。


 第二試合に初戦を控えた市立中央の選手たちは開放されたサブアリーナで調整に入っていった。結局、凛は姿を見せなかったので、ポジションは練習の通りで臨むことになった。寛斗は緊張を見せず、冷静で的確な指示を送ってチームを統べている。祐飛は寛斗をサポートしながらスパイク練習のトスを上げつつ、この瞬間も攻撃の組み立て方を練り続けていた。


「お......英成、今のいい感じじゃね?」


「うん、まぁまぁかな」


「英成はすぐに謙遜するからな......」


「............」


「どうした?」


 啓司は黙り込む英成の顔を見たが、英成は、「......いや、なんでもない」とだけ言ってスパイクに戻った。


 一方、朔斗は何度も動作を確認して緊張を落ち着かせていた。三年間エースとしてやってきた朔斗にとってスパイクの助走なんて調整するもんじゃないけれど、それでも今は余計なことは考えたくなかった。考えるとするならば、エースの意味、チームの羽になるということ。それだけを考えていたかった。裕太郎は変わらずに朗らかにクイックを打っている。空はセミ攻撃を調整していた。二人とも調子は上々であった。優斗と航生はそれらを拾いながらコミュニケーションを取っていた。


「緊張してるか?」


 朱俐はぼーっとしている郁瀬に声をかけた。郁瀬は朱俐に声をかけられて我に返ったようだった。


「うん、ほどほどには。やっぱりユニフォーム着ると感覚が変わるっていうか……」


 この前の大会は応援していただけなので、こうしてユニフォームを共に着るだけでも感じるものが違うことを郁瀬はひしひしと感じていた。


 その時、健介と俊太郎がサブアリーナにやって来て第一試合がまもなく終わることを告げた。この瞬間はいつも、「あと少し」「もう一本だけ」といった気持ちが尽きない。きっとまだ自分たちは頂の景色を知らないから、その先の答えを知るまで永遠の階段を上り続けたくなるのだろう。


「よし、行こうか」


 寛斗の声はいつもより震えていたが、それを彼は必死に隠した。主将たるもの怯えている訳にはいかない。これから始まるミスの許されない茨の世界で少しでも長く生き残る、そして答えを探すために。


 午前十時三十分。歓喜と悲哀の入り混じった叫びと共に長い笛が鳴った。手前のチームはハイタッチとガッツポーズを、奥のチームは涙を必死にこらえて互いを称え合っている。生きるか死ぬか、その世界はまさに目の前にあった。扉の前で待機した14人は戸を開けてその世界に一歩踏み入れる。その刹那、さっきまでの怯えは高揚感で打ち消され、震えなどは誰も持ち合わせていなかった。同時に反対側から黒いユニフォームのチームが入ってくる。それを牽制するかのように、白い戦士たちは雄叫びを上げて舞台に躍り出たのだった。






 公式練習を終えて、それぞれは汗を拭きながら給水した。六月も末だが、梅雨はまだ続いている。選手たちはマネージャーのバッジをつけた康介のもとに集まり、()()を確認している。目玉は、点が動くとローテーションをするバレーボールにとって大事な、スタートのポジションが記された紙のことだ。


「まずはこのローテーションで行く。様子を見て必要があれば交代もするからベンチも気を抜くなよ」


 まず最初のセットは、セッターに祐飛、ライトに啓司、ミドルブロッカーに裕太郎と英成、レフトに寛斗と朔斗、リベロは優斗と三年生のメンバーで臨む。


 ベンチスタートとなった郁瀬と朱俐は少し悔しさもあったが、今優先すべき感情はそれでは無いことは分かっていた。


「郁瀬」


 突然寛斗に呼ばれ、郁瀬は寛斗のもとに向かうと、寛斗は郁瀬の肩に手を置いて、アリーナの天井を見上げた。眩しいコートを、そして自分たちを照らしている。


「......いよいよだな」


 三年間のクライマックスを迎えようとしている者の言葉は確かな芯があった。寛斗はそれ以上何も言わずにしっかりと郁瀬の瞳を見た。その時の寛斗の目は、あの日の郁瀬が見た目と同じだった。何故、自分はあの瞬間に道が見えたのか。きっとそれはこの目を見たからだ。真っ直ぐなその眼差しは「ついてこい」、そう語りかけている。郁瀬はその目に応えたかった。そして力強く頷いた。


 英成と啓司は黙ってコートを見つめていた。


「......啓司」


 啓司が横を見ると、英成はそのままコートを見つめたままでいた。


「......俺とバレーボールしてくれて......ありがとう」


 不器用に発せられた、たった一言だったけれど、何故かその言葉は、普段感情を表にしない啓司の涙を不意に誘った。

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