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葉月の奇跡  作者: 岩河尚輝
1st set
2/27

1. Re スタート

 昨日までの雨が嘘のように、今日の朝は澄みきって晴れていた。鳥のさえずりとともにベッドから起き上がると、少し散ってしまった桜の木が窓の外に見える。時計は、アラームを設定した5分前を指していた。

「今日から......始まる」

 期待と不安が入り混じった気持ちを抱き、制服に腕を通す。郁瀬は、この感覚にどこか懐かしさを感じていた。静寂と共にエンドラインに並ぶ、あの瞬間。自分の鼓動が会場に鳴り響いているかのような、あの感覚だ。

 すると、少し開いていたドアから、飼っているシベリアンハスキーの「ウィル」が勢いよく尻尾を振って入ってきた。

「おはよう、ウィル」

 ウィルはいつにましてご機嫌のようだった。鼻息を荒くして飛びかかってきたので、勢いそのまま、郁瀬はベッドに倒れ込んだ。

「どうしたウィル、なんかいいことでもあったのか? ......ってちょっと、今日初めて着るのにこれじゃあ毛だらけだよ......まったく」

 ウィルがなぜこんなに機嫌がいいのか、郁瀬にも心当たりがあった。それは、ウィルにとの思い出でもあるから。

 ウィルはベッドから下りると、郁瀬の思った通り、部屋を歩き回って学校の荷物を発見し、()()()()を引きずってきた。

「わかってるよ、俺も待ちきれなかった。やっとだな、ウィル」

 そう言って郁瀬は陽気に尻尾を振るウィルを撫でた。

 身支度を終え、そろそろ家を出る時間。今までより早い時間、気慣れない制服、何もかもが初めての今日、手に持ったシューズだけは昔馴染みだった。

「忘れ物ない? 私は朋ちゃんと追いかけるから、先行ってていいよ」

「うん、そのつもり。そろそろ湊も来るし」

 母はキッチンから郁瀬を覗いて、身だしなみを軽く確認した。そして、シューズを見て、鏡に向かう郁瀬に尋ねた。

「部活、今日からなの? まだ一日目よ?」

 母が問うのも無理もない。制服やカバンは新品なのに、ひとつだけ使い古された荷物を持てば目立つはずだ。郁瀬はSNSのトーク画面を確認して答えた。

「体験入部は今日からなんだって。今年は例年よりも早く始めるんだってさ」

 ウィルも呼応するようにワウと元気よく吠えた。母は納得したようで、ウィルに朝ごはんをあげている。

「そう、じゃあ怪我には気を付けて、思いっきりやってきなさい」

「うん、もちろん。もう二度と後悔なんてしたくないから……」

 郁瀬はスマートフォンのカメラロールの()()写真を見つけた。揃いのユニフォームを着た集合写真。最後の大会で泣いている人もいれば、堪えて笑顔を作っている人もいる。しかし、郁瀬はそのどれでもなく、ただ一人、やりきれない表情を浮かべていた。郁瀬は心の奥に仕舞っていた過去を思い出し、浮き立つ気持ちは厚い雲に覆われてしまった。




 反対のホームがとても混んでいて恐ろしく思いながら下りの電車に乗り、川の傍の最寄り駅で降りた。それから、郁瀬と湊の二人は川沿いの道を歩いて学校に向かっていた。少し余裕をもって出発したので、あまり人は多くなかったが、新入生らしき人もちらほら見かけた。

 電車で数駅だけど、都会の喧騒から抜け出したような場所で、朝日を反射する水面と、鶯の鳴き声が春らしい。

 郁瀬と湊の地元は都心にそう遠くないので、高校進学を機に都会の学校に行く人が多い中、二人を揃って「忙しないのは苦手だから」とこちらを選んだのだった。もちろん郁瀬には、それとは別の理由もあったが。

 湊は、家から徒歩十分の中学時代からしたら桁違いに遠い道のりに、既にうんざりしているようだった。

「やっぱり歩き慣れねぇなぁ、ローファー」

「そうだね。でも湊は野球のスパイクとかで少し慣れてるでしょう?」

「そんなことないわ。俺は、部活とかガチになってやってなかったし」

 いつものように軽い口調で湊は言ったと思ったら、今度はニヤリとした。

「でも、身長盛ってくれるのはありがたいね。まあ、盛ったところでお前には負けんがな」

 ふざけた調子で言った湊は、大きく笑った。

 物心ついたときから、いつも隣には湊がいた。学校が同じと言えど、歳を重ねるにつれてそれぞれの道を歩んでいったはずなのに、気が付けば隣で歩いている。幼いころは喧嘩なんかもして、でも二人とも成長して......。知らない間に湊の方が身長も大きくなっていたけれど、隣から聞こえてくる笑い声はいつまでも変わらなかった。

「嫌味かよ......俺だって、湊よりちょっと小さいだけで、一般的に見たら低くないし」

 郁瀬は不貞腐れながらも、このやりとりにマイナスな気持ちは一切なかった。思い出してしまった心の雲も、湊のおかげで少し落ち着いたようだった。

 すると、後ろから誰かが走ってくる音がした。そう思った途端、郁瀬と湊の間に一人の女子高生が突っ込んできた。

「郁瀬! 湊! おはよう」

 ボブで二人よりも少し背の小さい彼女は、幼馴染の弓田莉奈だった。

「びっくりしたあ、なんだよ朝から」

「ははは、変わんねえな、莉奈」

「そんな久しぶりの再会みたいなこと言って、昨日もゴミ捨て場で会ったじゃん」

「いやいや、相変わらず元気だなってことだよ」

「私だって今日から女子高生なんだから、少しくらい変わらせてよね」

 郁瀬と湊と莉奈、近所の幼馴染の三人のやり取りはいつもこの調子で、これもまた変わらないものだった。郁瀬と湊が馬鹿をして、莉奈がお姉さんのようにフォローして、でも莉奈が弱ったときには二人が守った。

「それにしても、俺ら三人とも同じ高校ってすごいよな」

「湊めっちゃ勉強してたもんね」

 莉奈に一言付け加えられて、湊は決まりが悪そうな顔をした。



 部活も引退した秋の放課後、三年生の廊下は静かで、遠くから吹奏楽部の音や外部活の掛け声が聞こえてくる。

 郁瀬と湊は日直の仕事が残っていたので、居残りで学級日誌を記録していた。

「湊は高校どこにするの?」

「んー、具体的には考えてないな、ほどほどに勉強しては入れるとこにするかな」

「やっぱり、湊ならそう言うと思ってた」

 湊は腰かけていた机から下りて、郁瀬の方に振り返った。それから、少し恥ずかしそうにそっと聞いた。

「......郁瀬はどうするんだよ」

 湊の問いに郁瀬は間髪入れずに答えた。

「俺は市立中央。この前決めたんだ」

 湊は郁瀬が思ったよりもすぐに返答したので、ヒヤッとした冷たいものを体の中で感じた。その冷たいものが体を覆わなように慌てて言葉をつづけた。

「へえ、その学校になんか魅力でもあったのか? あ、部活の強豪校とか」

「いや、強豪校ってわけじゃないけど……」

 いつもの調子のよい言葉ではなく、どこか皮肉交じりのセリフで、「ダッサ」と湊は自分に向けて卑下した。

 すると、郁瀬は手を止めて湊の方を向いた。湊を見つめたまっすぐな瞳は、希望が確かに宿っていて、調子を狂わした湊には痛かった。

 その時、バッドがボールを撃ち返した音が響いた。

「......俺もそこにしようかな」

 湊はあまり深く考えずに、反射的に言った。なぜそう思ったのか、湊にもわからなかったが、まるで郁瀬に置いていかれないように、慌てて出した答えだった。

「本当?」

 郁瀬は目を丸くし、驚きを見せた。湊はバッグを背負って、少し強がって言った。

「......そ、そこってちょっと頭いいだろ。郁瀬には負けてられないからな」

「それじゃあ湊も一緒か! 心強いなあ」

 湊の感じた冷たさは、どうやら郁瀬にはバレていないようで、少しほっとした。慌てて取り繕った代償の冷や汗を拭って、湊はいつもの調子に戻り、学級日誌を職員室に返しに行った。




 しばらくして、三人は学校に到着した。校門前の立て看板で記念写真を撮り、校舎の中に入る。

 昇降口にはクラス分けが貼りだされており、登校してきた新入生で徐々に賑やかになっていた。

「俺は……五組だな、郁瀬は?」

「俺、八組だね」

「私は三組。さすがにみんなバラバラだったね」

 それから少々言葉を交わして、それぞれの教室に向かった。莉奈は三組なので階段で別れ、湊は教室の前まで一緒だった。

「んじゃ、俺はここだな。郁瀬はもう部活あるんだろ?」

「おう、もちろん!」

「じゃあ......帰りは別か。......また連絡するわ、じゃあな」

「うん」

 郁瀬は「じゃあな」と言われたとき、湊がほんの少し距離を置いているように感じた。けれど、今まで湊がそんなセンチメンタルな姿を見せたことはない。いつもお調子者の湊だ。だからきっと気のせいと思って、郁瀬は五組の教室を後にした。

 「一年八組......ここか」

 教室に入ると、数名の人がそれぞれの自席に座っていた。全くの初対面、やはり緊張感が教室には漂っていた。

 郁瀬は自席にリュックを置いて、周りに合わせて静かに座り、スマートフォンを見て時間をつぶしていた。

 カレンダーのアプリに記された「体験入部」の文字。郁瀬はそれを見て、ふつふつと煮えていた心を加速させた。これから三年間、どんなことが待ち受けているのだろう。どんな人と出会えるのだろう。どんな奇跡を紡げるのだろう。どんな景色を見ることができるのだろう。その人は、奇跡は、景色は、輝いているか。それとも。郁瀬は、あふれ出そうな感情でうずうずしてたまらなかった。

 入学式は何事もなく終わり、その後のホームルームも自己紹介などをして淡々と済んだ。

 放課後になった一年生のフロアは、それまで緊張が広がっていたのが嘘のように、一斉に騒がしくなり、廊下には様々な先輩たちの部活の勧誘の声が響く。

「テニス部どうですかー!」

「吹奏楽部いかがですかー?」

 郁瀬はそんな喧騒をかき分けて、一心にある場所へ向かった。右手にはシューズ、心には期待。期待のすぐ裏にある過去を見ている暇なんてない。また新しい物語が始まるのだから。

 郁瀬は覚えたての校舎を駆け抜け、別棟の体育館にたどり着いた。危機なじみのある靴の音。胸を打つようなボールをたたきつけた音が地に響き、足を伝って鼓動を高鳴らせる。

 重い扉を一心に開けて踏み入れた先に広がるのは、体育館の光が照らす九×十八メートルの長方形のコート。その輝く舞台で舞うように飛ぶ人も見える。

 扉の音に反応して先輩が数人こちらを見る。郁瀬はその中からとある人を見つけた。その人は郁瀬に気づくと、近づいてきて爽やかにほほ笑んだ。

「郁瀬、よく来たな。ようこそ、わがバレー部へ」

 郁瀬よりも一回り大きい彼は、いつになっても郁瀬にとって偉大な存在だった。郁瀬は満面の笑みで元気に返事をした。

「はい! 今日からよろしくお願いします、寛斗先輩!」

 開けている窓から春風が郁瀬の後ろ髪を揺らし、背中を押した。桜の花びらはその風に乗って数枚、体育館に入り込んだ。桜は散り始めている。春はもう始まっているのだ。

 体育館の奥でモップがけをしていた先輩が、ひとまず部室を案内すると言って郁瀬を呼んだので、それに従った。その先輩は自分よりも十センチくらい身長が低く、郁瀬の隣に立った時にはその差は明らかだった。

「お前、初日から気合入ってんな。まだ入学初日だろ?」

 少し勢いのある先輩の言葉で浮かれていた郁瀬はふと我に返り、照れて頭の後ろを搔いた。

「ははは......すみません、どうしてもバレーがしたくって」

「そうかそうか、要するにバレーが大好きってことだな。そんなやつ大歓迎だ」

 そう言って先輩は郁瀬の肩を大きく叩いた。口調といい、絡み方といい、少し圧の強い人だなと郁瀬は思ったが、その愛嬌のある笑顔を見る限り、不器用なだけで悪い人ではなさそうだ。ズボンのラインの色を見るに、一つ上の先輩のようだ。

「そういえば名前まだだったな。俺は中村航生。二年でポジションはリベロやってる。お前は?」

 郁瀬は決まりの悪そうに、少しうつむき加減で答えた。

「風上郁瀬っていいます。ポジションは……一応ウィングスパイカー」

「一応......?」

「はい......」

「......んー、まあいいか」

 先ほどまでハキハキとバレーを好きそうにしていたのに、ポジションの話になると突然自信が無いように航生は聞こえた。しかし、それ以上詮索はしなかった。

 部室は体育館を出てすぐそばにあるプレハブの二階の一角だった。

「そういえば、郁瀬は寛斗先輩と知り合いなのか?」

「はい、寛斗先輩とは中学校が同じで、その時からお世話になってました」

「同中......ってことは浜中か。浜中、俺たちの代までは強かったイメージだけど、一個下ってどうだったけな」

 郁瀬はふと航生から視線を逸らした。思い出したくもない、けれど忘れられない過去。浜中の強豪校のイメージが航生たちにないのも無理もない。自分たちの代で終わったのだから。

「......そんなにいい成績取れませんでしたー。後輩のいなかったので......」

 郁瀬はそう言って苦笑いをした。航生との空気は最悪だった。過去を捨てて、一から変わるためにここを選んだのに、初日からこんな調子では、何も変われないじゃないか。しかし、この空気を破ったのは航生だった。

「まあ、今日からは俺たちの仲間だし。好きなだけバレーやっていいからな」

 もしかしたら、航生は何の気なしに言った言葉だったのかもしれない。それでも、たったそれだけの言葉だけれど、郁瀬にとってはとても救われる一言だった。

「寛斗先輩は自分の憧れです。バレーはもちろん、人としても尊敬してます」

「だよなぁ、先輩がキャプテンだとほんとに頼れるっていうか、空気が締まるっていうか」

「俺、中三で部活引退した後、偶然会った寛斗先輩に相談乗ってもらって、それでここ来るって決めたんです」




 秋分も過ぎて、日は随分と短くなっていた。秋風になびいた稲穂は夕日と相まって金色に輝いていた。

 郁瀬は秋風に吹かれ、中学校のジャージのまま、一人バレーボールを持ってベンチに佇んでいた。

「俺が悪いのか......全部......」

 それまで無気力だった体に、熱いものがこみあげてきて、苦しくなった。やりきれない思いが行き場もなく心をさまよい、郁瀬の目から涙がこぼれた。

「......バレーボール、好きだったはずなのに......」

 初めてのバレーボーに出会った時、心の中は純粋に競技を愛する気持ちだけだったのに、あらゆる波にもまれて、それはいつしか消えてしまった。残ったのは未来の無い孤独だった。

「こんなんじゃ出会わなきゃよかった。バレーなんて......バレーなんて!」

 もうどうにでもなれと、郁瀬はあふれ出した感情のままに誰もいないはずの道に向かってボールを投げた。

 しかし、そのボールはきれいな弧を描いて郁瀬のもとに戻ってきた。ふと目を道の方にやると、稲穂を背に一人の青年が立っているのが見えた。郁瀬はよく目を凝らすと、その人が誰かわかって目を丸くした

「......寛斗......先輩?」

「なんとなく見たことあるなーと思ったら郁瀬か。久しぶりだな」

 そこにいたのは、部活で二歳年上の代の先輩、青葉寛斗だった。中学の現役時代は副部長で、三年生ながら入部したての郁瀬たちをよく気にかけてくれて、郁瀬の尊敬する先輩だった。そんな先輩に偶然再会し、郁瀬はしばしば状況を理解するのに時間を要した。

「......お、お久しぶりです、二年ちょっとぶりですかね」

 寛斗は高校の帰りがけだったのだろう、中学校とは違うブレザーを着ていた。図体も最後の学総(学校総合体育大会)の時から一回りほど大きくなったような印象だった。

「そうだな。どうした、道に向かってボール投げて。ボール投げの練習か?」

「......いや、違います......」

 寛斗がわざとふざけて空気を和ましてくれたのは郁瀬でも分かった。だが、そこから言葉が出てこなかった。そんな言い渋る姿を見て、寛斗は部活で何かあったのだと察しがついた。

「郁瀬、少し対人するか」

 寛斗はそれ以上言わずに、ブレザーを脱いで、ワイシャツの袖をまくった。それから軽く体をほぐして、郁瀬に向かった。郁瀬は先輩に言われるがまま、対人を始めた。

 その対人はしばらく沈黙のまま続いた。二人とも黙々とボールを拾っては繋ぎ、打ち込み、そしてまた拾う。それが途切れることはなかった。

 五分ほど続いて、ついに寛斗が口を開いた。

「郁瀬。今さ、バレー楽しくないでしょ」

 あまりにも率直な言葉に郁瀬は不意を突かれた。その言葉を頭の中で反芻して、ひとつの答えにたどり着く。

「はい......」

 その時、ついにレシーブを弾いてしまい、対人が途切れてしまった。すると、寛斗は郁瀬をまっすぐ見た。その瞳は先ほどのラフで優しい目ではなく、真剣なまなざしだった。

「これはどんなスポーツにも当てはまるかもしれないけどさ......最後に勝つチームって、技術でも高さでもスタミナでもない。自由に純粋にバレーを楽しんでいるチームなんだなって。きれいごとに聞こえると思うけど、俺は中学の最後の試合で痛感した」

 空には飛行機雲がかかっていた。寛斗は足元に転がっていたボールを拾って、空を見つめた。

「あの試合、実力も高さもほぼ互角で、勝てば関東大会の大一番、お互い気負けはしていなかった。それでも、二セット目から流れが狂って、それからはもうその流れを掴むことはできなかった。あの時は色々考えたけど、頭の片隅では薄々気づいてた。相手にあって、自分たちに欠けているもの」

 入部してすぐの二年前の試合だけれど、郁瀬はその試合を鮮明に覚えていた。

 あの試合、相手にはあって自分たちにはないものが確かにあった。それは、観客席から応援している、まだ未熟者の郁瀬でも分かった。

「俺たちは、ボールを落とすなとか、とにかく繋げとか、流れ取り戻すとか、そればかり考えていて、自然と余裕が無くなった。まるで誰かに追われているかのように、焦って、仲間すら見えていなかった。相手が二十点台に乗ったときに、俺たちはやっと気づいた。相手の二十点目、ボールが落ちた瞬間、ネット越しに見えたのは一点を嚙み締めている姿だった。それはたとえ点を落とした時であっても、その一回一回の刹那を彼らは楽しんでいた。はじめは互角だったはずなのに、ネットを挟んだ二者は全く違う世界だった。まるで光と影のように。結局、最後の一点も自分たちは何かに圧されたままで、相手はこの上なく喜んでいた。試合だけじゃない。バレーを愛しているのが伝わってきて、俺たちは愚かだったって思った」

 寛斗の答えに、郁瀬ははっと思わされた。はじめてボールに触れた時、初めての試合でエンドラインに立った時、初めてスパイクを決めた時、いつだって心にあったバレーへの愛。それが、いつしか郁瀬の心から奪われていた。

「忘れられやしなかったな、あの試合。二度と見失わないようにって」

 全てがどこかに消えてしまって、自分だけが取り残された世界にいた郁瀬に、寛斗がひとつの道を照らした。歩けど、歩かざれど、未来への岐路に立つことで道を見失った郁瀬にとって、どれだけの意味を持っていたか自分自身でも分かった。

「先輩!」

 郁瀬は一呼吸おいて言った。

「......先輩はバレー、好きですか」

 寛斗は率直な質問をぶつけられて一瞬拍子抜けしたが、考える間もなくその答えは導かれた。

「......もちろん。新しい仲間たちと一点決める度にそれを噛み締めてる。そして今、俺たちはそんなチームを作ってるんだ。キャプテンとして見失うわけにはいかないだろう? ......そうだ」

 太陽はすっかり沈んで、東の空から夜がやってきた。空気は少し冷えてきて、街灯がポツポツと灯り始めている。寛斗は郁瀬を正面に見て言った。

「郁瀬、良かったら俺たちのところでバレーやらないか?」

 あまりにも唐突だったので、郁瀬は拍子抜けした。

「きっと見失ってるんだろ? バレーの楽しさも、未来も、自分自身も。それなら、俺たちのチームで何か見つけられるかもしれない。......そんなチームにしたい。そして、俺も見つけたい。六年間をバレーボールに捧げた人生のゴールを」

 郁瀬は心が動き出す感覚を覚えた。体に反して、今にも走り出したい。飛びたい。そんな気持ちが久しぶりにあふれ出てきた。

 夜風は若干肌寒くも感じる。寛斗はスクールバッグから白に朱色のラインが入ったジャージを取り出して羽織った。

「……市立中央高校。来年の春、体育館で待ってる」

 風は一瞬強まり、木の葉を揺らすとともに郁瀬の背中を押した。まるで、再び未来へ歩みださせるかのように。




「……それじゃあ、先輩がずっと言ってた『来年は面白いのが来る』ってのは、郁瀬のことだったんだな」

 それを聞いて、郁瀬は頬を赤らめた。それは、先輩達に期待値高く認知されている恥ずかしさと、あの時からそのように思ってくれていたことへの嬉しさだった。

 案内された部室で制服から運動着に着替え、シューズを持って再び体育館に向かった。

「そういえば、今年はやけにやる気あるやつ多いんだよな」

「そうなんですか?」

 航生の言い方からして、他にも体験に来ている人がいるということだろうか。

「ああ、郁瀬より少し先に、もう一人一年来ててさ。今までは初日から仮入部やってるのサッカー部だけだったんだけど、俺たちも今年からやろうってなってさ。正直、そんなに都合よく集まらないだろうって思ってたんだけど、良い意味で予想を裏切ってきたっていうか……後輩を持つって、やっぱり嬉しいもんだな」

 航生は、言葉だけでなく本当に嬉しそうな顔をした。初めは少し怖い印象だったけれど、郁瀬は後輩思いの航生の一面を知った。

「……もう一人……」

 郁瀬は自分と同じようにバレーがしたい人がいると思ってワクワクしていた。その重い体育館の扉の向こうには、きっと中学の時とは違う世界が待っている。もう二度と後悔なんてしたくない。繋ぎ続けたい。

「確かそいつもウィングって言ってた気が……」

 その時、体育館から一人の先輩が出てきて二人に向かって叫んだ。

「航生たち! ランニング始めるぞ!」

「すまん! 今行く」

 二人は急かされるがまま、駆け足で階段を下りた。

「いよいよだな」

「はい、よろしくお願いします」

 そう、その重い扉の先にある世界。ここなら、同じ志の人と戦っていける。郁瀬は一度深呼吸をして、ドアノブに手をかけた。緊張と好奇心が入り混じって、鼓動が大きくなる。その心音が手を伝ってドアに響いているようだ。

 金属音とともに扉を開くと、目の前に座ってシューズの紐を締めている人がいた。郁瀬よりも背が高く、すらっとした彼はズボンのラインが一年生の学年カラーだった。どこかで見たことのあるようなシルエットで、郁瀬は思わず声をかけてしまった。

「ウィングの……」

 咄嗟に出た郁瀬の声に反応して、彼は郁瀬を見上げた。その顔を見て、郁瀬は点と点が繋がり、目を丸くした。

「もしかして……」

 しかし、彼は郁瀬に全く見覚えがないようで、視線が合ったまま、きょとんとしていた。


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