12.虫の知らせ
五月はいよいよ昼が長くなり、五時を回ったといえど太陽はやっと傾き始めたくらいだ。市立中央高校の体育館では、シューズの音が子気味よく響いていた。
「青葉、ちょっと一回集めて」
寛斗は練習を中断し、部員を弥生の周りに集めた。
「今週の土曜日と来週の日曜日の練習試合は伝えてある通りだが、再来週の土曜日に魚海高校と一日練習試合が決まった」
弥生の突然の朗報に部員は声を上げた。魚海高校といえば県内有数の強豪校。しかも今まで練習試合をしたことのない相手だった。
「それに加えて、その日は神葉西高校と総武学院、それから東京の神止上代高校と千葉の和野城高校も呼んでいるそうだ」
「上代と和野城……マジか」
「そこって強いところなの?」
「神止上代は去年の春高の東京代表、和野城は千葉代表だよ。どっちも全国トップクラスだ」
「そんなところとやるのか……」
実力も経験値も市立中央が一番下であることは確かだった。しかし、寛斗たちに不安の色はひとつもなかった。
「……俄然、燃えてきたな」
「インハイ予選の前哨戦と行きますか」
怖色ひとつ見せない選手たちの反応を見て、弥生は頷いた。
「たぶんその日が大会前の最後の練習試合になると思う。しっかり調整して、最後の大会に臨めるように詰めていくぞ。それと、ここからは一年生もAチームに入れていくから、そのつもりで。それじゃあ怪我に気をつけて練習再開」
別件で監督と話すために祐飛はその場に残り、他のメンバーは練習に戻る。郁瀬と朱俐は持っていたボールをカゴに戻し、顔を見合わせた。ついに、自分たちもあのコートに立つ。緊張と興奮と責任が一気に襲いかかり、武者震いした。その一方、朔斗の顔はいつになく陰っていた。
「…………総武学院……」
ぽつりと呟いた朔斗の小さな心の声は、近くにいた俊太郎以外には誰にも聞こえず、皆は各々練習を再開していた。俊太郎は朔斗の様子を気に止めたが、ただ静かに見守ることしかできなかった。
あれから三週間経ち、魚海高校での練習試合の日を迎えた。それまでの練習では弥生の宣言通り、Aチームに郁瀬や朱俐も時々参加するようになった。また、リベロも航生だけでなく、優斗に戻したりしながら様子を見た。
朱俐はすぐにAチームでも活躍し出した。持ち味のスパイクは、エースの朔斗にも匹敵するほどで、確実に市立中央にとってプラスの存在だった。一方の郁瀬は、まだ時々スパイクを打ちきれずにいた。以前よりはセッターとも合うようになり、何とか形は保っているものの、郁瀬の最大限の力は引き出せていない状況だった。また、健介や俊太郎はまだ試合には出ていないが、練習ではプレーの精度が着実に上がっていた。
練習試合の会場に市立中央の一行が到着すると、魚海高校のマネージャーが体育館まで案内してくれた。そのマネージャーについて行くと、入口に一列に並んだ魚海高校の部員が出迎えた。
「今日一日よろしくお願いします。気をつけ礼!」
「しゃーす!」
声の揃った圧巻の挨拶は、魚海高校の由緒正しき礼儀と伝統の校風だけでなく、どんな相手も圧倒するという威圧にも感じられる。初めてのチームとの顔合わせは、熱気と緊張が入り交じっていた。奥には他の参加校が既にユニフォームに着替えてアップをしている。その場にいる選手の誰もが目に真っ直ぐな光を帯びていて、郁瀬はこの人たちとバレーができることにワクワクした。
「すげぇ、なんか体育館入った途端に空気違ったよな」
「今日来てるのはどこもトップレベルだ。この先勝ち上がるためにはきっと倒さなきゃならない相手だよ」
一番奥のコートでは、黄色のユニフォームを着たチームが早速スパイクを打っていた。
「うわ、あの黄色いチーム。すげぇ打つじゃん……」
「あそこが、総武学院。埼玉でも一二を争う強豪だよ。それから、オレンジ色のチームが神葉西、それと緑の和野城、水色のとこが神止上代だな」
神葉西は、円の形になってストレッチをしている。和野城と神止上代はつい先程到着したようで、まだ準備をしている最中のようだった。
「総武学院……」
俊太郎は朔斗を気にしたが、本人は口数少なくして控え室に向かって行った。
「それにしても、なんで突然格下の俺たちと試合組んでくれたんですかね。しかもこんな大事な時期に」
「なんか元々星野済矢を呼ぶ予定だったけど、都合悪くてそれで済矢の監督が代わりにうちを推薦してくれたらしいよ」
「なんだよ、済矢の後釜かぁ」
「まぁでも済矢の監督が俺たちを推薦してくれたってことは、戦える実力だって認めてくれたってことじゃん?」
「そうそう。それに二週間後には倒さなきゃいけない相手だし」
「今日は絶好の機会だ。格上だろうと、自分たちのバレーをぶつけてくぞ」
市立中央も白のユニフォームを身にまとい、コートにおりた。もちろん一年生も一緒である。四月の大会では観客席から眺めていた人たちと同じ土俵に立っている。一年生にとってこの瞬間は強く胸に刻まれることになった。
市立中央もスパイクまでのアップを終え、サーブの調整に移った。向かい合って打っているのは、初戦の相手、総武学院。私立の総武学院高校は、県内の中学校から選りすぐりの選手を集めた粒ぞろいのチーム。昨年の春高では埼玉代表としてベスト8まで勝ち上がった実力者だ。
「郁瀬、今日のスパイク調子いいじゃん」
祐飛は綾瀬の傍に寄り、コミュニケーションをとる。祐飛はこうしてスパイカーと意思疎通をすることで、その日その日のスパイカーの活かし方を考えていた。
「でもまだ怖いっていうか……調子が良いって思うと逆に体が強張って。頭ではわかってるんですけど……」
「そっか。でも確実に郁瀬のスパイクは成長してるよ。それは自信持っていいと思うよ」
「......はい、ありがとうございます」
(とても貴重な機会が与えられた今日、監督はきっと一年生も試合に出すだろう。朱俐はもちろん、郁瀬もスパイカーとして出すはずだ。今の郁瀬はオープントスで確実に自信をつけさせるのが妥当か)
祐飛は試合の組み立て方の解を出し、それから郁瀬の肩にポンと手を置いた。
「何も、百点じゃなくていいんだよ。どんなに格好悪くても、徐々に積み上げていけばいい。だって郁瀬はまだ三年あるんだから」
郁瀬は会場に入った時のワクワクと同時に、自分の弱さゆえにスパイクが打ちきれずにいることにも、もどかしさを感じていた。あの日、健介に感化されて覚悟を決めたはずなのに、まだ応えられていないことが、Aチームに参加するようになって余計に心の中で目立つようになってきた。さらに今の祐飛の言葉で心がかき乱された。励ましとして標を灯してくれた一方で、三年生にはもう残された時間が無いということを、郁瀬は感じてしまった。
「......頑張ります。早く活躍できるように」
郁瀬は手をぎゅっと握りしめた。寛斗と朱俐はそれぞれのサーブの調整をしながら、そんな郁瀬の様子を静かに見守っていた。
笛の合図で両者のボルテージは一気に高まる。少しモヤモヤしていた郁瀬も会場の空気に飲まれるようにして士気を高めた。
一方の朔斗は、一人、離れたところで給水をしていた。いつもなら明るい獅子のようにチームを鼓舞する朔斗だが、今日は少し大人しく、どこか緊張感が漂っていた。
「朔斗先輩、今日なんか様子おかしくない?」
心配で仕方がなかった俊太郎は、ひとまず誰かに共有しようと、近くにいた朱俐に声をかけた。
「格上の相手で燃えてるんじゃないか?」
朱俐は一度朔斗の方を見たが、特段気にする様子もなく、救急箱からテーピングを取り出し、手に巻き始めた。
「あー......さすが、うちのエースって感じだね」
自分よりも経験値の高い朱俐が気にしていないのなら、自分の気のせいかもしれないと、俊太郎は納得しきれていない気持ちを隠して、練習に戻った。