11.その舞台の景色は
桜が散ると、春はあっという間に過ぎ去ってしまった。五月というのに気温は30℃近くまで上がり、そろそろ蝉が鳴き始めてもおかしくないくらいの気候だった。
「......かみ......風上!」
「はっ」
「はっ、じゃないよ。じゃあ風上、続き読みなさい」
「えっと……えーっと......今どこですか」
寝ぼけた郁瀬に笑いが起こった。寝てるやつは他にもいるのに......。郁瀬は少し不満げに板書を再開した。
授業が終わり、昼休みになった。この頃にはコミュニティがある程度形成され、郁瀬は掃除当番で一緒だった黒沼と及川、そして自販機で会った晴と弁当を持ち寄って集まった。
「いやー郁瀬、授業は寝ちゃダメだろー」
「お前だって寝てたくせに」
「いや、今回は俺、起きてたし」
そう言って黒沼は板書を取ったノートを自慢げに見せびらかした。そんな、どんぐりの背比べに呆れた晴はあっさりと話の裏を明かした。
「さっき及川にノート見せてもらってたけどね」
「おい晴、余計なこと言うなって」
一時、勝ち誇った黒沼は、真相を暴かれ小さくなった。その様子があまりにも滑稽で、三人はしばし笑いに冒された。
「そういえば晴の絵、昇降口のとこの廊下に飾られてたぞ」
「あっそれ、俺も朝見たわ」
「あー、この前の部活の課題のやつかも」
「なんかすげぇってことは伝わった」
郁瀬は、きっと黒沼には芸術作品を見たところで何も伝わっていないんだろうなと諦観しながら、話題を振った。
「黒沼もユニフォーム貰ったんだってね。湊から聞いたよ」
「俺さあ、野球なんて遊びでやったことしかないし、調べてみたら高校から始める人ってそんなに居ないらしいし。ミスったかなあ」
「そんなことないだろ、俺テニスコートから見てたけど結構頑張ってたじゃん」
「だってなんもわかんないから、とりあえずやるしかねえだろ......その湊に口車に乗せられてこんなことに......ああ幸先不安だわ......」
黒沼は野球部に、及川はテニス部に入った理由はお互い勧誘に負けたから。及川は小学生の時に少しテニスクラブの経験があったからまだ良いが、黒沼は完全な初心者で、暇そうにしているのを発見して捕まえたと湊から聞いていた。それを知って、きっと健介や俊太郎と同じ気持ちなんだろうなと郁瀬は思った。
「自分はみんな凄いなって思うけどね。運動部ってなんか憧れるわ」
「それなら助っ人とかやれば? 野球部は万年人不足だし!」
「助っ人かぁ......」
晴は及川の提案に何か思い当たる節があるらしく、虚空を見つめた。
「そういえば、郁瀬はインターハイの県予選いつなの?」
「んー、六月の後半とかかな」
「へえ、あと一ヶ月くらいか。俺空いてたら応援行くよ」
及川は炒飯をたいらげて弁当箱を閉じながら言った。黒沼もスマホを見て口をモゴモゴさせながらカレンダーを確認した。
「俺も野球部オフだったら行くわ。晴もどうせ暇だろ? 一緒に行こうぜ」
「いつも暇ってわけじゃないけど、まあでも空いてれば行こうかな」
みんなに応援されていることをあらためて実感した郁瀬は、残りのサンドウィッチを口に詰め込んで弁当箱をしまった。
「お、今日も行くのか。毎日お疲れさまだね」
「俺も今度こそ試合出たいからね。んじゃ行ってくる!」
郁瀬は颯爽と去って行った。そんな郁瀬を目で追った三人は顔を見合わせた。
「......あいつ、シューズ要らねえのかな......」
食堂の前でシューズを教室に置いてきたことに気づいた郁瀬は時間をロスしたためにダッシュで体育館に向かっていた。
「......はぁはぁ、なんだよあいつら、言ってくれればよかったのに......」
体育館に到着すると、既に健介と俊太郎が準備していた。朱俐はさっき廊下ですれ違い、今日は用があるらしく昼練は休むと言っていた。
春の大会が終わって、一年生も少しずつ先のことを意識し始めていた。いつまでも新入生ではいられない。早くコートに立てるようにと思う気持ちがやる気を滾らせた。
それと、郁瀬の心の中には悔しさもあった。明聖学園に勝利し、切符の最後の一枚を手に進出した県大会は、くじ運が悪く、初戦で強豪の神葉西高校と当たった。実力も経験値も格上の相手であったが、それでも寛斗たちは果敢に挑んだ。しかし、高いレシーブ力に及ばず、ストレート負けを喫した。試合に出た人はもちろん、一年生もただ見ることしかできない無力さに悔しさを覚え、その傷が次の原動力を生み出していた。
「一列でもやる?」
「お、ぜひ。郁瀬先生よろしくお願いします」
昼休みはあまり時間がないうえに、バスケ部なども体育館を共有するためネットは立てられない。そのためネット無しでできる練習をしなければならないが、それでもボールを触れるというのはそれだけで、触らないでいるより少し違うと言われている。
郁瀬はその考えに納得していた。あの時、どれほどバレー部に裏切られ、バレーボールというものを恨みたくなっても恨めなかったのは、自然とボールに触れていたのは、そういうことなのかもしれない。些細なことが積み重なることで何かになれるなら、その道が険しくても、確実な益に繋がらなくても、その道にいる自分はきっとかっこよく思えると、体が勝手に信じていたのだろう。
「いいじゃん、健介も俊太郎も断然上手くなってるよ!」
「ありがとう。俺、姉ちゃんに色々コツを聞いてみたんだ」
初心者にとってバレーボールの最初の壁は、ボールに慣れることである。もちろん、最初はボールが向かってくる恐怖を克服し、そのボールを全身で受ける。突き指や内出血などの痛みもある。その恐怖と痛みを乗り越えなければ、コートに立つことはできないが、この2ヶ月で健介も俊太郎もあっという間にボールに慣れていた。初めは人見知りだった健介は、少しその性も残しているけれど、徐々に皆と馴染み、プレー面でも、元バスケ部ゆえの手首の柔らかさを生かしたトスを磨いていた。俊太郎は朱俐にも劣らない高い身長を生かし、ブロックの練習にも専念しているようだった。
「それじゃあ、行くよ」
郁瀬のアタックやフェイントにそれぞれ的確に対応しながら、昼休みの残りの時間の十五分ほどを、三人は自己成長に投資した。
「ねぇ、郁瀬」
予鈴が鳴って俊太郎は移動教室なので先に戻り、郁瀬と健介はボールを仕舞いに部室へ向かっていた。珍しく今回は、健介から話題を振ってきた。
「......コートに立つと、周りってどう見えるんだろう......」
「どう見える……?」
「俺、仮入部の時のチーム練習も、春の大会も見てて感動した。結果とかは関係なしに、先輩たちは、一人だけが強いんじゃなくて、みんなで繋いで、戦ってた」
健介はいつになく自分の胸の内を明かした。いつも自分の気持ちを明かしたりしない健介のそんな姿に、郁瀬はこの問いの真剣さを感じた。
「でも緊張だってするだろうし、ミスしたら全体のミスになる。そんな大きな責任も背負いながら飛び続ける舞台、それってどんな景色なんだろうって思って......」
歩きながら健介が手を強く握りしめているのが目に入った。健介の過去に何があったのか、バスケじゃなくてバレーを選んだ理由もまだ何も知らない。けど、きっと健介は今、不安になっているのかもしれない。心を動かし圧倒された目の前の景色が、他人事ではなく、これから先、自分たちで創り上げていくものだということ。夢が現実であると知って、そのあまりにも大きすぎる世界に不安を感じているのかもしれない。かつて郁瀬はその世界を知ってワクワクした。そしてそれが現実となった時に絶望もした。バレーボールというものは郁瀬の前にあらゆる色で現れた。
「......健介は、コートの外から見て、どう見えた?」
質問を質問で返された健介は呆然とした。それから、この一ヶ月ほどに自身で見た景色を思い返す。初めて見たチーム練習のプレーの数々、春季大会南部地区予選の四つのコート、宮平や神葉西に負けた悔しい表情、敗者復活戦で全員でバレーをしていた先輩たちの後ろ姿、県大会出場を決めた時の喜び......。たった一ヶ月なのに、健介の頭の中にはそのコートを舞台に描かれた様々な絵が溢れ浮かんできた。そしてそれらの絵を重ねた時に見えたコートは……。
「......えっと……眩しかった......かな」
校舎の陰から覗いた太陽が、郁瀬の顔を照らす。その顔は薄ら優しい笑みを浮かべていた。
「そっか。それなら健介はきっと大丈夫だ」
「えっ......?」
郁瀬は健介の肩に手を置いて、ぽんぽんと叩いた。
「光って見えたなら、きっとその先の道は希望しかないから」
健介は正直、怯えているようでは、まだまだだと言われると思っていた。健介にとって、あの光る舞台はそういう場所で、戦場のような場所。苦しいことも逃げたしたくなることも多々あるであろうそんな場所の光はただの幻想、厳しい戦いの表面上に見える理想だと思っていた。そんな光を信じていいのか――呆気にとられた健介は、しばらくして笑い出した。
「よくわからないけど、なんか少しだけ自信持てたよ」
郁瀬も笑みを浮かべ、胸の内の何かが熱く燃えだしたのを感じた。きっと今の自分たちにはいくらでも道がある。あの時の景色は真っ暗だったけど、健介が光って見えているなら......。
「......俺さ、郁瀬」
健介はまっすぐ郁瀬を見て、意を決して宣言した。
「......スパイカーを支えられる、セッターになりたい。まだまだ全然だけど……いつか郁瀬や朱俐が思う存分スパイクが打てるようなトスをあげたい......!」
健介は本気だ。瞳が、言葉が、先ほどの不安を他所に、強く定まっている。
「見よう、俺たちが築く舞台の景色。自分たちの目でな」
もう二度と後悔はしたくないから、自分に嘘はつきたくない。それに今度は仲間がいる。しかもその眼差しはとても頼りがいのあるものだった。健介が本気でトスをくれるなら、それに応えるスパイクを打つんだ。自分も過去の自分を克服しなければ。いつまでもスパイクを怖がってはいられない。
郁瀬は拳を健介に向けた。健介は大袈裟だといって照れくさそうにしながら、拳を合わせた。