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9 今日から、お姉ちゃんになります


「……決めたんだ。俺、姉ちゃんになるよ」


腰に両手を当て宣言する弥隼のまっすぐで透き通った声が、ダイニングの窓を突き抜ける。オレンジ色の明かりが灯るキッチンにはカレーの鍋が中火で煮えていて、窓の向こうでは夜風に揺れるススキが爽やかな音色を奏でていた。


「ほぇ? ねーちゃん……?」

予想外の単語に困惑する朔矢の顔。アーモンドチョコのような瞳孔をぱちっと開かせた彼は、乳歯が抜けたばかりの口内をぱかぱかと開閉させながら、そう言った。


「うん、姉ちゃんだ」

弥隼はぶかぶかのジャージの袖をぎゅっとまくりながら、カレーの具が沸々と踊る鍋をレードルでかき回す。


そんな弥隼を見て朔矢は首を傾げ、乾いた唇の上に人差し指を乗せながら唸る。


「ふーぬ……? そーやって呼んで欲しいなら、そーするけどさぁ……」


どこか奥歯に物が挟まったような物言いの朔矢。弥隼は相槌を打ちながら黙って彼を見つめる。


「でも、実際のとこなにが違うん? にーちゃんとねーちゃんって。性別が変わっただけで、中身は同じでしょ?」


横からジャージの袖をゆるく引っ張られた弥隼は、不思議な目で朔矢を見る。


「へ? 全然違うだろ? いいか、朔矢にはわからんかもしれないけど、兄ちゃんと姉ちゃんにはな、父さんと母さんくらいの差があるんだ」


朔矢はぽかんとした顔で「ほぇ~?」と気の抜けたメロディを鳴らす。

「よくわからないや」


どうやら、会話が平行線になってしまっているようだ。というのも、朔矢は兄と姉の違いがよくわかっていないらしい。その役割を変更することは弥隼にとっては人生の大きな転換点で、生まれ変わりと同然とさえ思っているのだが。


「いいか朔矢。例えばだけど、もし俺が朔矢と一緒に出かけて朔矢が怪我したとするだろ。そこで今までの、兄ちゃんとしての俺だったら何もしてやれなかった。でも姉ちゃんとしての俺は常にハンカチと絆創膏を持ち歩いてるから、切り傷だって簡単に治してやれるんだ」


なぜか自慢げにそう言う弥隼の隣に椅子を置き、朔矢は腰掛けた。


「よくわからんけど、つまりねーちゃんは優しくなりたいんだね。いーことだ」


「優しくなりたいというか……そうなんだけど、面倒見がよくなりたいというか、そういう感じだ」


「ふぅん」朔矢は分かったような分かっていないような声色で相槌をうつ。


「なぁ朔矢、だから姉ちゃんに甘えていいんだぞ?」


弥隼は頬をうっすらと桜色に染め、椅子に腰かけている自分の膝元をぽんぽんと叩く。


朔矢が小さい時からずっと母さんたちは働いていたので、朔矢は人並みに甘えることを許されていなかった。だからこそ自分が彼を暖かく包み込んでやれる存在に、姉になってやりたかった。

それこそが、今の状況に置かれた自分が得るべき“個性”だと思ったのだ。


ただ、そんな弥隼の提案を冗談だと思ったのか、朔矢は苦笑いをして立ち上がる。

「えー? もう、変なこと言わないでよ。それより、もうカレーにルーいれていいんじゃない?」


朔矢はそのまま鍋を覗き込むと、コンロの火を消す。


(はっ……引かれたか……?)

少し調子に乗りすぎたというか、場の空気に流されて変なことを言ってしまったかもしれない。弥隼は顔を一層赤くして下唇をかむ。少しずつお姉ちゃんらしくなっていけばいいんだ。そしたらきっと、ちゃんとした人間に近づいて行ける気がする。


「あっははは……そうだな」


「にーちゃん、無理しなくていいんだよ。まだ学校も一日目なんだから。あ、ねーちゃんだった」


「もう辛いこともないから大丈夫なんだけどな」


「そう言って、ねーちゃんって辛いこととかあんまり主張しないじゃん?悲しいときは相談してくれていいんだよ」


「気、遣わせてごめんな……」


「またそれ。もうちょっとワガママにしてりゃいーのに」


鍋の中にカレールーをぽとぽと落とす朔矢を横目に、弥隼は大きな平皿をひとつと、その三分の二ほどの面積の皿をひとつ取り出す。


(あと必要なのは……しゃもじか。でも、なにか忘れているような気が……)

「あっ」


弥隼は皿を置き、足を止める。炊飯器の電源が着いていないのだ。要するに、米を炊き忘れた、ということだ。これは明らかに自分のミス。それに気付いて心の中がまっしろになっていく。『カレー作って』と言われたのだから米を炊くまでがセットに決まっているじゃないか。

何をやっているんだ、俺は。こんな頼りなくちゃ姉になれない。


「あはは。もしかしてメシ炊き忘れちゃった?」


弥隼の唇が、青痣色に染まっていた。歯をぎちぎちと食いしばって小刻みに震える彼の肩をぽんと叩き、朔矢は笑いかける。


「そのっ……マジでごめん……」


なんて頼りない姉なのだろう。朔矢も笑ってくれているけど、心の中では残念に思っているに違いない。その証拠か、朔矢のお腹がぎゅるると鳴る音が聞こえた。


「すまん朔矢っ……おなかすいてるのに」


「もー、謝っても仕方ないよ。ごはんないならカレーうどんにしよっか?」


朔矢はそう言って、冷凍庫からうどんの袋を取り出す。


「ライスは明日の朝までおあずけだね」


自分の不甲斐なさを包む弟の機転が、無性に温かくて、たまらない。自分の無能さに打ちひしがれるのも悪くないけれど、今は彼の優しさに甘えておくことにした。


ほんと、どっちが年下なんだか。



木製の机の上にぽん置かれたふたつのどんぶり。キレ味の鋭いスッキリしたスパイスの香りに、どこか安心する温かい野菜の匂いが鼻孔と戯れ、食欲を増進させる。


「それじゃ、いただきます」

「……いただきます」


おいしい。自分の料理がおいしいのではなく、カレールーがおいしいから、おいしい。そんな味だ。柔らかくなるまで煮込んだうどんは吸い込まれるように胃に収まっていき、温かい息がぽこんと吐かれる。ごろごろとルーの中に転がっている鶏肉は茹ですぎたのか少し硬くなっていて、自分の料理のぎこちなさを感じさせた。


「ねーちゃん、今日は一日おつかれ」


「うん。風呂は俺が洗っとくから、休んでな」


バラエティ番組の賑やかな空気を摂取しながら、グラスに注いだ緑茶を飲み干す。慌ただしさにまみれた一日が、ようやく安らかに感じられた。


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