31 私にできること
吉田が性転換手術についての暴露をした翌日のこと。弥隼はどこか吉田に触れづらい空気を感じながらも、意を決して話しかけた。
「な、なぁ。吉田って、男が好きなのか?」
そう言った瞬間、吉田はシャーペンを持っていた手を止め、困惑したような表情で見つめてきた。
「へ?柚月、急に何言ってるの……僕のこと、そういう風に見てるの……?」
「い、いや。そういうやつじゃなくって!」弥隼は勢いよく手を振る。
「お前が女になりたいのにはそういう理由があんのかなって……ちょこっと思っただけだよ!」
なんとか言い切ったが、こんなことは聞くべきではなかったか?ほんのりとそんな後悔が残ったが、吉田は少し考える素振りを見せてから答えた。
「えー、わかんないや。僕、誰かを好きになったことなんてないし」
そのぼんやりとした答えに、弥隼は少しだけ安心したように息をつく。「……そ、そっか」
「まーそもそも、今の僕って全然モテないから恋愛には無縁だけどね。でも、女の子になったらきっと僕でもモテるんじゃないかな?その時は誰かを好きになったりするかもね」
吉田は軽い調子で言ったが、弥隼はそれを聞いて表情を曇らせていく。
「……柚月、どーしたの?僕、なんか変なこと言った?」
「……いや、その、男のままでも案外、お前のことを好きな人がいるかもしれないぞ?」
「そっかな?……でも、やっぱり僕は女の子として生きたいかな」
「……そうか」弥隼は視線を落として、それ以上は何も答えなかった。自分がどうするべきなのか、全くわからなかった。
***
その日、水上は学校を休んでいた。
彼女はひとりきりのリビングでもそもそとオレンジの皮を剥き、貪っていた。テレビの画面には普段見ることのない平日の9時の番組が映っている。
昨日、水上は両親に「一週間だけ学校を休ませてほしい」と頼み込んだ。授業に遅れないよう自習するし、一週間後には必ず復帰するから、と約束して。
彼女は約束通り机に向かって学校の教科書を開いた。高校受験用に一度学んだ内容だったから、理解するのは簡単だ。ただ、一部の教科では板書がなければ試験で点を取ることは難しいかもしれないが。
2時間ほど経って集中が切れた。冷凍庫を漁ると小分けにした豚肉があったので、玉葱のパスタを作って昼食を済ませた。それから学習机に復帰する気力が起きずに、しばらく学校でのことに思い悩んでいた。
これからの、吉田と自分の関係。手術をして、形式上彼は異性じゃなくなってしまうのだろうか?
手術をした後の彼を、自分は好きで居続けられるのだろうか?
ソファに横たわりながら、自らの胸のノイズと向き合っていた。
夕方、インターホンが鳴った。
外界を映し出す液晶の向こう側には、弥隼の姿が映っていた。
「……心配させちゃった?」
水上はちいさく呟いて、玄関を開けた。
「う、うん……あと、吉田について話したくて」
水上は弥隼をリビングに招き入れた。髪を下ろした姿を弥隼に見せるのは初めてだった。机の上の参考書を軽く片付けてから弥隼を椅子に座らせる。
弥隼は大きく深呼吸をした。そして、どこか自信のない声色で話し始めた。
「吉田を止めるのが正しいのかどうか……わからないんだ」
「……うん。そもそも、私たちに止める権利なんてないんだろうね。私たちはただの友達で、彼の人生の大きな分岐を代わりに決定することなんてできない。」
水上はひと呼吸置いて、話し続ける。
「昨日帰ってから冷静になって、気付いたよ。私が彼を説得しようとしたのも、自分本位のわがままなんだって」
彼女は自嘲気味に呟いた。
「で、でも。水上さんは吉田のためを思って言ったんでしょ」
「ううん。ほんとうは彼が変わってしまうのが怖い自分のためだよ。それであんなに怒っちゃって……ほんと、悪いことしちゃったな」
カーテンから差し込む夕暮れの光が、寂しげな彼女の横顔の影を作り出す。窓の外からは「ゆうやけこやけ」のチャイムとともに近所で遊ぶ子供たちの声が聞こえた。
「そう……で、でも……吉田も仲直りしたがってたから、明日また、学校に来てほしいな」
「いや、学校には行かないよ。」
水上は迷いなく首を振った。
「……な、なんで!?」
「学校行って吉田くんの顔見たら、私はきっとまた彼の選択を止めようとしちゃうよ。そしたらまた衝突して……お互いにとって良くないよ」
「で、でも……吉田だって、水上さんのこと心配してるんだよ!」
「吉田くんが?」水上は目を見開いた。
「うん。自分のせいで不登校にさせちゃうんじゃないかって言ってて……」
「そっか。……でも、私のことは大丈夫。吉田くんの手術が終わったら絶対学校に戻るし、嫌いになったりしないよ。だから彼に安心してって、伝えといて?」
「手術が終わったら戻る……って、それじゃあ二度と、男のあいつとは会えないじゃないか!」
弥隼が水上の前で声を荒げるのは初めてだった。その気迫に一瞬威圧されながらも水上は弥隼をその震えた瞳で見つめ直した。
「今の彼に会えば会うほど、未練が増えちゃうだけだよ。一足早く手遅れにならないと気持ちの整理がつかないんだ」
それでいいのか。弥隼は言葉にならない感情を抑え込みながら、手汗の滲む拳をぎゅっと握る。
「……水上さん」
ふと、弥隼の心にあるひとつの選択肢が浮かんだ。もし、自分が水上の立場だったら、というお節介な想像の産物。
こんなこと、言ってしまっていいのだろうか?そんな迷いを唾液に絡めながらも、弥隼は喉から言葉を絞り出す。
「今、吉田に好きだよって言ったら、吉田は手術をやめてくれるかも……しれないよ」
水上の肩が揺れ動く。しばらく頭がまっしろになって、湯にのぼせたようにぼんやりとし、目の奥を抑えるように俯く。
水上としても、その選択は一度よぎっていた。自分本位で希望的な妄想が、何度も誘惑してきた。でも。
やがて額の熱が冷めてから、彼女はゆっくりと首を振った。
「今更そんなこと言っても、吉田くんが困っちゃうよ。」
彼女の表情には、今にも崩れそうな作り笑いが貼りついていた。
3秒間の余韻を添えて、場に張り付いた緊張感は終わりを告げた。
「……なんか、ごめん」
弥隼はそれ以上深くには踏み込まなかった。一度彼女のつけたけじめを掘り返し、揺さぶってしまうことに気付いたからだ。
「ううん、いいの。全部わたしの行動が遅すぎたのが悪かったんだ」
彼女は作り笑いを維持したまま、素っ気なく言った。
帰り際、玄関まで見送ろうとした水上に対し、弥隼は「ちょっと待って」と言って鞄を開けた。そしてその中を漁りはじめ、クリアファイルに入った数枚のルーズリーフを彼女に差し出した。
「これ……吉田から。渡してほしいって」
水上は目を見開いて、ルーズリーフを手に取った。そこには授業のノートがみちみちと書き込まれていた。
「……え?これ、板書?」
きょとんとして見上げる水上に、弥隼はちいさく頷いた。
「あいつも、心配なんだってさ」
弥隼がそう言い残して帰った後、彼女はそれを両手で握りしめながらしみじみと見つめた。
吉田らしい丸みのある文字は、心なしかいつもより丁寧に見えた。普段あまり几帳面でない彼が精一杯を尽くした痕跡のようだった。
水上は鉛筆の跡を指先でなぞり、大事そうに一枚一枚めくっていく。
そして、最後のページをめくった瞬間、水上の視線は凍り付いたように動かなくなった。
『昨日はごめんね』
その文字は、何度も消された跡が残っていた。
そうやってできた皺には、まだ彼のお日様のような匂いが残っている。そんな気がした。
わたしは、今の彼には想いを伝えない。
でも、もし彼が女の子になったとしても、私はまだ彼のことを好きでいるかもしれない。だって、吉田くんは吉田くんだから。
ただ、今はこの気持ちは封印。彼が性転換したあともし陰湿な嫌がらせを受けたとしたら、その時は私が一度してもらったように、彼に手を差し伸べてあげる。今の私にできることは、きっとそれだけ。




