1-2 失くした記憶、失くした故郷
半年前、目が覚めたときシオンは見知らぬベッドの上にいた。
辺りを見回してそこが病院の個室であることはすぐに気が付いた。でも、どうして自分が入院しているのか全然思い出すことができなかった。
それどころか、シオンは自分が誰なのかすら分からなくなっていた。
解離性健忘――つまり、記憶喪失ではないか。
シオンを見てくれた医者はそう診断を下した。頭部に強い衝撃を受けたときに、ごく稀にそういう症状に陥ることがあるらしい。
「医者は、あたしが記憶喪失になったのはこの傷のせいじゃないかって言ってた……」
シオンは右側頭部の髪をかき上げた。豊かな黒髪の中、白い地肌に肉を抉ったような痛々しい傷痕があった。
「それって……銃創だよね?」
すぐにそれと気付いたのは銃創を見るのが初めてではなかったからだ。一年前まで戦争をしていたこの国では銃創は珍しいものではない。
「多分そうだと思う。撃たれた記憶もないからよく分からないけどさ」
「もしかして、どこかで戦闘に巻き込まれたの?」
「それも記憶にないんだ。看護師さんから聞いた話なんだけど、あたし、終戦の直後――それこそラジオで終戦の放送が流れて少しもしないうちに、頭に大怪我をして意識のない状態で病院に担ぎ込まれたみたいなの。そのとき、身元が分かるものは何も持ってなかったって」
「大変だったんだね……」
終戦直後に病院に担ぎ込まれて、目覚めたのが今から半年前ということは、約半年間病院のベッドで眠り続けていたことになる。
「大変だった……のかな。記憶がないからよく分からないけど」
「あっ、それもそだね。……あれ? でも、だったらどうして自分の名前は分かるの?」
「あたし、フィスシオン病院っていう病院に入院してたんだ。そこの看護師が、名前がないと不便だからって、その病院から取って付けてくれたの」
「そうなんだね」
「あたし、意識が戻ってすぐに退院したんだけど、家族のことも故郷のことも何も思い出せなくて、どこに帰っていいか分からないまま、今までずっと故郷を捜してさまよってたんだ……。そんなときに、何でも必ず見つけてくれるっていうこのお店の噂を聞いて……、いてもたってもいられなくなってこの町に来た。ここならきっとあたしの故郷を見つけてくれるって信じて……。だから……、だからっ……!」
シオンの必死な口振りにエララは目頭が熱くなるのを感じた。もともと涙もろい方ではあるが、シオンの必死な姿に自分を重ね合わせてしまったのだ。
故郷に帰れないのはエララも同じだった。エララは戦争により故郷を――帰る場所を奪われたのだ。
しかも、エララの故郷を破壊したのは敵軍ではなかった。
戦争末期に、自国の軍隊によって呪焔爆弾というとてつもない威力の爆弾が落とされて跡形もなく消し飛んでしまったのだ。
後に残ったのは灰にまみれた街の残骸と、呪焔爆弾がまき散らした「灰の呪い」と呼ばれるとても危険な呪いだけ。その呪いが今も街を支配しているせいで誰も街に近付くことができなかった。
夜、ベッドの中で入ってうとうとしていると、不意に帰るところがないことへの不安に襲われることがある。どうしてわたしはここにいるんだろう。どこから来たんだっけ、どこに帰ればいいの? どうして帰れないの? そう思って心臓が痛いくらいにどきどきする。
そんなとき、エララは体を丸めてぎゅっと目を瞑り、
(わたしはここにいていいの。わたしはここにいていいの。わたしはここにいていいの……)
と心の中でおまじないのように繰り返しながら眠りに落ちるのを待った。
そうやって不安な夜を過ごしてきたから経験があるからこそ、エララにはシオンの気持ちが良く分かった。エララはこっそり涙を拭うと、テーブルに手をついてぐっと身を乗り出す。
「大丈夫、わたしに任せて。わたしが絶対にシオンの故郷を捜してあげるよっ。このお店に来たこと、後悔させないから」
「本当?」
「うん、本当だよ。それじゃあ、早速始めるから」
エララはレザーケースから国内地図と水晶のペンデュラムを取り出し、テーブルに地図を広げた。
「ねえ、シオン。昔から身に着けてたものって何かある? あったら貸してくれない?」
シオンは首を左右に振った。
「そっかあ。じゃあ、昔のことでちょっとでも思い出せることがあったら教えて。例えば、山で遊んだかもしれないとか、海が近くにあった気がするとか」
その問いにも、シオンは首を左右に振る。
「だよねえ……」
記憶喪失だから仕方ないか……。
失せものに縁が深いアイテムや失せものに関する記憶があると成功率がぐっと上がるのだ。そういうアイテムや記憶のことを触媒と呼ぶのだが、今回は触媒がないから苦戦するかもしれない。
……いや、捜す前から弱気になっちゃ駄目だ。シオンのために頑張らなくちゃ。
エララは地図の上にペンデュラムを垂らしダウジングを始めた。目をうっすら閉じ、ペンデュラムに意識を集中する。指先から神経が伸びてチェーンを通ってその先の水晶に繋がるイメージ。
集中、集中、集中……。
水晶と自分の境目がなくなっていくような感覚。水晶に問いかける。
ねえ、だいじょうぶ? いける?
……うん、いけるよね、いこうよ。
ゆら、ゆら……。
手を動かしたわけでもないのに、ペンデュラムがひとりでに動き出す。
脳裏にシオンの顔を思い浮かべ、心の中で彼女の姿をどんどん若返らせてゆく。幼くなったシオンに「ね、おうちを教えて」と声を掛ける。
ゆら……、ゆら……。
このまま地図をなぞるようにペンデュラムを動かしていくと、ペンデュラムがシオンと縁のあるかもしれない地の上を通ったときに水晶の揺れが強くなる。それを何度も繰り返し、一番強く反応する地点を見つける。
そこがシオンの故郷…………のはず。
お客さんの中にはこの方法――ダウジングを非科学的でインチキだと言う人もいる。
でも、この世界には科学で説明できないことが山ほどあることをエララは知っている。これだってその一つだ。見つけ屋になってから今までずっとこのやり方で失せものを捜してきたが、その的中率は偶然の域を遥かに超えていた。
意識を集中しながら地図の上に手を滑らせてゆく。そのとき、チェーンが引っ張られるような手応えがありペンデュラムが激しく反応した。
きた!
――と思ったら、水晶が意志を持つかのように高く跳ね、その勢いでペンデュラムが手からすっぽ抜けて床に落ちてしまった。
「へ……?」
今まで見たことがない反応にびっくりして思わず間抜けな声が出た。今のはシオンに縁のある地を示す反応じゃない。見えない力にエララの「捜す意志」を拒絶されたみたいな感じだった。
「今のは何……? 何か分かったの?」
シオンが不審そうな顔で聞いてくる。
「ご、ごめん、失敗失敗。ちょっと力が入りすぎちゃったかなあ……?」
苦笑しながらペンデュラムを拾う。こんな失敗は初めてだった。
もしかして、触媒がないせいでイメージが弱かったのかな。何かシオンの故郷に縁のあるものがあれば…………あっ、ある!
「ね、シオン。手出して。うーんと、左手がいいかな」
「手……。こう?」
シオンが地図の上に手袋に包まれた手を差し出す。
「ありがと。それじゃあ、もう一回やるね」
エララはペンデュラムのチェーンを持つ手でシオンの手をぎゅっと握った。
「――わ! いきなり何を……」
「あ、動いちゃ駄目、じっとしてて。ほら、シオンの故郷に一番縁のあるものって、シオン自身じゃない。だから、シオンを触媒にしてもう一度チャレンジしてみるね」
今度はもっともっと意識を集中する。
ねえ、いける? こんどこそみつけようね……。
ゆら。ゆら。
先ほどペンデュラムと自分の境目がなくなった感覚があったように、今度は自分の手とシオンの手の境が曖昧になっていく。
うん、いけそう……。
しかし、今度はシオンの手を通じて拒絶の力が体内を駆け昇ってきた。
パチン!
と頭の中に火花が走って目の前が虹色に点滅した。その拍子にペンデュラムがまた手から飛んでしまう。
「痛――った……!」
「どうかした?」
シオンは不思議そうにしている。彼女の方は何も感じなかったみたいだ。
「ううん、大丈夫。また失敗しちゃった」
「ねえ、本当に上手くいくの?」
シオンが疑うような眼差しをエララに向けてくる。
「が、頑張るよっ……」
さらに何度か繰り返したが、やはり、脳裏に、バチン、と火花が弾けて上手くいかない。それどころか回を重ねるごとに焦って集中力が失われてゆく。
何度目かの失敗をして火花のショックを脳裏に受けたとき、顔の中心がジワリと熱くなった。顔に左手を当てると、ぬるり、と温かいものが手の平を濡らした。
「あっ、血が」
シオンが目を丸くして声を上げた。鼻血だ。今の火花にやられて鼻血が出てしまったのだ。
エララの額に脂汗が浮かぶ。血が流れたことよりも、自分の力ではどうすることもできないことがショックだった。駄目だ。多分あと百回やろうがきっと結果は変わらないだろう。
何が、絶対見つけてあげる、だ。
わたしなんか、何の力にもなれてないじゃない。
自分の不甲斐なさに腹が立つ。見つけ屋になって九カ月。まだまだ半人前なのは承知していたが、これほど歯が立たなかったのは初めてだった。
机上のハンカチを手に取って鼻を押さえる。深く呼吸をして、取り乱しそうになる自分を落ち着かせる。根っこの部分は全然落ち着かなかったけれど、少なくとも表面上は冷静を取り戻せたと思う。
「ごめん。私の力不足で上手くいかないの……」
「そんな……」
「あっ、でもがっかりしないで。今、店長と替わるから。店長はあたしよりもずっとずっとすごい見つけ屋なんだからきっと見つけてくれるよ」
エララは意識して明るい声色を作ってそう言うと、個室を出て事務所の奥にあるリシテアのデスクに駆け寄った。
「……店長、いいですか」
リシテアのデスクは他の従業員のものより一回り大きなアンティーク調のどっしりしたものだった。店長という役職には相応しいかも知れないけれど、穏やかで優しいリシテアには少し重厚すぎると思う。デスクの上はきちんと整理整頓されており、隅の方にちょこんと観葉植物が置いてあった。
「あら、さっきのお客様はもう……――えっ、鼻血? どうしたの、大丈夫?」
「あっ、はい、ちょっと集中しすぎちゃったみたいで……。それよりも、あの……、すみません、交代してもらえませんか? わたしの力不足のせいで上手くいかなくて……」
エララはリシテアに事情を説明する。
「……分かったわ。それじゃあ、シオンさんは私が見ます」
「ごめんなさい」
「謝ることはないわよ。全力を尽くしても失敗することなんて誰にでもあるわ」
「でも、ごめんなさい」
「だから、謝らないの。……それじゃあ、行きましょうか」
リシテアはレザーケースを手に立ち上がると、エララの横を通るときに彼女の頭を軽く撫でた。その優しさが心にじんと沁みる。
「お待たせしました」
リシテアとともに個室に戻る。さっきまでエララが座っていた席にリシテアが腰を下ろし、エララはその斜め後ろに立った。
「こんにちは、シオンさん。私は、この店の店長をしていますリシテア・ミュデットです。エララに代わって貴女を見させてもらうので、よろしくお願いします」
「は、はい、よろしくお願いします……」
「それじゃあ、早速始めるわね」
リシテアはレザーケースからペンデュラムを取り出して、広げっぱなしだった国内地図の上にそれを垂らした。
リシテアが目を伏せて意識を集中すると、ゆら、ゆら、と水晶が揺れ始めた。反応がエララのときよりもずっと早いし、動きもはっきりしている。久し振りにリシテアのダウジングを間近で見て、エララは自分の未熟さを思い知らされる。
が――。
ひゅん、と風を切る音がしたかと思うと、エララのときと同じく、リシテアのペンデュラムが明後日の方向に飛んで行ってしまった。
(――えっ、まさか、店長でも駄目なの!)
驚きに声を上げそうになって慌てて口を手で押さえた。リシテアが失敗するところを見るのは初めてだった。
リシテアは落ち着いた様子でペンデュラムを拾い上げると、難しい顔をしてシオンに言った。
「このペンデュラムの反応……。ねえ、シオンさん。貴女、代用魔女ね?」
リシテアの言葉にシオンはびくりと全身を強張らせた。
――代用魔女。
その言葉を聞いた途端、エララの心はかつて飛んでいた戦場の空へと舞い戻った。