九 逆回転 五
それより、白湯ばかり飲んでいたせいか商品として味のついた飲み物が欲しくなった。
コーヒー、茶、オレンジジュースにアップルジュース。財布はずっと持ったままなので、どれでも買えるはずだ。
疲れているのだし、甘い物が良かろう。アップルジュースにする。そう思って小銭を出そうとした時、この自販機には代金を入れる穴がないとわかった。
馬鹿げている。怒っても仕方ないとはいえ、納得できない。
そこで唐突に記憶力が刺激された。これは、無人駅のすぐ近くにあった自販機だ。
かしゃっと音がして、自販機に代金を入れる穴ができた。岩瀬は今度こそ小銭を払った。アップルジュースのボタンに手を伸ばそうとすると、自販機の表面が渦を巻き始めた。栓を抜いた浴槽の水が、流れ落ちながらそうなるように。
岩瀬は、体操をしているかのように身体を右に折り曲げた。肋や背骨がきしむがやめられない。
「こんなところで体操ですか?」
いきなり声をかけられ、ようやく発作から解放された。
木辻母娘だ。毛野によれば、古里に浮気された気の毒な人々ということになる。相変わらず娘の方は母にしがみついていた。
「いえ、これは……」
「ホラフキさん、いた?」
しどろもどろになりかけた岩瀬に、木辻母の左足の陰から木辻娘が聞いた。
「うん、いた」
素直に岩瀬は答えた。
「わざわざ娘につきあって頂いてすみません」
律儀に木辻母は頭を下げた。
「いえ、そんな……」
「私も、ホラフキさんから教わったんですよ」
「え……?」
聞き捨てならない説明が、木辻母から発された。発された、という表現でないとら岩瀬の心に打ち込まれた衝撃の原因にならない。
「元夫の古里や、久慈先生のこと」
「ど、どんな……」
「みんなまとめてホラフキさん!」
そろって口にした木辻母は拍子抜けに明るくなった。
「ホラフキさん! ホラフキさん!」
節をとって歌うように繰り返しながら母娘で手に手を取り、二人はぐるぐる回転した。踊るように。
「ホラフキさん! ホラフキさん!」
「やめろ! やめてくれーっ!」
自販機も母娘も無人駅も、何もかもが回転した。
やっと収まったかと思ったら、どこかの病室だった。白衣に聴診器姿の三宅が、にこやかに自分を見下ろしている。自分とベッドと三宅だけがやけに明るく、他は墨を流したように暗い。
「気がつかれましたか?」
三宅は善良そのものという体で尋ねた。
「こ、ここは丸部整形外科ですか?」
「ええ、そうです。相当うなされていましたよ」
「いや、覚正村にいたはずでは……」
岩瀬は右手でこめかみを押さえようとした。




