八 理不尽な日常 七
左半身を下にして横たわったままなので、このままだとすぐに口も鼻も使えなくなるだろう。
二回も自分を傷つけた物体に、ようやく両手首の間を押し当てた。こすりつけるように動かすと、少しずつ両手が自由になっていくのが実感できた。
それからの数分間は、数十年分の緊張をまとめて味わうほどの重々しさだった。鼻の半分が水没し、息継ぎのために顔を真横に上げねばならなくなっていた。
死を意識した労苦が、ついに報われた。両手が突然自由になった。すぐに、床に手をついて上半身を起こし足も自由にする。
立てた。室内は相変わらず暗箱さながらだが、とにかく自由に立てた。
また雷が光った。シャッターのむかい側にある壁が崩れ去り、土砂の山が戸口を半分ほど塞いでいる。水もそこから流れてきていた。ついでに、自分を自由にした道具が刃のついた歯車だとわかった。製材所などにあるものだ。
歯車はもういい。シャッターを開けるか、敢えて土砂の山をさかのぼっていくか。迷っている余裕はない。
シャッターを選び、岩瀬は両手を前に出して歩いた。すぐに両手がシャッターに触れた。水位は足首より少し高くなったくらい。
岩瀬はしゃがんでシャッターの下の端に両手をかけ、開放しようとした。錆びついているからか、びくともしない。ここを先途と死力を尽くし、歯を食い縛って踏ん張った。結果は無慈悲だった。
水位は膝にまで達している。努力を継続する他はない。改めてシャッターに取りすがろうとした直後、水自体の重さに耐えられなくなり床が抜けた。水は一リットルで一キロ、一立方メートルで一トンである。室内は十メートル四方ほどで、五十センチほど水が溜まれば単純計算で五十立方メートル……五十トンになる。老朽化した建物で耐えられるはずがなかった。
底が抜けたなら地面に至るはずだ。そうはならず、岩瀬は床ごと地下室に落ちた。室内にあるがらくたもろとも。
幸い、地下室の天井……つまり岩瀬がいた倉庫だか車庫だかの床……はそれほど高くなかった。さらに、落下した場所にちょうど会議用の長机があったのでさらに高さは縮んだ。ただし背中はしたたかに打った。
「ぐううう……」
「うずくまってる場合じゃないだろ」
「ホラフキさん! い、今ごろ……」
「細かい話はあとだ。さっさと降りろ。かがんで机の足元を探せ」
「くそっ。実に助かるアドバイスだな!」
皮肉をこめた悪態をつきながらも、ホラフキさんのいうとおりにした。手探りだったが、すぐに小さな箱めいた物をつまみ上げた。釣りに使うリールのようなハンドルがあるようだ。
「病気は俺が抑えてやる。ハンドルを回せ」
「わかったよ」
ハンドルを回すと、おぼろげな光がついた。非常用の手回し発電機つき懐中電灯だ。
天井の穴から、水は遠慮なく流れ落ちている。室内にはドアが一枚あるが、長机にある冊子にも目が向いた。
長机は二枚を向かいあわせて一枚としており、座席は両脇に二つずつあった。四つの席に同じように冊子があり、いずれも『ギ計画』と表紙に書かれている。大きさはB五ノートくらいで、かなり分厚い。
懐中電灯のハンドルから一度手を離し、スイッチをつけてみた。豆電球くらいの明かりにしかならない。かなり長い間ハンドルを回さないと、バッテリーはなかなか溜まらない。しばらくの間は、まとまった光と引き換えに両手が塞がる。
とにかく、手近な冊子を一冊掴んでズボンの尻ポケットにねじこんだ。同時に、釘抜きが失われているのにもやっと気づいた。
水位はこの部屋でもくるぶしにまで達してきた。岩瀬は速やかに戸口へ進み、ドアを開けた。コンクリートに囲まれた、陰気で無機質な通路が伸びている。ハンドルを回しながら歩くのは一苦労だし、さっきの部屋とは関係なく床はぬるぬるしていて滑りやすくなっていた。
進む他ない。
単調な道のりが、どのくらい続いたことだろうか。一枚のドアが、ようやくにも終焉を告げた。




