八 理不尽な日常 六
恩田は無事に逃げられただろうか。頭を粉々にしそうな痛みの中で、必死になって岩瀬は考えをつなげた。誰がやったにせよ、久慈と無関係ではないのだろう。頃あいを測って自分を回収しに来て、手術だか解剖だかをするに違いない。
自分の一生は何だったのか。知りあいの女の子に結婚して死のうと提案され、それから箱の中でごろごろする遊びをしていたら知らない大人に見つかり、白い服にヘルメット姿の連中に近づかれ、しまいには一人の脳を二人分にすると主張した。
いやいやいや。それらは全部、幻覚だ。白昼夢だ。一人の脳を二人分など、研究者Dじゃないか。
雷を予期させる不穏なうなり声が、空から部屋の壁を通り抜けてもたらされた。まるでホラフキさんの声だ。
その直後、湿った空気のさなかに木の香りがするのを感じた。山村だからといいたいところだが、こうもがっちり閉じこめられているうえに外は大雨。とうてい、屋外から漂ってこれるはずがない。屋内、しかもかなり近い場所にまとまった木の束がある。
だからどうしたという気持ちもあったが、雷雨よりはましな刺激が岩瀬の精神にもたらされた。恩田のことは心配する以上にできることはないし、木の香りを突きとめようとする決意が気力を産んだ。
木……恩田。恩田のスマホは乗っとりを受けて、木材を縦に切断する回転刃の写真を送信してきた。
ぐるぐる回転。ぐるぐる回転。
岩瀬は、我と我が身をごろごろ転がした。あてずっぽうに、幼い頃そうしたように。手足が壁に当たろうが道具に当たろうが構わない。
雨水の音は、川を通りこして滝のようになってきた。それでも岩瀬は転がるのをやめなかった。
何回目か、頭が壁に当たった直後。いくつもの大砲を同時に撃ったような音がして、ホースで流し込むように水が床を浸していった。寒いどころの話じゃない。文字通り頭が冷え、ようやく転がるのをやめた。
「いてっ!」
思わず身体を縮めた岩瀬は手足をひきつらせた。刃物めいた物で左手の小指を切った。軽傷だが、低体温症がすぐそこまで来ている。ゆめゆめ馬鹿にできない。
しかし、好機でもあった。手足を縛っているのが繊維質のロープなら、どうにかして切断できるかもしれない。
左半身は濡れるに任せつつ、誤ってまた指を切らないよう慎重に目当ての場所を探っていく。確かに、硬く平らな品がある。ハサミやカッターよりは大きく重そうだ。
身体をよじり、刃があるとおぼしき方へ……。
「いてっ!」
今度は右手首を切った。床を濡らした水は、左耳を完全に覆うくらいになっている。




