八 理不尽な日常 五
ガラス戸を開けると、薄山の姿はさっきと変わらず土間に横たわっていた。
「薄山……」
岩瀬の台詞が不自然にとぎれた。土間に広がる血だまりを認めたとあっては、言葉が麻痺して当たり前だ。
血を踏まないように細心の注意を払い、岩瀬は薄山に近づいた。明かりがなく、ただでさえ乏しくなってきた日光もかすかにしかもたらされない。それでも、首と左肩のつけ根に刺し傷があるのは判別できた。
「先輩、薄山先輩どうしちゃったんですか?」
「死んでる」
「ええっ!?」
「入って来るなよ。土間に血が広がってる」
振り返らないまま岩瀬は警告した。
身動きがままならないとはいえ、一撃で急所を刺したのはほぼ確実だ。つまり、人殺しに一定の技術があり冷酷な心情の持ち主ということになる。
問題は動機だった。まさか痴情のもつれでもなかろう。借金や産業スパイの類でもない。
目を背けたいが、背けられない唯一の可能性、それは……。
「ついにお前のせいで犠牲者が出たな」
ホラフキさんがはっきりと岩瀬を断罪した。心外とはまさにこのことだ。
「俺のせいじゃない」
「いや、お前のせいだ。手足を縛ってなきゃ、せめて逃げ回るくらいはできたのにな」
「縛れっていったのは恩田だ!」
我知らず、大声が出た。
「先輩……そんな……あたしは縛ったほうがいいとはいいましたけど、まるであたしのせいで薄山先輩が死んだだなんて……」
恩田はたちまち涙声になった。
「ご、誤解だ! そんなつもりじゃ……」
あわてて立ちあがり、岩瀬は恩田に弁明した。
「知りません!」
回れ右して階段を降りていく恩田。弾かれたように、岩瀬はあとを追って走りだした。和室を出て数歩と行く前に、うしろから誰かに頭を殴られた。すぐに意識を失った。
水の流れる音がする。良く、脳溢血にかかると頭の中での出血が川か何かの音に聞こえるというが……。
猛烈な頭痛が、岩瀬を完全に覚醒させた。身じろぎしようとして、手首や足首が縛られているのを悟った。生死を除けば、薄山と立場が逆となっている。左耳を下にして横たわっているが、特に後ろ手なのはまずい。薄山にもそうしたのだが。
手足といえば、自分の身体も見えないほどの完全な暗闇だ。
「恩田」
自由になるたった一つの器官で、岩瀬は一番大事な人間の名を呼んだ。返事はない。
「恩田!」
大声を上げても結果は虚しかった。
「ホラフキさん、いるんだろ?」
せめてホラフキさんでもいれば気が紛れる。
「ホラフキさんにさえ見捨てられたのか……」
何かを口にすればするほど、惨めな気分だけがうごめいた。
水の流れる音はますます強まり、カメラのフラッシュさながらの強い光が一瞬室内を照らした。
三角コーンや赤白まだらに塗装したポール、虎柄に染めたロープの束。一輪車やスコップもあった。映画のセットでなければ、土建屋の倉庫に決まっている。
また光が輝いた。自分から見て左手の壁は、全面シャッターになっていた。間取りからすると、倉庫を兼ねた車庫だろうか。
数秒して、落雷の激しい音が壁をびりつかせた。
空模様があやふやなのは知っていたが、本格的な雷雨とはますますついてない。おまけに寒い。床がコンクリートなのでどんどん体温が吸われていく。今さら空腹は感じなかった。とうに胃の感覚は麻痺している。




