七 疲弊という名の休息 三
これは、あくまで診察の範囲での会話だったはずだ。仲間内の雑談じゃない。
「この診療所、以前は覚正村にいた医師が所長だったんです」
唐突に、古里は話題を改めた。それどころか、岩瀬が聞いてもないことを喋りだした。
「そ、そうだったんですか」
岩瀬は調子を合わせるのが精一杯だ。
「その医師は、木辻といいましてね。木辻所長の大伯父も医師でした」
大伯父とは祖父の兄になる。
「じゃあ、機雷の爆発事故で……」
「はい。でも、ちゃんと遺産があったんです」
「遺産……?」
「研究ですよ。戦時中、一人の人間の脳を二人分にする」
「は、はぁ」
洞窟での岩瀬の体験も異様だが、古里の開陳も異様だ。薄山がブログで語った内容と一致するだけに、笑い飛ばせない。
「私はその研究を引き継ぎたいんです。是非ともご協力頂けませんか?」
「きょ、協力って……」
「脳ですよ。生きている脳は貴重な資料なんです。脳を提供して下さい!」
「無茶です!」
「無茶でもです!」
古里は白衣のポケットから、小さなスプレー缶を出した。同時にドアが開き、恩田が現れる。右手にはデジタル式の血圧計を持っていた。左手には二足の靴を持っている。一足は岩瀬のだった。
古里は恩田に気を取られ、後手に回った。恩田はためらいなく血圧計を古里に投げつけ、彼の頭を叩きのめした。血圧計が床に落ちるのと同時に、古里はこめかみから血を流してパイプ椅子に座ったままがっくりとうなだれた。気絶しただけなのかそうでないのかはわからない。
「先輩、大丈夫ですか?」
「恩田!」
「早く着がえてください。先輩の私物はサイドテーブルにまとめてありますから」
恩田がベッドの脇を指さした。不覚にも、ずっと気がつかないままだった。
「ど、どうして……」
「早く!」
恩田が真剣この上ない表情で迫った。人前ながら、せわしなく自分の服を手にした。衣服は乾いてはいたが、塩分が残っていて肌触りがひどかった。
「そこの窓から出ましょう。靴は外に出てからはいてください」
靴を渡しつつ、恩田は次の指示を出した。したがう他ない。
窓を出ると、裏庭だった。冷たく湿った地面の感触に閉口しつつも、恩田から返してもらった靴をはく。
「こっちです」
恩田は、ブロック塀へと走った。そこは裏庭と道路の境目になっている。岩瀬の胸くらいな高さはあるが、階段式の花壇があった。塀と同じ高さだ。
花壇を荒らすのは大いに気が引ける。といって今さらためらってもいられなかった。二人して花壇の鉢植えを蹴散らしながら塀を越えた。
「走らずに、急いで歩いて下さい」
塀の先はただの道路で、まばらな民家や団地の間に畑がある。それらを透かして川が見え隠れした。




