四 偽りの村 七
ほかにできることもなく、おもちゃをなで回していると指が車輪をいじっていた。
車輪は回転する。またしても回転体眩惑症の発作が岩瀬を襲った。泥の中でむりやり胴体をねじろうとする内に、どこかで交わした会話が頭の中に響いてきた。
『一人を二人にする? 正気かね?』
高圧的な男性の声が頭に響く。声音からして老人のようだ。
『人間なら絵空事ですが、彼は人間ではありません』
生真面目そうな、若い男性の声が別個に再生された。
『どう見ても人間だろう。現に、検査した結果は君も確認したじゃないか』
高圧的な老人が断定した。
『レントゲンと血液ではそうでした。しかし、脳波は明らかに異なります』
『どうやって検出したんだ』
『機械です』
『そんなことはわかっとる! その機械はどうやって君の手元にきたんだ!』
『戦時中の製品を、個人的なつてで入手しました』
『君、明らかに逸脱だよ。速やかにその製品は廃棄して、被験者は慈善施設にでも送りたまえ』
老人の口ぶりは、自分が命じたからには当然至極に相手が応じるといわんばかりだった。
『はい、わかりました』
若い男性が答えた。それっきり声は途切れ、岩瀬の意識も途切れた。
気がつくと、バス停を前にした待合室の中にいた。身体はどこも痛くない。泥水どころか、ほこり一つ衣服にも身体にもついてない。
ポケットをあちこちまさぐると、財布やスマホも全ていつも通りだった。スマホで日付を確かめると、底なし沼にはまった日の翌日になっている。時刻は午前十時ちょうど。
ここはあの世なのだろうかと、岩瀬は酷く不安になった。しかし、スマホはまともに電波を検知している。試しにネット検索画面を開いたら、何ら問題なくニュース一覧が現れた。
警察に通報すべきだろうか。杓子定規に判断するなら、岩瀬は包丁を持った天邪鬼……かどうかはさておくとしても……に追い回された。実際に負傷せずとも、まさしく犯罪だ。
だが、前後のなりゆきをどう説明するのか。まして岩瀬は精神科に通院している。警察が細かく捜査すれば、必然的にそれを明かさざるを得ない。一度そうなれば、警察の熱意が著しく低下するのは明白だった。皮肉にも、かすり傷一つ追わず所持品も失ってないことが彼の訴えを弱めてしまっている。
スマホを胸ポケットにしまい、改めて待合室の外を見てみた。バスが一台止まっている。自動ドアの上に設けられた電子表示画面には、いつも使うバス停が終点として記載されていた。
ほとんど無意識に、岩瀬は立って待合室を出た。バスに乗り込むと、車内には彼以外の客がいないとすぐわかった。
手近な座席につくと、ブザーが鳴ってドアが閉まった。ゆっくりと、重々しく車体が前進し始める。
あれから何故助かったのか。どうして自分の衣服や身体が清潔なのか。さっぱりわからない。
窓から外を眺めると、ちょうど湯梨水門橋の前を通り過ぎたところだ。つまり、帰宅できることはほぼ確実だ。
メールを確認すると、大学から通知があった。サーバーの異常で数日間一斉休講だそうだ。オンライン化に頼り過ぎた弊害だろう。
次いで、スマホで『たもかん』のサイトを閲覧した。昨日から何も変わってない。となれば、恩田個人にメールを送るのが最優先だろう。




