影の行方
事件から数日。事務所にはようやく穏やかな空気が戻っていた。綾戸は机に向かい、山積みの書類を前に苦い顔をしている。
「……結局こういうのが一番時間食うんだよな」
ソファではこんが丸くなって昼寝し、朔夜は窓辺で煙草の火を眺めながら読書をしていた。鈴はキッチンで紅茶を淹れている。
「鈴、茶はまだか?」朔夜が視線を上げずに問う。
「今、準備してます」
朔夜は煙草をくるりと回しながら、ちらりと綾戸を見やる。「しかし綾戸。お主の展示会とやらは、騒ぎの割に収穫はあったのか?」
「あー……あったと言えばあった、ないと言えばない……いや、やっぱあった、のか?」
「どっちなのじゃ」こんがコタツの上で足をばたつかせる。
鈴が紅茶を運びながら苦笑した。「綾戸様、“見覚えのない作品”の件が気になって、まともに感想読んでないんじゃないですか?」 「うっ……それは、まあ……」
朔夜は本を閉じ、ため息をひとつ。
「まったく、どれだけ妙なものを引き寄せれば気が済むのやら」
「引き寄せてるつもりはないんだけどなぁ……向こうから勝手に来るんだよ」
「それは“引き寄せている”というんじゃ!」
「まあまあ、こんちゃん。展示会で色んな人に見てもらえたのは良かったことですよ」
「うむ……! わらわの可愛さもバッチリ伝わったはずじゃ」
「それ、展示会の主旨と違いません?」鈴が笑う。
綾戸は深いソファに沈み、頭をかく。「……にしてもさ。影の人形、あれはなんなんだろうな。展示会で誰も話題にしなかったの、逆に怖いよ」
「綾戸様の作風に“似ていた”からこそ、余計気づかれにくかったのかもしれません」鈴はそっと答える。
「私も……なんだか、不思議な懐かしさを感じて」
朔夜が月光の柄を軽く叩く。「あれは、まだ目を覚ましきっておらぬ。ゆえに静かにしておるだけじゃ」
「……ま、事件じゃなければそれでいいけど」綾戸は肩をすくめて立ち上がる。「鈴、紅茶もう一杯もらっていい?」
「はい、すぐ淹れますね」
そんな温かな日常の空気を破るように、事務所の扉が――こん、こん、と控えめに叩かれた。
綾戸が立ち上がり扉を開けると、そこには展示会で会ったあの老人――夢縫いが立っていた。以前よりずっと穏やかで、柔らかな雰囲気を纏っている。
「……来客か。珍しいの」朔夜が本を閉じる。
「お久しぶりです。顔を出すのが遅れてしまいましたな」夢縫いは深く頭を下げた。
「連絡くれれば迎えに行ったのに……まあ、どうぞ」綾戸が招き入れると、こんがむくりと起き上がり、耳をぴんと立てた。
「おお、爺よ! 元気そうではないか!」
「君は相変わらず賑やかで安心するよ」夢縫いが目を細めて笑う。
鈴はすぐに気づいたように近づき、微笑んだ。「夢縫いさん。来てくださって、嬉しいです」
夢縫いは静かに頷き、ふと、棚の上へ視線を向けた。
――埃を払われて置かれた“例の人形”。
綾戸が腕を組む。「展示会の時から気になってはいたんだが、こいつのこと教えてくれないか?」
夢縫いは人形へ歩み寄り、そっと頬に触れた。白い糸がかすかに揺れた。
「これは……私の作ではありません。かつて、ある創り手が強い感情とともに生み出した人形。しかし、忘れられ、捨てられ……長い年月の末に、ただの“器”となった」
鈴が小さく息を呑む。「誰かの……作品?」
「ええ。綾戸さんと同じ、“想いを込めて創る者”の作品です」
綾戸が眉をひそめる。「ただそれだと俺の作風と似てる理由がわからないんだよな」
「模倣です。人形神の欠片が、この器に“綾戸さんの作風をなぞるように”縫い付いた。理由は――あなたへの執着と、かつて取り込み損ねたドッペルゲンガーへの悔恨。その両方です」
朔夜が細く目を開く。「ほう……妄執のなれの果てというわけか」
鈴は震える指で人形を見つめた。胸が締め付けられるようだった。
夢縫いは鈴へと向き直った。
「この中には、かつて君だったもの。その一部が今も息づいている。姉妹のようでもあり、弟のようでもある……不思議な縁だ」
「……姉弟……」鈴はそっと人形を抱き上げた。確かに、胸の奥に小さな熱が宿る。
「鈴だったものって、ドッペルのことか。確かに一度は取り込まれて、完全に同化しきる前に朔夜に切られたけど、その一部が混じったままこの人形に縫い留められた。ある意味俺の作品の一部が取り込まれてるってことだよな」
「つまりこやつは鈴の“きょうだい”みたいなものなのじゃな?」こんが尻尾を揺らす。
「……そう、かもしれません」鈴が微笑む。
「というか、こんにとっても従弟くらいの関係にはなるんじゃないか?」
朔夜はその様子を静かに見つめていた。「鈴。お主が抱いたその感情は、間違うなよ。縁は時に呪にもなる」
鈴は首を振り、まっすぐに答えた。「はい。それでも……救いたいんです。この子を」
朔夜はふっと笑った。「ならば好きにせよ。お主ならば、正しく縫えるじゃろう」
綾戸が頬を掻きながら言う。「……家族が増えるなら歓迎だけどよ。変な事件起こすんじゃねえぞ?」
「未来の縫い目次第でしょう」夢縫いが柔らかく笑い、人形を鈴に預けた。
「君には導き手としての才能がある。この子の望む形を聞いてあげなさい」
鈴は、人形を胸に抱きながら深く頷いた。
「……はい。必ず」




