影
――どん、と軽い衝撃があって、鈴は目を開いた。
そこは、狭いワンルームだった。
薄いカーテン、色褪せた合成木の床、コンビニ弁当の空き箱。埃の積もった窓。見慣れたはずなのに、どこか胸がざわつく景色。
「……ここは」
「ん?ここは前のアパートじゃな。今見るとほんとに狭いのじゃ」
肩に乗っていたこんが、ぴょんと床に降りる。小さな足音がやけに響くのは、この部屋が“夢”だからだろうか。
鈴はゆっくりと部屋を見渡す。
かつて綾戸が一人で暮らし、夜中に帰ってきては作業机に突っ伏して眠っていた頃の部屋。鈴がまだ“鈴”ではなく、綾戸の鬱屈した感情が形を持ちはじめる前——ドッペルゲンガーとして生まれ落ちる直前の、記憶の底に沈んだ部屋。
「……懐かしいけど、胸が少し痛む気がしますね」
「わらわも鈴も、ここで生まれたようなものじゃしな」こんが尻尾を揺らす。「綾戸がどれだけ疲れていたか、わらわでも分かるのじゃ」
部屋の片隅——唯一、他より綺麗に整えられたスペースがひとつあった。
作業机だ。
暗い部屋の中、その部分だけ淡い光が灯っている。
椅子に座るのは……過去の綾戸。痩せて、肩を落とし、目の下に深い隈を作りながら、無言で塗料を混ぜ、筆を走らせている。
「……綾戸様」
鈴は思わず歩み寄ろうとした。だが、こんが前に立ちふさがった。
「待て。夢の中の影に、むやみに触るでない」
「……はい」
鈴は足を止める。
過去の綾戸の手元には——一体の未完成のフィギュアがあった。
白い素体。まだ目も描かれていない。
だが、その輪郭は見覚えがある。
(……これは)
鈴が“鈴”となる前——綾戸の負の感情が溢れ出し、形を求め、魂を孕みはじめた瞬間の依り代。
「ここが……私の原点……?」
「うむ。だが、妙なのじゃ」
「妙?」
こんが指さす。
「ここは“例の人形”の夢じゃろ? なのに、なぜ鈴の生まれた景色が映るのじゃ」
鈴の胸にざわりと波紋が広がる。
「……そうですね。夢縫いが言ってました。“夢を縫い留める者”だと」
「うむ。ということは——」
こんがくるりと身を翻し、作業机とは反対側の暗がりを指差した。
そこに、何かが立っていた。
——白い和装の青年の影。展示会で見た“例の人形”の輪郭を持つ影が、こちらをじっと見ている。
「……っ」
鈴は思わず息を呑む。
ゆらり、とその影が動いた。
こんが鈴の足の前に飛び出す。「鈴、下がるのじゃ!」
だが影はゆっくりと首を傾けただけだった。
まるで——問いかけるように。
「どうして……ここに?」
鈴が呟くと、影はほんの一瞬だけ、綾戸の作業をする過去の姿へ視線を向けた。
そして、胸の奥に直接響くような気配を発した。
「きみ も」
「……え?」
「きみ も つくられた」
鈴の心臓が強く跳ねた。
胸の奥からざわざわと、忘れていた冷たい感情が逆流してくる。
こんが鈴を見上げ、不安そうに言った。「……鈴?」
鈴は影をまっすぐ見据えた。その瞳は揺れている。
「あなたは……誰の“夢”なんですか?」
影は答えない。
ただ、静かに一歩——鈴の方へ踏み出した。 音もなく、しかし部屋全体の空気を震わせた。綾戸の過去の残滓がざわりと波立つように、古い机の上の筆がかすかに揺れる。
鈴は喉をひとつ鳴らし、影の前にまっすぐ向き合った。
影が静止する。白い和装の衣が夢の風にゆらりとなびく。やがて、低い波のような気配が鈴の胸の奥へと流れ込んだ。
「……ぼくは、ここに いたんだ」
「ここ?」鈴が問い返す。
影は頷くように、綾戸の作業机へと視線を向けた。そこでは、過去の綾戸が無表情のまま筆を走らせている。肩は沈み、呼吸は浅く、指先だけが必死に“何か”へすがるように動いている。
「つくられたんだ。きみと おなじようにね」
「……私と、同じ……」鈴は胸に手を当てた。自分が生まれた瞬間の記憶は曖昧だ。しかし、確かにここで“生まれた”という実感だけはある。
ゆったりと影が歩みを進める。柔らかな光がその輪郭を一段とハッキリとさせる。まるで、人形から人へと移り変わるように、その存在が滑らかになる。
「強い思いと沈んだ気持ちを、たくさん込められて……僕はひとりで生まれたんだ」
こんが眉をひそめる。「つまり、おぬしも“鬱屈”から生まれた存在……ということか?」
影はまた頷く。
「作られたものは、ときに自分を持つようになる」
「それは特別じゃない。人は昔から、ずっとそうしてきた」
鈴はハッと息を飲んだ。
「……付喪神……あるいはドッペルゲンガー……古来からいる存在たち……」
こんがぽつりと言う。「人が形を作るのは、“心を入れる”行為じゃからな。それが強すぎれば、心は形になる。わらわも似たようなものじゃ」
影は沈むように続けた。
「でも……ほとんどは忘れられていくんだ」
影の声は淡々としているのに、どこか痛々しかった。
「忘れられるモノ、使われるだけのモノ……人ならざる者の末路は、あまり明るくない」
鈴の胸が強く締めつけられた。影の言葉は、まるで自分自身の“もしも”を突きつけられたかのようだった。
影の視線が鈴に向けられる。
「……でも、君は違うよ」
「え……?」
「作り手と同じ時間を歩き、同じ光を見ている」
「君は……僕らの“夢”だったんだ」
鈴は思わず息を呑んだ。そして、理解した。
影は——鈴に憧れているのだ。
そして、鈴が“綾戸と共に生きている”ことに、救いの形を見ている。
こんがそっと鈴の袖を引いた。「つまり……おぬしは、鈴になりたかった、のか?」
影はゆっくりと頷いた。白い和装が揺れ、どこか寂しげな影が落ちる。
「でも、僕は……君にはなれなかった」
そして影は、部屋の奥——闇の底を指差した。
そこに、黒い糸が蠢いていた。絡まり、束ねられ、何かを必死に繋ぎとめようとしている。
「僕は……ひとりで、忘れられたんだ」
「そこへ落ちてきた“君のかけら”も、一緒にね」
「私の……かけら?」鈴が眉を寄せた。
「……人形神の、残りかすだ」
鈴の呼吸が止まった。
人形神事件——あの時、鈴になる前。ドッペルゲンガーであった自身が人形神に取り込まれた瞬間が脳裏をよぎる。
影は静かに語る。
「今の君になる前の君。その欠片に宿った彼の思い」
その記憶は確かに鈴も記憶している。鬱屈した気持ち。
「そこに混じった人形神の執念。それらを縫い留めてしまった。夢が歪んでしまった」
鈴は言葉を失った。
負の感情、人形神の残滓、それを拾った夢縫い師——そして、その“縫い留められた夢”が歪み、影となって現れた。
こんが鈴の前に立ちはだかる。「……鈴、おぬしのせいではないのじゃ」
影はゆっくりと首を振った。
「勿論、君のせいじゃない。ただ、僕らとは違う新しい道を君が歩んでいるだけだよ」
鈴は小さく呟いた。「……あなたは、私たちの“もしも”だったんですね……」
影はかすかに、微笑んだように見えた。 影の輪郭は、もはや“ぼんやりとした影”ではなかった。光を帯び、言葉を持ち、鈴のすぐ手前で――まるで人として立っているように見えた。
鈴は息を整え、一歩踏み出す。「……あなたは、私に何を伝えたいんですか?」
影は、ゆるやかに表情を動かした。人形であるはずの顔に、明確な意志が浮かんだ。
「君は……作られた存在だ。でも、それだけじゃない」
鈴は目を瞬く。「……え?」
「君は“作る者”でもある。巡煙簫は、君が生んだものだろう?」
鈴の胸がどきりと跳ねる。あの笛を生んだ時の感覚――朔夜を想い、“自分の意思で形を作り上げた”あの瞬間が蘇る。
「わ、わたしは……まだまだ綾戸様の助手みたいなものですよ……」
影は鈴の言葉を遮るように小さく笑った。
「助手が事件を解決できないなんて、誰が決めた?」
「え……?」
「シャーロック・ホームズとワトソン。ルパンと次元。名探偵の“相棒”が主役になる話なんて、いくらでもあるさ」
こんが小声でつぶやく。「ルパンは事件起こす側なのじゃ……」
鈴は思わず頬を染めた。「で、でも……私なんて、まだ……」
影は首を横に振る。その仕草はあまりに人間的だった。
「君には物に宿る声を聞く力がある」
影は胸に手を当てた。
「……僕は、君に依頼をしたくて、ここに来たんだ」
「依頼……?」鈴が息を呑む。
影は深く頷いた。
「夢縫いを……救ってほしい」
風のない夢の中で、影の衣だけが静かに揺れた。
「歪んだ夢を縫い直してほしい。僕たちの“叶わなかった夢”が、彼を縛ってしまった」
鈴は影を見つめた。影の中に、綾戸の疲れ、孤独、諦め、怒り――そのすべてが滲んで見える。
「……あなたは?」
影は、淡く、優しく笑った。
「しばらくはここで留まる。歪んだ夢が溢れないように押さえておく。それが……僕たちの、ささやかなけじめだ」
鈴の胸が強く、痛く、そして温かくなる。
影は鈴をまっすぐ見つめて言った。
「鈴。僕たちの“夢”を……君に託す」
夢の部屋が揺れた。現実へと戻る光が走る。
こんが鈴の手を握る。「鈴、戻るのじゃ!」
影は最後に一言だけ、穏やかに告げた。
「助手君。君が解く番だ」
光に包まれながら、鈴は強く頷いた。




