獏と夢再び
――夜の気配が深まりはじめた頃、事務所の扉が静かに開いた。
「ただいま戻りました」鈴が靴を脱ぎながら声をかける。
「ふわぁ……疲れたのじゃ……!」こんが肩に乗っていたプチプチをばらまきながら入ってくる。
最後に綾戸が荷物を引きずり、ひと息ついた。「展示会……人多すぎ。肩がしぬ」
灰皿で火を落とした朔夜が、ゆっくりとこちらへ振り向いた。
「ご苦労であったな。混みようはどうであった?」
「まあまあって感じかな。件ちゃん効果で客足は悪くなかったけど……」綾戸は眉を寄せる。「問題は一つ」
朔夜は察したように目を細めた。「例の人形か」
鈴が頷く。「はい。誰も“見ようとしない”んです。まるで……認識されていませんでした」
「わらわが言った通りなのじゃ。あれは“夢のにおい”がする」こんが腕を組む。
綾戸は椅子に座り、深く息を吐いた。「それだけじゃない。展示会で……夢縫いって名乗る老人に会った」
その名を聞いた瞬間、朔夜の手が止まった。
「……夢縫い、とな?」
「知ってるのか?」綾戸が身を乗り出す。
朔夜は静かに頷いた。「名だけはな。古い怪異よ。忘れられ、朽ちかけた夢を“縫い留める”者だ。失われた思い出、形になりきれなかった願い……そういったものを拾い上げ、ほどけぬよう繋ぎ止める」
鈴が息を呑む。「忘れられた夢……綾戸様が昔作って、途中で捨ててしまった作品のようなものも?」
「うむ。基本は善なるものだ。己のためではなく、誰かの夢を守るために働く。人の記憶の底を歩くような存在ゆえ、人の目に映ることは滅多にない」
綾戸は腕を組んだ。「……そんな奴が、俺の目の前に現れて何を言ったと思う? “あの人形はいつか動き出す”ってさ」
沈黙が落ちた。事務所の空気が、わずかに軋むように冷えた。
こんがしゅるりと綾戸の肩に乗る。「なあ綾戸、あれ、本当におぬしの作ったものではないのじゃろ?」
「断言できる。あのタッチは俺じゃない。作りかけの俺を真似た誰か……いや、“何か”だ」
朔夜は机に目を落とし、静かに言った。「綾戸。夢縫いが現れたとなれば……“あれ”は、誰かが望んだ形。おぬしに見つけられることを待っておるのじゃろう」
鈴が不安そうに眉を寄せる。「では、あの人形は……まだ完全に“目覚めていない”ということですか?」
「うむ。だが、動き出す前兆はすでに始まっておるであろう」
その瞬間――
机の上の、例の人形のガラスケースが。
――コトン、と小さく揺れた。
綾戸は即座に身を乗り出す。「……今、動いたよな?」
鈴も息を呑んだ。「はい……確かに」
こんが耳を立てる。「においが強くなっておる……目覚めが近いのじゃ」
朔夜は静かに歩み寄り、ガラス越しに人形を覗き込んだ。その表情は、ひどく穏やかで、同時に得体の知れない何かを秘めていた。
「綾戸。この“夢”は、まだほどけておらぬ。だが……誰かが糸を引いておる。おぬしの過去か、別の誰かの意志か」
綾戸は唇を噛む。「……動き出す前に、正体を突き止める必要があるな」
朔夜が頷く。「うむ。これは善性の怪異であるはずだが……縫われた夢が歪めば、怪異もまた歪む。次は“内側”から調べるとしよう」
鈴が静かに手を挙げた。「……その役は、私が担うべきでしょうね」
「待て。それなら俺が」
綾戸が言葉を紡ぎ終わる前に、鈴の指が眼前にゆっくりと立てられる。
「いいえ、夢の中なら私の方が向いてますよ。それに、この子の気持ちは私が一番わかるはずです」
こんも続いた。「わらわも手を貸すのじゃ! 夢の中なら、鼻が利くのじゃ!」
朔夜は少しだけ目を細め、懐からスマホを取り出した。「ふむ……ならば、こやつの力を借りるとしよう」
「こやつ?」綾戸が眉をひそめる。
朔夜が画面を数回タップすると——スピーカーから間延びした声が漏れた。
『……んぁ……? 僕、呼ばれた……?」
「獏!」こんが尻尾を立てて跳ねた。「久しぶりなのじゃ!」
スマホの画面に、羽の生えた手のひらサイズの象がふわりと浮かび上がる。映像の中なのに、どこか香り立つような存在感がある。
『んー……眠い……僕、まだ寝てていいよね……?」
「却下」朔夜が容赦なく言い切る。「仕事をしてもらうぞ、獏」
『仕事……? 夢、食べるやつ……?」
「すまぬが潜る方だな」
『あぁ〜……そっち……。うん、できるよ。僕、夢の道を開くだけなら得意だもん……」
鈴がそっと人形のケースを見つめる。「この“夢”の内側に入れる?」
獏は画面の向こうでこくんと頷いた。『うん……でも気をつけてね。これ、ぜんぶ“誰かの忘れた気持ち”だから……触ると痛いこともあるよ」
「大丈夫。ちゃんと帰ってきますから」
こんがそっと鈴の肩に寄り添う。「わらわも一緒に行くのじゃ。夢の匂い、見逃さぬぞ」
獏がゆっくりと息を吸い込む動作をし、画面の光が淡く広がる。
『じゃあ、開けるね……夢の入口を」
スマホの画面が静かに揺れ始め、事務所の空気が水面のように歪む。ガラスケースの中の人形が、まるで眠りの深みに落ちていくように影を深めた。
朔夜は短く言った。「鈴、綾戸。互いを見失うでないぞ」
綾戸は息を呑み、鈴の手を握った。「……頼んだ」
鈴は静かに頷き、獏の開く“夢への道”へ、一歩踏み出した。「ところで、僕の報酬は?」
見上げる獏に対して、朔夜が綾戸を指で刺す。
「ほれ、鈴も頑張っておる。綾戸もいいところを見せぬか」
「報酬って、くそ。鈴の奴、俺にこれを押し付けるために自分が潜るって言いだしたな」
青ざめる綾戸の額に獏の鼻がぴたりと押し当てられる。
「おい、獏。少し待ってくれ、まだ心の準備…」「いただきます~」問答無湯の獏の声。その数秒後、羞恥に悶絶する綾戸の声が夜の事務所に木霊した。




