朔夜の居場所
夜の堤は霧に包まれていた。風も音もなく、ただ月光が水面に滲む。その先に、黒い花のような靄が渦を巻いている。
「……ここだな」綾戸が呟く。手にした懐中電灯の光が、すぐに霧に呑まれた。肌を刺すような妖気が周囲を覆い、空気が重く沈む。
「空気が……揺れています。結界のようなものが張られている」
「ちょっと力貸してくれ。結界だってんならぶっ壊す」綾戸の声に鈴が頷き、笛を吹いた。淡い音色が広がり、霧の層がわずかに割れる。その隙間に渾身の念を込め、拳を叩き込む綾戸。
パキリ。
霧が綻び、中の音があふれ出す。
三人は息を合わせて進む。足元の地面が軋み、影が蠢く。やがて、視界の先に二つの影が見えた。闇の中、月光と糸が交錯している。刃が鳴り、花が爆ぜる。夜そのものが戦場のように荒れ狂っていた。
「朔夜!」綾戸が叫ぶ。その声に、朔夜が一瞬だけ振り返る。だがその隙を、桜喰は見逃さなかった。
「やはり来たか。……その顔、間違いない」桜喰が嗤う。紅い瞳が綾戸を射抜く。「魂の波が、まるで同じ。朔夜、見ろ。おぬしの傍に立つその人間こそ、あの夜、おぬしが斬った“主”の魂の欠片だ」
朔夜の表情が凍った。手の中の月光が震える。
「やめろ……」
「事実だ。おぬしが愛し、守れず、そして斬った者。その魂が、形を変えて再びおぬしの前に現れた。皮肉なものよ。哀れな夜叉よ」
桜喰の糸が走る。朔夜の動きが一瞬止まり、刃が遅れた。糸が胸を貫き、闇が広がる。
「朔夜様!」鈴の悲鳴が響く。だが間に合わない。桜喰の腕が闇を抱き、朔夜の身体が呑み込まれていく。
「やめろッ!」綾戸が駆け出した。その瞬間、澄んだ音が響いた。カラン――月光が地に落ち、銀の光が夜気に散る。
桜喰の胸の奥で、朔夜の姿が消えた。代わりに桜喰の影が肥大し、花弁が黒く染まっていく。「ふふ……これで、ようやく。おぬしの光も、あの夜の記憶も、我の中で咲くのだ」
「ふざけるなよ……!」綾戸が叫び、月光を拾い上げる。刃は熱を帯び、淡く脈動していた。「朔夜を返せ!」綾戸の想いに応えるように月光は再びその姿を変える。
分厚く、荒々しくも、絶対に折れぬ様を示した姿。月光ー歳破。
鈴が制止の声を上げるが、綾戸は聞かない。怒りに任せ、桜喰へと突き進む。月光の刃が夜を裂き、光の弧が花弁を散らす。だが桜喰の身体は影そのもの様に、斬っても形を変えて襲いかかる。
「無駄だ、人の子よ。多少姿を変えたところで、その刃は届かぬ」
「黙れ……!」綾戸の声が嗄れる。刃を振るうたび、光と影がぶつかり、音が炸裂する。だが次第に防戦一方に追い込まれる。
鈴は巡煙簫を奏でる。白い煙が立ち上がり、霧のように綾戸を包む。
煙が幻を散らし、桜喰の影を鈍らせる。だが、それでも押し返すには足りない。
煙と光が拮抗し、夜が軋んだ。
「まだ足りぬのじゃ……」こんが呟く。小さな掌が震えている。「何か手は」
縋るように周囲を探すこん。
しかし、その瞳は影の中に確かな輝きを見つける
「朔夜がまだ中で……呼んでおるのじゃ!」
鈴が目を見開いた。「本当?!」
「うむ。まだ終わっておらぬ」
桜喰が嗤う。「ならば、その声ごと呑み込んでやろう!」
影が爆ぜ、花弁が嵐のように吹き荒れた。光と音と煙が交錯し、夜がひとつの巨大な心臓のように脈動する。
鈴は歯を食いしばり、こんの肩に手を置いた。「少しでも隙を作ります。こんちゃん、あれを!」
こんは頷き、小さな掌を鈴の胸へ当てる。狐火のような光が瞬き、鈴の腕を包み込んだ。煙が螺旋を描き、金属のきらめきが生まれる。腕に装着されたのは、かつて鈴が使っていた戦闘用のガントレット――。
「懐かしい感触……これで、少しは戦える」鈴が拳を握り、巡煙簫を腰に戻した。「いきますよ、綾戸様!」
「おう!」綾戸が頷く。二人が同時に地を蹴った。
まるで呼吸を合わせるような動き――元は同じ魂だった二人の連携。
煙の奔流の中、二人の動きはまるで鏡写しだった。鈴の拳が風を切り、綾戸の刃がその軌跡をなぞる。息を合わせた連撃が桜喰の糸を断ち、踏み込みと同時に光が閃く。鈴が前を、綾戸が後を追い、煙と刃の二重の波が夜の闇を削っていく。桜喰の花弁が裂け、影が後退する。まるで二人の意思そのものが一つの律動となり、夜を追い詰めていくようだった。
「甘い!」桜喰が糸を操り、夜を裂く。だが、鈴の拳がその糸を弾き飛ばす。「このくらい……!」
綾戸が踏み込み、月光が再び輝いた。刃が弧を描き、桜喰の腹を裂く。黒い血と共に、赤い花弁が溢れ出した。
「ぐ……っ」桜喰が呻き、その場に膝をつく。「もらった!」大上段から振りかぶった月光。綾戸が振り下ろす瞬間ー桜喰いの唇に歪んだ笑みが浮かぶ。「油断したな」
次の瞬間、左右から伸びた糸が鞭のように弾けた。綾戸を狙う。
「「危ない!」」
鈴とこんが同時に飛び出した。こんの周囲には葉が展開し、鈴のガントレットが火花を散らす。衝撃音。光が弾け、二人の身体が吹き飛んだ。
「鈴! こん!」綾戸が叫ぶ。だが、鈴は苦しげに笑って見せる。「大丈夫……今です!」
その声に迷いはなかった。綾戸は一瞬だけ彼女の瞳を見た。
今だ迫りくる無数の細い糸。自らの傷など顧みず、綾戸は躊躇なく、桜喰の胸へと手を突き込む。
——闇の内側
朔夜は膝をついていた。そこは底の見えぬ深淵だった。空気は淀み、呼吸するたびに胸が焼ける。耳鳴りのような低い唸りが、絶え間なく骨の奥で鳴っている。目を開けても何も見えない。ただ黒い水のような影が漂い、触れたものをすべて飲み込んでいく。
立ち上がろうとしても、足が動かない。血が冷え、意識が朧に崩れていく。何かを掴もうとしても、掌をすり抜けるのは闇だけだ。過去の声が反響する。桜喰の嘲り、主の最期、綾戸の叫び、鈴とこんの声——すべてが混ざり、遠く霞んでいく。
「……やめろ、逃げろ。助かってくれ……」
声を出しても、誰にも届かない。喉から出た言葉がすぐに霧散し、黒い空気に呑まれる。足元から闇が這い上がり、体を締め付けていく。骨が軋み、皮膚が裂け、魂が削れていく。朔夜は拳を握った。血が滲んでも、痛みすら遠い。外の世界で誰かが戦っている気配がする。鈴の笛の音。綾戸の叫び。それでも、ここからは何もできない。
(もう、終わりなのか……)
胸の奥で何かが折れる音がした。その時——前方に、かすかな灯がともった。闇の中で唯一の光。淡い月光のような輝きが漂い、ゆっくりと形を成していく。
そこに、伸ばされた手があった。懐かしい温もり。かつて、自分が切り離してしまったはずの手。
——それが、もう一度差し出されている。
『信じろ』
誰の声かもわからない。
しかし、その響きは確かにあった。
朔夜は息を呑み、震える手でその手を掴む。
瞬間、全身に熱が走る。
光が爆ぜ、闇が砕ける。
その熱が、朔夜の胸に確かな願いを瞬かせた。
ひとつの声が重なった——
『共に往く』
光が弾け、世界が反転する。朔夜の瞳が開かれた。月の光がその身を包む。
——眩い閃光が闇を裂いた。光は桜喰の身体の内側からあふれ、黒い影を押しのけていく。悲鳴のような音が響き、夜が震える。綾戸が掴んだもの。
確かな熱を帯びたそれを一気に引き抜く。
桜喰の胸の奥から、血ではなく、光の花弁が舞い散る。
中心から吹き上がる光が渦を巻き、堤の上を照らした。光は一瞬で広がり、戦場を包み込んだ。鈴とこん、そして綾戸の身体を柔らかな光が包み、吹き荒れる花弁と衝撃の中から彼らを抱き上げる。風も衝撃も、その瞬間だけは遠ざかった。まるで誰かが彼らをそっと掬い上げたように。
月光りに照らされる淡い姿が徐々に姿を現す。夜の闇に溶け、光を返す、美しい銀が朝露のように流れる。額には白亜の角が天を衝く。
手には月光が握られている。
その刃は主の息遣いに合わせて脈動し、紅と白銀が交じり合う光を放っていた。
周囲の煙と桜が刃に溶けていく。
まるで夜に咲く花そのもののように、朔夜はそこに立っていた。
「月光——響華」
その名を告げると同時に、刃が鳴いた。風が逆巻き、桜喰の糸を音もなく断ち切る。花弁の光が地を這い、闇を祓っていく。
桜喰の声が震えた。「……この刃、滅びではなく——」
「赦しだ」朔夜が静かに告げる。「奪うため。守るため。すべてを超え、繋ぐための刃」
彼女の背に、鈴とこん、そして綾戸の姿が光に包まれて映る。巡煙簫の音がそれに重なり、風が夜を解き放っていく。音と光とが重なり合い、世界がひとつの和音となって鳴った。
「共に在る——これが、我らの往く道!」桜喰の影が咆哮を上げ、残された力を振り絞るように暴れた。花弁が黒く染まり、空を覆うほどの糸が四方八方に広がる。世界が軋み、夜そのものが悲鳴を上げていた。
朔夜は動かない。微かに振られた月光、その一振りで風が起こる。
光が奔り、音が弾け、糸が次々と断ち切られていく。
刃の軌跡が花弁となり、空を舞う。桜喰の体を覆う闇が削がれ、赤い光が滲む。
「どうして……おぬしだけが温もりを得る!」桜喰の声は悲鳴に近かった。顔が歪み、瞳に憎悪が滲む。「我とて同じ夜を生きたはずだ! なぜ、我は救われぬ!」
「済まなかった」朔夜が答えた。その声音は静かで、どこか慈悲を含んでいた。「憎しみも、痛みも、願いも。共にあった。それを否定せぬこと。それが我が赦し」
桜喰が後退る。「赦す、だと……?」
「貴様の罪は我が罪。すべて我が引き受けよう」
響華が月を仰ぎ、紅と白の光が交じり合う。刃が音を鳴らし、花弁が空へと散った。朔夜が踏み込むたびに地が震え、光が波紋のように広がっていく。最後の一閃が放たれ、桜喰の胸を貫いた。
「その憎しみ、我が抱く」
桜喰の身体が崩れ、花弁となって散る。黒が薄れ、白が広がり、夜が静かにほどけていく。桜喰の瞳に一瞬だけ安らぎの色が宿った。
「……朔夜……やはり……おぬしは……」
その言葉は風に溶け、光と共に消えた。朔夜は黙って目を閉じ、月光をゆっくりと下ろす。
「さらばだ、我が影よ」
紅の花弁が夜空に舞い、やがて静かに溶けていった。夜風の残響と花弁の余韻が重なり合う中、朔夜は月光を持ち上げた。その刃が光を受けてひとすじの軌跡を描き、まるで祈りを封じるように、鞘口へと導かれる。流れるような所作で月光が鞘に吸い込まれていく。カチリ。
夜の終わりを告げるその音が静かに響き渡る。




