桜の行方5
――風の匂いが変わった。湿った土と古い桜の香りが入り混じる。夜になる前の、静かな境界の空気だった。
朔夜は街外れの堤を歩いていた。夕陽は沈みかけ、空は朱と群青のあわい。足元では水脈がかすかに光を返している。あの夜と同じ風、同じ月、同じ匂い。違うのは、もう誰も隣にいないということだけ。
「……我も、ようやくここまで戻ってきたか」
風が頬を撫で、包帯の下で痛みがじんと響く。まだ癒えていない傷。だが、それが自分を繋ぎ止める鎖であることもわかっていた。この痛みこそ、過去の証。
堤の上に出ると、空気が一変した。夜の冷気が頬を打ち、桜の花弁が一枚、風に乗って舞い降りる。朔夜は手を伸ばし、その一枚を掴んだ。花弁は生きていた。微かな呼吸のように脈動し、朱の光を宿す。
「来たか」
声は風の中から聞こえた。次第に輪郭を帯び、闇の中に人の形を取る。桜喰――あの夜と変わらぬ姿。だが、肌は蒼白く、瞳は血のように赤い。花弁をまとった衣が、風に揺れて音を立てた。
「しばらくは眠っていた。おぬしに刻まれた傷を糧に、己を癒していたのだ。……そして、見ていた。おぬしの今を、あの者たちとの日々を」
「覗き見とは趣味が悪い」朔夜の声は静かだった。だが月光の柄を握る指先に力がこもる。
「妬ましかったのだ」桜喰が笑う。冷たく、美しく、血の匂いを帯びた笑みだった。「人の中に紛れ、茶を飲み、笑い、傷を庇い合う……。それが“怪”であるおぬしの生き方か。実に滑稽だ。人を捨てて夜叉となったはずが、結局は人の温もりに縋るか」
「人の温もりを知るのは、悪ではなかろう」
「悪ではない。だが――我にはできぬ」桜喰の声が低く沈む。「おぬしが“生きて”いる限り、我は永遠に“怪異”のまま。だからこそ、妬ましいのだ。おぬしのような存在は、この世にあってはならぬ」
花弁が吹き荒れ、空気が軋んだ。地を走る影が伸び、二人を包む。夜が完全に落ちた。朱の瞳と紅の瞳が、闇の中で交わる。
「ならば、試してみるがよい」朔夜が囁く。腰の月光が鞘鳴りを上げた。「妬みもまた、情のかたちよ。ならば我が、この手で受け止めてやろう」
風が止まり、世界が息を潜める。次の瞬間、桜喰の影が閃き、糸が夜を裂いた。朔夜は刃を抜き、月光が銀の弧を描く。
二つの光が交錯した瞬間、空に散った花が音を立てて咲いた。
—
同刻
綾戸・鈴・こんの三人はほぼ同時に事務所の前へ戻ってきていた。夕闇の街にネオンが灯り始め、看板の光が路面を揺らす。三人の足取りは重く、顔には疲労の色が濃い。
「収穫は?」綾戸が尋ねる。
「人影はなし。噂だけが歩いていました」鈴が答える。「まるで、誰かが“見せて”いるみたいです」
「こっちも同じじゃ」こんが尻尾を落とす。「花のにおいは濃いが、実体がない。まるで霧のようじゃ」
綾戸は短く息を吐き、ポケットから鍵を取り出す。「……報告は後だ。まずは帰ろう。朔夜の傷もあるし」
扉を開けた瞬間、三人の動きが止まった。事務所の明かりはついたまま。茶の香りがまだ残っている。だが、朔夜の姿はどこにもない。
「……まさか」鈴の声が掠れた。
机の上、便箋一枚。『すまぬ』の二文字だけが墨で滲んでいる。
「行ってしまったのじゃな」こんが小さく呟く。尻尾がしゅんと落ちる。
綾戸は紙片を手に取り、噛みしめるように目を細めた。
「すぐに無茶ばっかり、しやがって!」
すぐに机の引き出しを開け、資料を広げ始める。地図、古い写真、SNSの投稿記録、花びらの破片。どれも桜喰の痕跡を指しているが、どこも決定打にならない。
「足跡はあちこちにある。けど、どれも“囮”だ。奴は――朔夜を分断するために撒いた」綾戸は唇を噛む。「だが、必ず繋がる線があるはずだ」
その時、こんが机の上に飛び乗った。小さな足で書類を踏みしめ、腕を組む。「探し物なら、わらわの出番じゃろ」
鈴と綾戸が顔を上げる。「……どういうことだ?」
「本気で忘れておるな?わらわ、こっくりさんの化身じゃぞ。呼び声を辿るのは得意なのじゃ」
そう言うと、こんは古地図を広げ、綾戸が拾った花びらを中央に置いた。淡く光がにじむ。
「綾戸も鈴も指を置くのじゃ」
花弁に鈴と綾戸の指が重なる。
「よし。いけるぞ」
こんは尻尾を揺らし、指先で花びらをつつく。「問う。朔夜は、いずこへ――」
言葉と同時に、花びらひとりでに動き、地図の上を滑る。淡い赤い光の尾を残しながら、いくつもの線を渡り、やがて一点で止まった。
「……旧堤の東端。あの公園の跡地じゃ」
鈴が笛を握りしめる。
「決まりだな」綾戸が立ち上がる。ノートを懐にしまいながら言った。「いつも保護者ぶってる朔夜を連れ戻しに行くぞ」
「当然なのじゃ!」こんが尻尾をぴんと立てる。
鈴も頷き、巡煙簫を抱えた。「朔夜様……どうかご無事で」
夜風が窓を叩き、紙が舞い上がった。机の上に残された花びらが淡く光り、三人の背を押すように揺れた。
—
堤の上、桜喰の糸が舞い、夜風を裂いた。刃と糸が火花を散らし、地をえぐる音が響く。花弁が弾け、夜が咲き、光と影が交錯する。
—
「やはり鈍ったな、朔夜。人の中で眠りすぎたか」
「そう見えるか?」朔夜は月光を構え、低く踏み込んだ。風が刃を押し返す。月の光が水面を割り、波紋が闇を照らす。二人の影が絡み合い、交差するたびに花弁が吹き荒れた。
「それでも――おぬしは未だ“人”を斬れぬ。夜叉でありながら、情を抱いた。滑稽なことよ」
「妖が情を抱くことがそこまで滑稽か」
「ほう?」桜喰の瞳が細くなる。「その口ぶり、まるで“誰か”の影響を受けたようだな。……綾戸、だったか?」
一瞬、朔夜の動きが止まった。糸のような念が閃き、頬を掠める。赤い線が浮かぶ。だがすぐに刃が返り、念を断ち切った。
「ふむ、図星か」桜喰が笑う。「あの男の魂、妙に懐かしい匂いがした。おぬしも感じておるだろう?」
「戯言を……」朔夜が言いかけた刹那、桜喰がさらに踏み込む。花弁が爆ぜ、視界が白く染まる。
「忘れたとは言わせぬ。あの夜、己の手で斬った者の魂。その欠片が、今もおぬしの傍にいるのであろう?」
「黙れ!」
月光が閃いた。夜風が裂け、花弁が吹き飛ぶ。刃の光が桜喰の肩を掠め、血のような花が散った。
「……面白い」桜喰が嗤う。「やはり、その名はおぬしに刻まれているのだな」
「名など覚えておらん」朔夜の声が震える。「あやつは、我のかつての主。ただ、それだけだ」
「否、朔夜。我が屍を喰ったあやつは――“おぬしが守れなかった者”。その証が、刃の響きに残っておる」
朔夜の胸の奥が焼けるように痛んだ。耳の奥で、微かな音が鳴った気がした。遠く、誰かの声。
懇願するようなかつての主の最後の声。
「……ならば、その因果ごと断つ!」
朔夜が踏み込み、月光を振り抜く。刃の軌跡が光を描き、闇に花弁が咲き誇った。桜喰の糸がその光に絡み、きらめく血飛沫が夜に散る。夜が震え、世界が軋む。
「果たして、斬れるか――その“縁”を!」桜喰の声が爆ぜ、闇が奔った。




