桜の行方4
最初の兆しは、ありふれた掲示板の書き込みだった。『季節外れの桜、ふたたび』『赤い桜が動いてる』『映像が揺れて、誰かの声が混じった』。都市伝説系のフォーラムからSNSの断片動画まで、同じ文言が別々の地点から同時に上がり始めた。地図に落とせば、新旧の街路と川筋に沿って薄く曲がった弧を描く。それはまるで、見えない指でなぞられた傷跡のようでもあった。
鈴がモニターを切り替え、短い息を吐く。
「……昨日から異常ですよ。この増え方。前の時はここまで多くなかったのに」
「ずいぶん殺気だっておるな。我を仕留め損ねて機嫌が悪いか?」朔夜が応じる。朱の瞳が薄い光を掬い、机の縁に置かれた月光の刃が、鞘の中で微かに鳴った。
こんが椅子の背からひょいと顔を出す。「においがするのじゃ。前の……花のにおい」
綾戸は顎に手を当て、モニターとは別に紙の地図を広げた。蛍光ペンで点を打ち、線を引く。「こっちの古地図と重ねると、弧は“旧堤防の跡”に沿ってる。戦時中の空襲で焼けた区画の縁か。こんなものなぞって何が目的だ」
「目的などなかろう」朔夜の声は乾いて静かだった。「記憶を食む者は、筋を辿る。花が咲くための水脈のようにな」
音もなく立ち上がろうとする朔夜を鈴のまなざしが制する。
「朔夜様の傷は未だ癒えてない。そんな状態で行かせられません」
「鈴に言われては敵わんな」朔夜は短く笑って見せる。
「俺の言うこと全然聞かないくせに鈴の言うことは聞くよな」不貞腐れる綾戸に朔夜が返す。
「仕方なかろう。胃袋を押さえられておるのだ。美味い甘味には変えられん」
冗談でも空気は僅かに温まる。
「朔夜の回復を優先だ。今日のところは、俺と鈴とこんで“調査だけ”に出る。絶対に単独で接触しない。遭遇しても追わない。それならいいだろ?」
こんが胸を張る。「わらわ戦うのは専門外じゃもん!」
朔夜はしばらく黙し、やがて目を伏せた。「……よかろう。頼む」
その言い方は、譲歩というより、祈りのようだった。
出発の支度を整える中、朔夜は机の引き出しを開けた。中から淡い光を帯びた小さな笛――巡煙簫を取り出す。
「鈴、これを持って行け。お守りの代わりじゃ。あやつの気配に触れたとき、音を鳴らせ。必ず“帰る道”を示すはずだ」
鈴は笛を両手で受け取り、慎重に頷く。「……ありがとうございます。必ず、大事にします」
「道具は持ち手の心を映す。焦るな。無理をすれば、お主の音が濁る」
「はい」
朔夜はそれを見届けるように目を細めた。「ふむ、似合っておる。それもずいぶんお主を気に入っておるな」
その穏やかな声を最後に、空気が再び張り詰める。
—
綾戸の足跡は旧市街へと向かっていた。昼下がりの路地裏は湿り気を帯び、どこか古い呼吸のような匂いが漂う。彼はポケットのノートを取り出し、掲示板の投稿と地図の情報を照らし合わせながら歩を進める。古い煉瓦の壁に手を触れると、わずかにざらつく感触。その隙間から白い花の欠片が一枚、風に舞い上がった。
「……ここも、か。」
足元には焼け焦げたような跡。まるで記憶が地面に焼き付いているようだ。綾戸はしゃがみ込み、破片をビニール袋に入れる。目を細め、呟く。「残滓がまだ動いてる。奴の残した足跡か」
古地図を重ね合わせると、線は街を縫うように旧堤へと続いていた。その筋がまるで神経のように、都市の下層を通っている。
風が吹き抜け、どこか遠くで笛のような音がした。
—
鈴とこんは反対側の商店街にいた。昼の喧騒の中、甘味処の湯気と人の声が入り混じる。
「ここまで人の多い場所で姿を見せるとは、ずいぶん余裕があるのじゃ」
こんが小さく鼻を鳴らす。
鈴は鞄の中の巡煙簫をそっと撫でる。「桜喰は人の心に残った断片に寄ってくる。賑わう場所こそ、古い想いが混ざるのかもしれません」
屋台の隅、風鈴が鳴った。その音に紛れて、微かな残響。鈴が耳を澄ませると、一瞬だけ音の層がずれる。世界の縁が、わずかに波打つような違和感。
「今、何か聞こえたのじゃ」
「ええ……音が、歪みました」鈴は笛を取り出し、唇を寄せる。ひと吹き、柔らかな音が商店街に溶けた。煙のような薄白が広がり、人の気配を透かす。だが幻は現れず、ただ冷たい風だけが通り抜けた。
「ここは外れですね。ただ通った。それだけの雰囲気です」
こんが頷く。「朔夜のにおいが遠のいたのじゃ。きっと、誘われておる」
鈴は巡煙簫を握りしめ、空を見上げた。昼の光は白く、けれどどこか遠くに、微かな花の気配が混じっていた。
—
その頃、事務所には朔夜ひとりが残っていた。昼の陽が傾き、窓の縁を金色に染めている。綾戸たちの声が去ったあとの静けさが、妙に落ち着かない。
机の上には未整理の資料、使いかけの茶碗、そして桜喰の残滓——一枚の花弁が封じられた小瓶があった。朔夜はそれを取り上げ、指先で軽く振る。瓶の中で花弁が震え、淡い光が脈動するように広がる。
「……呼んでおるのか」
光は微かに文字のような形をとり、空気に漂った。《一人で来い》——その意図は明確だった。挑発ではなく、誘い。まるで昔日、主の命を待つ夜のように、静かで確かな呼び声だった。
「そういうことか」朔夜は目を細める。
胸の奥がかすかに疼く。綾戸たちの顔が浮かぶ。鈴の真っ直ぐな瞳、綾戸の苦い笑い、こんの小さな尻尾。彼らを巻き込みたくはなかった。だが、あれは自分の罪の終着点。放置すれば、また誰かが“花”になる。
朔夜は筆を取り、便箋を一枚引き寄せる。墨の匂いが静かに漂った。
『すまぬ』
それだけを書く。多くを語れば、迷わせる。残すのは意志だけでいい。
机の上に筆を置き、立ち上がる。包帯を締め直し、月光を腰に差す。鞘がわずかに鳴り、微かな光が刃先を照らした。
「……端から貴様は我が討つつもりよ」
朔夜は振り返らずにドアを開けた。春を思わせる風が室内に吹き込み、置き去りの茶の香りを揺らす。花弁の瓶が小さく震え、淡い光を放った。それはまるで、行く先を示す灯のようだった。




