煙の音
――昼下がり、綾戸と朔夜が出かけた後の事務所。
窓を開け放つと、春の風が柔らかくカーテンを揺らした。外の喧噪が遠くに溶け、ここだけ時間が少し遅れて流れているようだった。
「静かですね」湯呑を片付けながら鈴が呟く。
机の上で金色の毛を揺らしながら、こんがごろりと転がった。「ふわぁ……静かすぎて眠くなるのじゃ」
「今日くらいは心も体も癒してくださいね。お二人とも」
「どうせふたりで甘いものでも食べておるのじゃろ。わらわたちも、何か食わんか?」
鈴がくすりと笑う。「そうね、お昼にしましょうか」
こんは机の端にちょこんと座り、尻尾をゆらゆらと揺らした。「わらわ、きつねうどんが食べたいのじゃ」
「前から思ってたんですけど、こんちゃんがそれ食べちゃうと共食いですよね?」
「おいなりさんもきつねうどんも、お揚げを使えば何でも狐と言いおってからに! 食べるほうの気持ちも考えてほしいものじゃ!」
「じゃあ、たぬきにします?」
「いやじゃ! お揚げは必須じゃ!」
鈴は思わず笑いながら、鍋の支度を始めた。湯気が立ち上るたびに、事務所の中に出汁の香りが広がっていく。こんはその匂いにうっとりしながら、尻尾をふりふり揺らした。
「ふぅ……幸せの匂いなのじゃ」
「あなたはほんと、食べてる時が一番幸せそうですね」
「食うは生きることなのじゃ。立派な修行じゃぞ」
二人は笑いながらうどんをすすり、外の風がまた静かにカーテンを揺らした。
食べ終えると、鈴がふと箸を置いた。「……朔夜様の傷、深かったですね」
「うむ。桜喰とか申しておったな。あやつ、相当厄介な相手じゃ。朔夜があそこまでの傷を負いながら、とどめを刺せなんだとは……」
「……そうですね」
鈴の声にはわずかに翳りが混じった。こんはその横顔を見上げ、尻尾をゆるりと巻いた。「なあ、鈴。わらわ、朔夜のために何かできぬかの?」
「できること、ですか?」
「うむ。前にお守りを作ったこともあったが、あれも気休めにすぎぬのじゃ。何か、もう少し……役に立つものを」
鈴は小さく笑みを浮かべ、こんの頭をそっと撫でた。「その気持ちだけでも、十分ですよ」
「ふむ……でも、わらわは優秀なのじゃ! 何か必ず見つけてくる!」
勢いよく机から跳び下りたこんは、尻尾をぴんと立てて奥の物置へ駆け出した。鈴は苦笑を漏らしつつ、その小さな背中を見送った。
しばらく事務所の掃除を行うが、こんの姿は戻らない。
鈴は箒を持ったまま、ふと奥の方に目を向けた。物置の扉は半開きのままで、薄暗い中から微かに埃が舞っている。
「……また、何か見つけたのかしら」
ため息をつきながら近づこうとしたその時、奥から小さな声が聞こえた。「おお……これ、まだ動くのじゃ……?」
鈴の足が止まる。「こんちゃん?」
返事の代わりに、乾いた音が響いた。金属が擦れるような鈍い音。続いて、ふわりと白い煙が扉の隙間から流れ出てくる。
「……ちょっと、嫌な予感がしますね」
鈴がそっと扉を開けると、こんが埃まみれの木箱を前に立っていた。箱の中には、黒漆の大煙管がひとつ、静かに光を反射している。
「鈴、見よ! わらわ、すごいものを見つけたのじゃ!」
埃まみれの木箱の中にあったのは、黒漆の大煙管。かつて朔夜が女郎蜘蛛との戦いで使った呪具だ。
「これ、まだ動くのじゃ!」とこんが誇らしげに掲げた瞬間、煙管の口から白い煙がふわりと漏れた。
「こ、こんちゃん、それは――!」
鈴が制止するより早く、煙が部屋いっぱいに広がり、視界が真っ白に染まる。しばらくして風が抜け、残ったのは倒れた箱と、こんが尻尾を丸めてうずくまる姿だった。
「こ、怖かったのじゃ……」
「まったく、呪具を不用意に触っちゃ駄目です」鈴は苦笑しながらも、その煙管を拾い上げる。表面の黒漆はひび割れ、内部の霊脈はほとんど断たれていた。しかし、ほんの僅かに、鈴の指先へ熱が伝わる。
「……まだ、息がある」
「生きておるのじゃ?」
「かなり危ういですね」
鈴は考え込むように煙管を見つめた。春の陽が射し、黒漆のひびが淡く光る。その姿に、ふとある考えがよぎった。
「……形を変えることなら、できるかもしれません」
「形を?」こんが首を傾げる。
「煙管の力は“煙”。視界を奪い、認識を惑わす。その原理を保ったまま、別の形に転じれば――」
微かに残る熱が鈴の手に伝わる。
熱が伝える願いの形。
儚いが確かに伝わるそれを鈴は懸命にくみ取ってゆく。
「音に変えるのです。煙の流れを操り、音として放つ。幻を煙ではなく“響き”として結ぶ。大煙管を、煙笛として生まれ変わらせましょう」
こんの瞳が輝いた。「ほうっ、それは名案なのじゃ!」
「まだ成功するかは分かりません。でも、試してみる価値はあります」
二人は机の上に道具を広げ、鈴が古い呪符をほどき、金粉と漆を混ぜ始めた。こんは細い尾で煙管を支え、真剣な顔で鈴の手元を覗き込む。
「煙は目を惑わすもの。けれど、音は導くもの――」鈴は呟きながら、煙管の先端に細工を施した。「幻を封じるのではなく、正しき道を示す音として」
黄昏がゆっくりと訪れ、風が静まる。仕上げの符を貼り終えたとき、鈴が静かに息を吐いた。「……できました。名を変えましょう。この子はもう“大煙管”じゃない」
こんが期待に尻尾を揺らす。「では、なんと呼ぶのじゃ?」
「“巡煙簫”<じゅんえんしょう>。この子がもう一度朔夜様の導きになりますように」
鈴が息を吹き込むと、淡い音色が事務所に満ちた。霞のような白煙が立ち上り、光を受けて七色に揺らめく。幻でも呪でもない、穏やかな響きだけがそこに残った。
「……きれいなのじゃ」こんが目を丸くする。
鈴は微笑んだ。「うん。いい音」
外の空が夕焼けに染まり、風鈴の音がかすかに重なった。机の上で、新たに生まれた巡煙簫が淡く光を宿していた。




