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妖奇譚~社畜やめて怪異と過ごす日々~ ※年内毎日更新  作者: Tomato.nit
第四章 巡り往くもの

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一刻の憩い

夜が明け、戦いの余韻がまだ事務所の空気に滲んでいた。朔夜の傷はいまだ癒えてはいないが、同時に桜喰へ刻んだ傷も深く、しばらくは動きがないだろうと綾戸は踏んでいた。嵐の前の静けさとも言える束の間の休息。そんな空気を包み込むように、今日は穏やかな陽が差していた。


「……こういう日は、息抜きだな」綾戸が新聞を畳みながら言う。

「ほう、珍しく殊勝なことを言う」朔夜が微かに笑う。

「たまには“人間らしく”過ごすってやつだ。怪異抜きでな」

「お主は半分ほど人の道を外れておるが、そういう殊勝さは嫌いではない」


鈴が湯気の立つ湯呑を置きながら、柔らかく笑った。「お二人で出かけるんですか?」

「買い出しだ。米も味噌も底をついた」綾戸が財布を掲げる。

「我を誘う理由がそれとは味気ないのう」朔夜は肩をすくめたが、口元には小さな笑みが浮かんでいた。

「外の空気もたまにはよいものですよ」鈴が微笑むと、朔夜は目を細めた。「……では、ついでに一つ、寄り道をしてもよかろう」


* * *


昼下がり。雨上がりの街は光を受け、瓦屋根から水滴がきらめきを放っていた。二人は肩を並べ、ゆるやかな雑踏を歩いている。通りのざわめき、行き交う人々の笑い声、焼き魚と醤油の香りが風に乗って流れてきた。


「こうして歩くのも、ずいぶん久しぶりだな」綾戸が言う。 「名前に感けて夜を追ってばかりでは、昼を忘れる。……たまには悪くない」朔夜の声は、いつになく穏やかだった。


ふと、商店街の角に新しい店が見えた。白い暖簾には『甘味処 一時』の文字。黒蜜ときなこの甘い香りが、春の風とともに漂ってくる。


朔夜の足が自然と止まった。「……甘味処、か」

「おい、まさか——」

「血の匂いよりは、こちらの方が性に合う」


そのまま朔夜は暖簾をくぐった。綾戸はため息をつき、しかし苦笑して後を追う。


店内は新しい木の香りに満ちていた。窓際の席には柔らかな午後の日差し。朔夜は静かに腰を下ろし、品書きを開く。指が止まったのは“白玉あんみつ”。


「……本当に甘いの好きだよな」綾戸が呆れたように呟く。


「苦味も辛味も噛み締めた身だ。たまには甘味も必要であろう」


「カレーも甘口のくせに偉そうに言うなよ」


「辛味を引き立てるのは、甘味の余韻よ。分からぬとは、まだまだ青い」朔夜は小さく鼻で笑った。


ほどなくして運ばれてきた白玉あんみつは、琥珀色の蜜が光を受け、春の陽射しのように淡く揺れていた。朔夜は匙を取り、ひと口すくう。唇の端に、ほんのわずかな笑み。


「どうだ?」綾戸が問う。


「……いささか甘みが足らん。だが、悪くない」


「それがいいんだよ。こういうのは」


朔夜はもう一口すくい、淡く頷いた。小さな幸福の余韻が、言葉よりも確かに伝わってくる。綾戸はその横顔を眺めながらこれから待つであろう桜噛と朔夜の戦いに思いを馳せる。


「小難しい顔をしおって。似合わんぞ」


「誰のせいだとーー」


小言の一つでも漏らそうとした瞬間。綾戸の口に匙が突きこまれる。


「無粋なことは今は飲み込んでおくがよい」


綾戸は返す言葉も見つからず、匙ごと白玉を噛みしめた。口の中で蜜が広がり、甘さが胸の奥のもやもやをゆっくりと溶かしていく。喉の奥を通るその感覚が、言葉にできぬ思いまで流していくようだった。


会計を済ませ、ふたりは店を出た。春の風が通りを抜け、遠くの風鈴が小さく鳴る。甘味処は目的地ではなかったようだ。朔夜はそのまま歩き出す。


「……まだ寄り道があるのか?」綾戸が問う。

「うむ。少し、見ておきたい場所がある」


辿り着いたのは、街外れの古い神社の裏手だった。今では人の気配も少ないが、かつては戦乱の頃、血煙の立ち込めた戦場であり、桜が刀を振るった地でもある。


朔夜は足を止め、風に揺れる草の匂いを感じた。鳥の声とともに、遠くで風鈴が鳴る。今では子どもたちが遊ぶ公園のような場所になっていた。


「なんとなくだけど分かるよ」綾戸が呟く。 「うむ。あの夜、我が手を染めた血が流れた地。今は、花と笑い声が満ちておる」


朔夜は月光の鞘に手を添え、静かに空を見上げた。青空に溶ける桜の花びらが舞い、光の粒が刀身に反射する。


「過去は消えぬが、変わることはできる。あやつらの眠るこの地が、人の笑いに包まれるなら――それでよい」


綾戸は隣に立ち、頷いた。「俺もこいつには助けられたな」


朔夜の視線が月光へと落ちた。陽光の中でも刃は淡く光を返している。


「かつてお主が女郎蜘蛛と対峙し、月光を抜いたとき――あの刃は確かに震えた。あれは恐れでも怒りでもない、応えの震えじゃ。斬ることを選ぶのではなく、“護るために斬る”者の手にだけ宿る光。あの瞬間、月光はお主をもう一人の主と認めた」


朔夜の言葉を肯定するように、綾戸の瞳に移る月光の姿は淡く、あの時の歳破の幻影を重ねる。


「刃の本質は“斬る”こと。だが斬るという行為の意味は、持ち主の心で変わる。何を断ち、何を繋ぐか――その意志を映す鏡。それこそが月光の本質よ。」


綾戸は黙ってその言葉を聞きながら、月光の刃に目を落とした。陽光を浴びた白刃が淡く脈動し、まるで呼吸しているように見える。風の音が止み、刃の中にわずかな光の筋が揺らいだ。


「……まるで、生きてるみたいだな」


「生きておるとも。人に長く使われた道具は、やがて付喪神となる。こやつもまた、人として、そして鬼として我に仕えてきた身。いまやそれに近しいものとなっておろう」


そっと月光の鞘に触れる綾戸。その指先に微かな熱が伝わる。その想いに応えるかのように、鞘の中で月光がわずかに鳴った。まるで先ほど口にした白玉の甘さが、喉の奥に残るぬくもりとなって蘇ったようだった。


蜜の余韻が胸の奥に溶けていく感覚と、刃の奥から伝わる熱が重なる。甘さと鋭さ、どちらも生の証のように彼の中で混じり合う。朔夜が静かに目を細めた。


「……味わいとは、刀も人も同じよ。何を込めて口にするか、何を込めて握るか。同じものも異なる」


綾戸は静かに息を吐き、口元に淡い笑みを浮かべた。胸の奥に残る蜜のぬくもりが、指先の熱と溶け合う。月光の鞘はまだかすかに温かく、風に鳴る風鈴の音を拾って、やわらかく光を返していた。

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